適当で断片的な哲学入門

ブロックとしての哲学とファイトとしての哲学とクリエイトとしての哲学がある。

支配者としての哲学者は一つの極めて単純な回路に変換されるべきである。

「自律的であるということを閉鎖的であるということにせず、他者に開かれているということを包摂の方便にしない」(『非美学』14頁)

もはや話し合うことが叶わない。そんなところまで自らを分化させる。いや、本当の哲学はおそらくこの「分化させる」すら「分化させられる」にするものである。

「理論の形骸化とその適用先の拡張はトレードオフの関係にあるのだ。」(『非美学』20頁)

問いを立ち上げないと見えないものがあることは事実であるが、問いを立ち上げるべきだというのは事実ではない。しかしそれは信念でも主張でもない。それはなんなのだろうか。

深く考えることは楽しいものです。なぜなら、深く考えれば考えるほど、私は分化していくからです。まだ皆さんはこの理由がどういう理由なのかおそらくよくわからないと思いますが、これは事実なのです。

問題の力能と問題の形態を区別しなくてはならない。区別し切ることは難しいかもしれないから、少なくとも区別することに取り組まなくてはならない。

うーんとね、問題の力能と形態をある程度区別せずにある程度区別して掴み取ること、これが重要なんですね。極めて重要。その上で似た問題制作者と対比を作れるようにしておくんですね。とりあえず。これも極めて重要。

なんというか、一応使ってる対比ってもんがあるんですよ。問題を作るために一応使ってる対比ってもんが。それに頼ってもいいんですけど、それに頼りすぎたらいけないんですね。なぜかって言いますと、それは問題制作者に寄りすぎるか、問題制作者を置いてけぼりにしすぎるか、どっちかになりやすいからです。だから、問題制作者を違う問題制作者と並べて、しかも似ている二人を並べて、そうすることで問題を形態的にしすぎないことが大切なんですね。わかりますか?

なんというか、めちゃくちゃ気が合うというか、問題自体が似ているというか、そういうものを作っている二人を話し合わさせると、おそらく「埒が開かない」ところまで行くと思うんですよ。似ていれば似ているほど最短で。その「埒が開かない」が哲学にとって、そして問題の制作にとってとっても重要なんですよ。

で、おそらくですけれど、哲学の本質というのはこの「埒が開かない」をどこに見るかだと思うんですよ。それを考えるためには似ている人たちを同じテーマで話させるしかない。例えば、「変化と同一性」とかね。いや、私は頭の中でなんとなくですけれど永井均と福尾匠を並べていて、そのテーマはたぶん「変化と○○」で、永井均は「同一性」、福尾匠は「差異」なんですね。で、二人とも「埒が開かない」ところまで行こうとしている。いや、福尾はそうでもないと思うんですが、結果的に行っていることには変わりがない。福尾は『非美学』の冒頭で以下のように書いています。

本書はジル・ドゥルーズの哲学を論じる。中心となるのは、哲学は何をするものなのか、つまり哲学はどのような実践なのかという問いだ。この問いはすぐさま二重化される。ドゥルーズは哲学をどのような実践として定義しているのか、そして、ドゥルーズ自身はどのように哲学を実践しているのか。本書を通して私はこのふたつの問いのあいだを機織りの杼のように行き来することになるだろう。

『非美学』12頁

ここにすでに実践的な感じがあるんですよね。永井均にはそういう実践性はない。ただ、それは別に実践的じゃないとかではなくて勝手に皆さんが実践してくださいという、そういう放任性がある。そんな感じがします。まあ、福尾にも「勝手さ」みたいな主題があって、それはそれで放任的なんですけれど、それは求められた放任なんですね。永井はその「求められた」を無視しているわけではないですけれど、なんというか……

二人の会話をずっと聴いていたいんですけれど、福尾のほうがコミュニケーションの押し合い圧し合いみたいなものを考えていると思います。永井はコミュニケーションの不思議を考えていると思います。ただ、「変化」については結構違うと思います。それが「同一性と差異」で出会っているわけです。そしてそれが「哲学」の響き、「コミュニケーション」というテーマ、その違いを生み出している気がします。もちろんもっと細かく言えば、永井は例えば入不二基義とどう違うのかとか、福尾は例えば千葉雅也とどう違うのかとか、そういうことは考えられます。し、それぞれのテーブルを用意することもできます。例えば前者は「現実性」、後者は「身体」でしょうか。例えばですよ。ただ、私はとりあえず永井と福尾をテーブルに呼んだ。私の哲学にとってそれが重要だと思ったから。ただそれだけのことです。

ただ、絶対的に中立な私などあり得ないことは言っておくべきでしょう。私の哲学は結局何かに影響されないと始まらない。そういう当たり前のことを確認しておきましょう。いまは福尾のほうを読んでいるので問題の制作法そのものが福尾的になっている、そんな気がします。AとBを並べるX。XにおけるAとB。浸透しちゃってるんですね。まあ、別にそれでいいし、そうじゃないと考え始めたり書き始めたりすることすら不可能だと思います。ただ、それにあぐらをかいていていいわけではない。まあ、悪いわけでもありませんが。

ちなみに「AとBを並べるX」とか「XにおけるAとB」とかは東浩紀が『ゆるく考える』で展開している、大まかに言えば「公/私」の議論と関係しています。さらに言えば、東の「固有名」論を手がかりにした「偶然性」に関する議論は永井と千葉をテーブルに並べる可能性を示唆している気がします。入不二と福尾は並ぶ可能性すらよくわからないのでそこに私の哲学のヒントがあるのかもしれませんね。これはただの予感ですが。

こういうふうに予感を働かせるとなぜかテーブルに並ぶんですね。予言の自己成就だとは思いますが。ただ、だからこそ入不二と福尾を読もうという気になるのです。私は私を焚き付けているわけですね。こういうふうに。哲学にはこういうどうでもいいカップリングの論理、適当さも結構大切なんですよ。おそらく。あらかじめ決まったテーマじゃなく同じ席につく。そういう適当さも大切なんですよ。これは願いでも祈りでもありますが。

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