啓蟄 二十四節気小噺

寒い地域では木の麓のあたりから雪が溶け出すらしい。
僕はそれを見たことがないのだが、友達に聞いた。
雪の地域では、そうなるともう春が来るまで指折り数えるほどになるらしい。

僕が、『季語集』という本を読んでいると、その現象が取り上げられていた。
その現象は、「木の根が開く」と呼ばれるらしい。
木の根の周りは太陽光の反射がよくあるので温まるのだろう。そういう科学的なことを言った知人を風流でないなぁ、と筆者は言っていた。よくある言論だ。

虫は地面が温まると、地上に出てくるものが多い。寒いと、土の中の方が暖かいのだ。
すると、不思議なことに気がつく。木の根の周りは暖かいし、そこには虫がたくさんいるのではないか。だから、木には虫がたくさんいるのだろう。

風流な人は科学的ではいけない。
僕は風流な人というのがわからない。
懐古的な生き方をしていればそれでいいのか?
と僕はさまざまな風流な人論を聞いてそう思う。
懐古的というのはたしかに風流な生き方の一部ではあると思うが、それが全てではない。科学的な人でも、風流なのだ。
こういうことを言うと、どんな人でも風流になるではないか。
と言われることがある。
そう言う人は自分の風流しか認めていないのだ。自分の土の中でぬくぬくと自分だけを信じているのだ。
僕は暖かくなった木の根の周りで見たことのない虫たちと木を登りたい。土の中で一生を終えたくない。
そういう人に限って、暖かくなっても土の中に閉じこもっている。
見たこともない色の虫、嗅いだことのない匂いの虫、聞いたことのない鳴き声を発する虫、さまざまな虫がそこにいるかもしれないのに。

人は妄執すると虫になる。

これは、散歩愛好家の古川愛哲の言葉だが、半分間違いで半分正解のように思われる。

人は妄執する前から虫だ。けれど、妄執すれば、虫になった。と勘違いする。

僕たちは執着がなくなるほどに、本当の自分がいないことに気がつく。
そんなことを部屋の中から雪も降っていない庭の木を眺めて思うのだ。

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