涙を既読スルーする

涙は制圧です。

僕たちは涙を見たときに、それが嘘泣きだと断定して自分を守るとき以外は、自分を守る術がありません。ただただ、涙によって感情を制圧されるだけです。
僕たちは涙の制圧に反抗できないのです。
涙を見ても、それをスルーできる人は、それを見たことのある人です。
同じような人を見たことをあるひとがスルーできるのです。

既読スルーというのは、人によっては気になるようです。僕は気になったことがありません。
しかし、みな既読スルーを気にしているように見えます。
それはした側も、された側も。
既読スルーというのは、ひどく人間的でない行為のように映るようです。
人間には受け止めてもらうと受け止めるという行為が連続したものとして捉えられているようです。
なので、既読スルーはそれを未定にする行為として成立します。
受け止めるということができたのか、受け止めてもらえたのか、どちらも宙に浮いた状態になります。
僕がその状態にならないのは、言葉はかすがいだと思っているからです。
言葉が僕と現実の仲を取り持ってくれるからです。
そこには受け止める受け止められるという関係がないのです。

涙を既読スルーする

僕は涙の制圧にその涙が虚偽であるという決めつけ以外の反抗する技を身につけているのです。
それが言葉をかすがいだと考えることです。

子はかすがい。

子供は親の仲を取り持ってくれる。という意味の言葉です。

言葉はかすがい。

言葉は自分と現実の仲を取り持ってくれる。

涙を既読スルーする

僕は涙という現実を僕の既読スルーという行為を言葉にすることで解決するのです。
そうするしかないのです。

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