自己中だという批判の当たらなさについて

 私はされたことがありませんが、いや、ないと思っている、いや、ありました。「自己中だ」と批判されることです。しかも、暗に批判されるわけではなく面と向かって批判されることです。それについて考えてみましょう。さらに言えば、それの当たらなさについて考えてみましょう。

 例えば、私が何かをして、誰かに「自己中だ!」と言われたとしましょう(ここで「謗られた」などと書かないのはここでの「当たらなさ」を批判を避けることであると捉えてほしくないからです。)。私はどのように思うでしょうか。

 チクタク、チクタク。

 わかりません。そうです。私は根本的にわからないのです。
 では、なぜわからないのでしょうか。それは簡単。「皆そうであると思っている」からです。これは別に「みんなそうじゃん」と言い訳しているわけではありません。そう見えるかもしれませんが。私が言っているのはむしろ、私にそういったこと、つまり「自己中だ」と「言う」ということは私を「人」だと認めたということであり、「人」は皆、「自己中」で"あらざるをえない"ので、私の反応はおそらく、ここまで来てやっと分かったのですが、「どうしてわざわざそんなことを言うの?」ということになりそうです。おそらく。
 このように言ったとすれば、その誰かはどのように言うでしょうか。「君のためを思ってだよ」でしょうか。確かにそうかもしれません。それは、だいぶ大仰な言い方になっていると思いますが、「愛ゆえ」ということです。そして、私はその通りだと思います。
 ただ、この解釈はおそらくみなさんが思っているような解釈ではありません。おそらくですけれど。ただ、この「愛」について語るためにはたくさんの話をしなければなりません。おそらく。ごくごく簡潔に言えば、「賛成されない主張」なのにわざわざ言っているという「愛」なのです。
 ここでは全貌を明らかにするつもりはないし、そんな準備もない(この文章は珍しく直接noteに書き始めていて、書き終わったらすぐさま出してやろうと思っている。しかも、私はこんなことをしたことがない。こうすることで何か新しい感覚が目覚めるのではないかと思っている。推敲も本当に最小限にしたい。いや、する。話が飛んでしまったので戻そう。

 変な形になってしまったが、ここでの「愛」は「独我論者の愛」である。この命名は思いっきり『倫理とは何か-猫のアインジヒトの挑戦』における「愛」を踏まえている。いや、むしろそれしか踏まえていないので「思いっきり」と言っている。
 (永井均の主張するような)独我論は主張しても賛成されない。いや、別に賛成はされ得るのだが、賛成されてしまっては主張が失敗する。いや、精確に言えば、賛成とか反対とか、そういう領域が存在すると思われてしまっては主張が失敗する。もちろん、これは「主張」をその領域が存在することを全体とした行為であると考える場合である。しかし、大抵の主張(永井は独我論の主張だけが特別で他の主張は全て、と言っているが私はそのことについてまだ充分に考えていない。)は相手に賛成してもらって、同じ主張をする(ここでの「する」は「声に出す」ということではなく「原理にする」というような意味である)ことへの誘いであると考えられる。そして、その誘いに乗ってくれれば主張は成功、ということになる。しかし、独我論はそうではない。独我論は簡単に言えば「私だけが存在する」という主張であるがその主張を聞いて「理解」することはできる(かはわからないが、とりあえず独我論が「主張」されているとするならば、そのように考えるしかない。そこに自由はまったくない。)が、賛成することも反対することもできない。いや、どちらかと言えば、反対することは普通にできるが賛成することができない。これが賛成やら反対やらをする「領域が開かれていない」ということである。なぜなら、「反対」だけが「普通」であるしかないからである。独我論は乗れない誘いなのである。

 さて、書いていて急に真理に到達してしまった感が私にはある。つまり、「反対」だけが「普通」であることによって「独我論」は「理解」はされても「反対」も「賛成」もされないという構造を持っているという真理に急に、思わず(こんなことを「本当だ」と言っても仕方ないと思うが、別にこのことを考えるために書き始めたわけではない。冒頭に書いているように「自己中だ」という批判の当たらなさを考えたかっただけなのである。

 二回も同じことをしてしまった。私はなんというか、結構満足してしまったので、「当たらなさ」についてはまあ、今度書こうという気になってしまった。この二回の括弧の始まりだけつける振る舞いはこの文章全体を象徴しているようにすら思える。これは狙ったことではない。
 仕方ない、というか、申し訳ないし眠たいので「当たらなさ」について端的に述べてみるとしよう。
 他人の(ああ、ここで決着はついてしまっている。)「自己中だ」は「当たらない」。が、それを「当てる」ことはできる。それは他人を「他者にする」ことによって、である。そして、その「他者にする」は「個人」という概念の裏側にびっしりついている虫、黒くて小さい虫をそれぞれの存在へと還すことによって鍛えられる。私はそのルートしか知らない。
 思いがけず素晴らしいことを書いてしまって驚いている。二回目だ。

 「自己中だ」という批判は「当たらない」が「当てられない」わけではない。

 宣言通り最小限の推敲をした。こんなに素晴らしい文章を夜、0:12に出すことはなんだか悔しい気もするが、それはそれで良いだろう。そうか、私はなぜ私がこんなことを気にするかがわからなかった、つまり、あまり他人に読まれようとすることのない私がそのことを主題化するかがわからなかったが、それは独我論については他人に語りたくなってしまうからであるかもしれない。0:13になった。そうか、私にも「愛」はあるのだ。これは嬉しい誤算だ。0:13になっている。もうすぐ、おそらくもうすぐ0:14になる。なった。私はたった一分だけだが私の「愛」という人間性を見つけた。不思議なことだ。安らかだ。
 終わりが見えなくなってきたので終わろう。これを読んだ人は幸運である。私の中でもかなりの傑作だからである。そうか、私はまだ読者を信頼していなかった。それも、私ではない他人、その読者を。こんなふうに宣伝してしまうとは。でも、それをしても良いと思えるほどの傑作なのである。そうだな。寝よう。

0:16

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?