もし、愛する人が死んだら、身近な人が泣いていたら

 私は時たま、私の愛する人が死んだら、ということを考える。私はちゃんと悲しむことができるだろうか。そういうことを考える。お墓の前で手を合わせ、そこで対話をすることができるだろうか。そういうことを考える。

 私はおそらく結構な人でなしである。そういう自覚がある。誰に言われたわけでもない。ただ単に自分だけでそう思うのである。周りの人はそのことに気がついていない。おそらく。しかし、私は気がついている。私は人でなしである。しかし、別に私はそれを悪いことだと思っていない。しかし、人でなしであるせいで常識のあまりの虚構性に笑ってしまうことはある。その笑いに気がついていて私に何も言ってこない人は私が人でなしであることに気がついている。しかし、そんな人はいない。だから、私は私しか私が人でなしであることに気がついていないと思っている。
 ただ、私は友人に「お前は人でなしだ」と言われたことがある。四時くらいの食堂で。それは「例えば母親が死んだとして、私はどのように存在しているだろう、と考えるのはわくわくしない?」と言ったからである。しかし、私は持ち前の人でなし力でその場を切り抜けた。しかし、わくわくするのは事実である。私がどのように変化するか、それが気になるのは事実である。その時の私が書くもの、読む仕方、それが気になるのは事実である。しかし、「わくわく」という言い方はよくなかったかもしれない。

 私はお墓の前で泣くだろう。逆に言えばお墓ができるまでは泣かないだろう。いや、泣くかもしれない。どうだろう。

 逆を考えてみよう。目の前で泣いている人がいたらどうするだろう。わからないが、実体験としてそれがあったとき、私は大抵、どのような間柄でも包み込もうとした気がする。簡単に言えば抱擁である。何度か記憶がある。私は泣いている人がいたら、近くで泣いている人がいたら抱擁してしまう。なんというか、それは私の不能である。なんというか、それ以外ができないからそうしてしまうのである。
 では、私がそうされたらどうだろう。おそらく私はわんわんと泣くだろうと思う。しかし、おそらく途中から「泣く」ということを「する」だろうと思う。泣き止んでいる、精神は泣き止んでいるが身体は泣いているという、別に演技で泣いているわけではないがどんどんとグラデーショナルに演技へと向かっていることだけは確信されているような、引き延ばされたメシアなき時間、それを経験するだろうと思う。けれど、私はおそらく、その極限、終末まで至らないうちに眠るだろう。そして、その抱擁してくれた人はどこにいるのだろう。わからない。逆で考えてみよう。
 目の前で人が泣いている。わんわんと泣いている。私は抱擁してしまった。それしかできなかった。その人はわんわん泣き続ける。そしていつしか寝てしまった。私もおそらく寝るだろう。近くに布団があるとすれば布団に連れて行くだろう。その人を。そして私はその布団以外に寝床になりそうなところがあればそこで寝るだろう。なかったら、どうするんだろう。できるだけ離れて同じ布団で寝るかなあ。私は徹夜ができないし。
 さて、つまらない結論に至ってしまった。逆にして考えてみよう。私はどうして欲しいだろうか。わからない。別になんでもいい。おそらく朝にはけろっとして、もしくはけろっとしたふりをして、少しばかりその、抱擁してくれた人を見つめたあとに少し笑うだろうと思う。これは強がりだろうか。抑圧だろうか。逃走だろうか。私にはわからない。が、そうするだろうということは付き合いの長さゆえにわかる。私は私と長く付き合ってきているからである。

 もし、私が死ぬときに愛する人が側にいたらなんと言うだろうか。早逝の場合は決めている。「ありがとう」とだけ言うと。なんというか、「気にせずに生きてくれ」とか、そういうことが本心なのだが、そうやって言うと「気にせずに生きる/気にして生きる」というテーマが重くのしかかってしまうように思われるから「ありがとう」と言うことに決めた。いま。「決めている」と書いた後に「気にせずに生きてくれ」と書こうとしたがテーマが重くのしかかることに気がついて変更した。そもそもなんでこんなことを決めているのだろうか。別に死ぬつもりもないのに。
 けれど、私はなんとなく早逝しそうな気がするのである。なぜかそういう気がするのである。なぜだろうか。私はいたって健康、いまのところありがたいことに健康である。けれど、早死にしそうな気がするのだ。燃え尽きて死ぬ!/。みたいなタイプでもないと思うから、不思議なことである。ただ、なんとなく、スパッと死にそうな気がするのである。でも、本当にそう思っているのだとしたら愛する人に「ありがとう」と言う暇もないと思うのではないだろうか。まあ、「私が死ぬときに愛する人が側にいたら」とちゃんと限定しているから、仮定の話であることは明確であるが。

 さて、ここまで仮定の話をし続けたが、何が言いたかったのだろうか。わからない。いつも私は書きながら「わからない、わからない、わからない……」と半ば演技で喚いているが今回は本当にわからなかった。けれど、時たま考えてしまうことについて、答えを出そうと思ったのである。しかし、出なかった。やっぱり愛する人が死ぬのは嫌だからである。もしかしたら死ぬのが嫌なのが愛する人なのかもしれないが。
 私は意外と弱そうである。私はわざわざそのことを丹念に確認しているのかもしれない。私は強がってしまうからである。いや、実際に強いのかもしれないが。なんというか、惰性を程よく保持するために、ちゃんとアクセントをつけられるように、私はこのような仮定の話をしているのかもしれない。

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