One more time,One more chanceを聴いて 2
私の書いた名作に「One more time,One more chanceを聴いて」という文章がある。私はこの文章に倣って、しかもフォーマットだけでなく、内容まで倣って、いや、「内容」というのは何か、と言われたら、なんというか、「One more time,One more chanceを聴く」ことによって文章を書くという形式を倣って、文章を書いてみたい。先に読みたい人は読んでくれるといい。別に読まなくても読めるようにするつもりであるが。
https://note.com/0010312310/n/nc8244ed2ba8a
聴く前に考えておきたいことを潜在させておこう。私が、なんというか癖として潜在させてしまうのは、いわゆる「恋」のようなものを歌った歌、おそらく「One more time,One more chance」もそうだと思うのだが、そういう歌を私は「今の私と過去の私」、いや、本当のことを言えば、ただ単に「私と私」の歌として聴いてしまう。例えば、ポルノグラフティの「サウダージ」は「私は私とはぐれるわけにはいかないから」で始まるのだが、あれのバリエーションとして「恋」の歌を聴いてしまうのである。このような癖があることをまずは指摘しておきたい。(私が私に対して「君にはこういう癖があると指摘しておこう」と言うのは変なことのように思われるかもしれないが、私は昔から、と言っても大学に入る少し前に「哲学」とやらに触れてから徐々にその癖をドライブするようになってきて、最近はそれ以外の快楽がよくわからなくなってしまっている。)
さて、元の文章は、少なくとも私から見れば素直な文章で、おそらく推敲も少なく、「ただ単に書いた」ような文章であるが、この文章はすでに「こう読むんですよ」みたいなことを二つもしてしまった。ただ、そのように読まなくてはならない理由はない。だから、ここから始まると思ってもらってもいい。ただ、文章は少し前を潜在させつつリズミカルに進展していくと思うので、もはやこれは先んじたある種の「洗脳」なのであるが。(ただ、「洗脳」は先んじていないわけがない(ここには面白い話があると思うし、もしかすると本文に関わるかもしれない。これは序文である。)のだが。)
さて、聴こう。お風呂から上がって耳から水が抜けてきたから。ちなみに、誰も気にならないと思うが、私はSportfyでJabraというイヤホンで聴いている。いや、聴く。だから水が抜ける必要があったのだ。この「だから」がわかる人はあまりいないかもしれないが。(ここにも面白い話はありそうなのだが、今日はそういう話はしない。話したいことが明確にある方がいいのかもしれない。良い文章を書くには。)
聴いた。ダメだった。考えながら聴いてしまった。もちろん、享楽のために考えることは素敵なことであるが、なんというか、何を書こうか、と思って聴いてしまった。件の文章では、
と書いているが、今の私にはここまでしても静かに聴くことができない。いろいろなことを考えてしまう。純粋に享楽することができない。このことは私の悩みである。
一つ思った。私はこの歌を歌っている人にはなれない。あんまり、私は願わない。それはなぜか。未来の私がその願いに縛られるのが嫌だからである。これは私にとっての倫理的な問題というか、そういうものである。未来の私には自由に楽しんでほしいという。そういう問題である。ただ、件の文章のような良い文章は「君」になってしまって、それを追いかけてしまう。私はさっきから「件の文章はよかった」ということばかり言っている。それに比べて今は、なんてことは言わないが、ただ昔を懐かしんでいる。昔を懐かしむということは別に今を悔やむということではない。それは別のことである。
ここからは少し専門的な話になってしまうのだが、『論理哲学論考』における「論理形式」の意味がやっと、ある程度わかるようになった。私は冒頭で「内容」と「形式」の話をしたが、「形式」は極限までいくと語りえない。いや、むしろ、「語りえない」ことによって「語る」ことが可能になっているのである。しかし、これは一つの「祈り」であり「願い」である。別に「語りえない」のは構わないが、それならそれで「示されうる」ように。という「願い」である。そして、『論理哲学論考』は「祈り」である。(もちろん、指南書である面も大いにあるが。)
さて、専門的な話は終わりにして、思っていたことを一つ一つ、特に省察もせず表現していこう。
私の記憶では、最初私はたまに私の愛する人が死ぬ想像をしてしまうことを考えていた。私はたまに愛する人、Sさんとしよう。Sさんが死ぬ想像をしてしまうのである。そしてお墓の前でとても静かに、透徹しているところをたまに、ごくたまに想像してしまうのである。ただ、私はこのことを「してしまう」というくらいに悪いことであるとは思っていない。仕方がない。しているのである。
次に私は「よくわからない理由」について考えていた。ように思う。
中盤あたりにこの歌詞がある。この理由は正直なことを言えばよくわからない。ただ、なんだか説得力がある。「自分をいつわれない」理由において最も最適な理由であるとすら思える。なんというか、理由というものの作為性というか、賦活性というか、そういうもの、その奥にある「死」の見つめ返しというか、そういうものを感じる。
そう言えば、誰かの短歌に「細かき水の粒子に還る」という七七があって、その五七五に「見つめる」ということがあった気がする。上に行けば、二階の私の部屋に行けば、この歌の全貌はわかるのだが、私は「死」に「見つめ」られ、「細かき水の粒子に還る」という感じがする。
このことに少し関係があると私は思うのだが、私の快楽は「私と私」が集まる仕方、度合い、擦れ、聞こえ、そういうものによって存在しているように思われる。それが「集まる」ためには「離れている」必要がある。ただ、今日したことはあまりにもすでに集まってしまっている。形式があまりにも内容的に同一すぎる。私には向いていなかった。ように思う。ただ、歯磨きをする前に一つ、思うことを言っておこう。
さて、この文章は明らかに未完成であり、あまりにも完成された件の文章の方が静かではあるだろう。しかし、私は私から蠢く力をギュインと強度化して、それで楽しむ享楽を発見しようとしているのである。
二階に来た。推敲も微かにした。歌を見つけた。
この静かさに私は反抗しているのである。ウィトゲンシュタインと共に「祈る」のである。ただ、突き抜ければ以下のようになれる気がするがなれていない。それは素直に認めよう。この「引き受ける」ということ。それが君にはないのだ!といちゃもんをつけた。私はわかっているのだ。これはただのいちゃんもんだと。
そう。山崎まさよしも中城ふみ子も、そして件の文章の私も、結局文学者なのである。私は哲学者である。だから、「祈る」のだ。「願う」のだ。かっこわるくてもそうするのだ!言い訳もせず!