ゆらりゆらりとエッセンス
丁寧に書くというのは難しい。
私は丁寧に書くのが嫌いであるし、それをしなければならないとも思っている。
そんなこと、嫌なのに丁寧に書くのは、私のものを読んでくれた私がもう一度考えてくれることに私の文章の価値があると考えているからである。
この「いつかの書き手である私」と「いつかの読み手である私」の関係と共に読者は存在していると私は思っている。
その関係においては、原典的なテクストは存在せず、「いつかの書き手である私」の書いたものがテクストとして採用される。
そして、このことが大切なのだが、この「原典的なテクスト」は私のものである必要はないのである。
そもそも、テクストを読むためにはある種の共感が必要である。
私は哲学書を読んでいるとたまに、「ああ、いつか考えたなあ」と懐古する気持ちが起こってくる。この「ああ、いつか考えたなあ」というのがテクストを読むために必要な共感なのではないだろうか。
この「共感」というのがなければ、そもそもテクストは「意味不明である」で終わってしまう。この「共感」があるからこそ、「意味不明だけれど、読もう。」とそのテクストの価値を引き出そうと思うのである。
この「共感」というのはここまで述べてきたように、絶対的に必要なものである。しかし、それは意図的に為せることではなくて、たまたま為せることである。
しかし、それを鍛えないことにはテクストは読めない。
だから、「いつかの書き手である私」と「いつかの読み手である私」の関係、極度に独白的な関係は必要なのである。
この関係において、批判するのは私であり、批判されるのも私である。つまり、私は「批判」によって二つに分かれるのである。
もちろん、私は今の私の肩を持つのだが、それによってある種の罪悪感が芽生える。なぜなら、過去の私はそのようなことを嫌って文章を書いたからである。だから、適当な批判はできない。
この関係における批判というのは、過去の私の力を信じることによって成り立っている。なぜなら、そこに力がないのに批判しているとすれば、私は極度にわざとらしくなるからである。その力がないものを批判することになんの意味があるのだろうか。
このように極度に独白的な私の関係は、批判というものが実は相手の力を引き出すものであることを知るためのものであり、その「力を引き出す」力を身につけることなのである。
だから、これはある種筋トレ的である。私は批判の筋肉を鍛えているのである。その筋肉が流動して自然を走り回るとき、それは初めて価値的になるのである。
丁寧に書くというのは、その筋トレを丁寧に行うことでもあるし、走り回りながらも世界を見ることを忘れないということでもある。
論理というのは哲学に不可欠であるが、それが不可欠であるのは、誰かに批判してもらうためなのであり、論理による高揚で何かを書いてもらうためなのである。
しかし、極度に独白的な関係はいつか、開かれる。その「開かれる」というのは、私が考えているものではなくなるということである。それは私の成分がそれらの中から失われたのではなく、そもそもそんなものはなく、私はある種の限定によってそこを書いていたのだということを知るということである。
批判が知らせるのはこの局所性であり、その局所性の自覚は、新たな大地への力となるのである。
丁寧に書くというのは、私の見つけた大地を踏みしめて、そこにある何かを見つめてもらうことであり、その安定における急な困難をそれとして引き受ける朗らかさを保証するということなのである。
さて、よくわからなかったと思うが、レヴィナス先生がこのことを端的に示してくれているので、それを「完全記号」として読んでみよう。
偉大なテクストが偉大であるのは、まさしくテクストに導かれて事実や経験に出会い、その事実や経験がテクストの深層を逆に照らし出す、という相互作用のゆえではないでしょうか。
『タルムード四講話』89ページ
偉大なテクストが何度読んでも新しい面を見せるのは、それ自身が「完全記号」であるからであり、同じことだが私たちが変化しているからである。
その変化を素敵な方向へと進めるのは、私の力強い足腰である。目指すべきところを見ることは生まれる前からできているのだから、あとは走るだけなのである。
「いつかの書き手である私」は誰でもいいし、「いつかの読み手である私」も誰でもいい。偉大なテクストは全員を読み手にする。そのテクストが生まれるのはこの独白的な関係に入り込むときなのである。
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