『反解釈』の反解釈

積読してる本がたくさんある。
もうそれに罪悪感を感じる段階も過ぎて、積読は本の発酵なのだ。みたいなことを言えるかも、みたいなことも考えるようになった。
たしかにそれは言い訳の一面もある。しかし、それは、発酵していると感じるのは事実なのである。
それの例が『反解釈』というちくま学芸文庫の本にも現れている。
『反解釈』は、今調べてみると、スーザン・ソンタグという人の著作であるらしい。
というくらい、私は何も知らない。
けれど、そのタイトルだけで、私の中のイメージは変化している。
つまり、私は『反解釈』を読んでいないけれど、その意味は刻々と変化している、ということである。
積読の発酵というのは、そういうことなのである。
簡単に言えば、『反解釈』というのが、それ以外の読書によって変わっていっているのである。
ものはためしに、表紙の裏側につらつらと書かれている文章を読んでみたが、憶測とあまりに違い笑ってしまった。
私は三段階変化させて、それこそ「反解釈」してきた。
はじめ、つまり購入した当初は「構造主義」になんというか、重きを置いていたので、「構造主義的物語論」、つまり「内容よりも形式を!」というような感じのスローガンで書かれた本だろうなあ、と思っていた。(裏表紙の文章を読むとどうやらそれが正解らしいが)
そののち、積読が溜まりに溜まっていくのを、なんだか壮観な気分で寝る前に見ていた。
そのとき、もしかすると『反解釈』は「構造主義的物語論」を解釈として反駁することで内容と形式の関係を新たに定義したのでは、みたいなことも考えていた。
寝転びながら、「ああ、綺麗。」と思い、「これはああいう内容かなあ。」と寝る前に想像していたのである。
ここで余談だが、この方法はとても有効であると言わしていただきたい。
つまり、寝転んで見えるところに積読、それも気になるタイトルの本を置いておくのである。
すると、発酵されて読みたくなるのである。
不思議なことに。
たしかに、そのタイトルからの予想は間違いかもしれない。
しかし、私が『反解釈』を見ていたことによって、反解釈という概念からの視点を獲得していた、というのは本当である。
もちろん、ずっとそんなことを考えているわけではなく読書をするときには読んでいる本に夢中になっているが、ふと、寝る前に『反解釈』を見ると、あれはこういうことかもしれないな、と反解釈から読書の相貌を眺めることができるのである。
と、余談は置いておいて、反解釈は「構造主義的物語論」から「構造主義的物語論の反駁」に移行したわけであり、その意味で私の視点もそのように移行していたと言わざるを得ないのではないだろうか。
たしかに、「構造主義」の果てしない魅力から少し目が醒めて、今度はそれを批判しているようなものを読むことになった。
ここで気になるのは、読書が視点を変化させたのか、それとも視点が読書を変化させたのか、であるが、それは相貌論の限界のような気もするので、ここでは置いておこう。
とにかく、『反解釈』が変貌していくさまを知ることは自分を知ることにもなったのである。
そして、また小林秀雄が気になる時があり、そのときには『反解釈』というのは解釈という全望的な視点よりも解釈とさえ言えなくなるような視点でものを見ること、つまり小林秀雄風に言うならば「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語る事である。」というような気持ちが目覚めていたのである。
もちろんそれは作品を無下にすることではなく逆に「こうとしか読めない。」と解釈を拒絶するような姿勢にまで至ろうという気概そのものをこの『反解釈』に読んだのである。
私はまだ『反解釈』を積読するつもりである(もしかするとすぐ読んでしまうかもしれないが)。なので、「構造主義的物語論」「構造主義的物語論の反駁」「自己の解釈による解釈の拒絶」の次の理解が生まれるかもしれない。
そしてここで忘れて欲しくないのは、すべての概念がこのようにスペクタルな変遷をすることであり、それはまぎれもなく読書をするその人によるものである、ということである。
まあ、この勇んだ文章は小林秀雄がほぼ書かせているようなものなので、次の理解では否定しているかもしれないが、そのような理解の連続、連関が「私」ということを作っていくことは、何度も何度も主張していることであるので、この論は一応ここで終わりにしよう。

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