生活と読み書きの関係についての覚書
私の「生きる」は「書く」と「読む」の連関によって規定されている。そんな気がする。言わば、この二つは同一のこととなっている。いや、精確に言うなら二つのことが同一化されて私の「生活」のイメージはできている。それは次のような式で表せる。(=の適当さは許してほしい。)
今日はこの定式を捉え直してみたい。主に捉え直したいのは「生きる」と「読み書き」はどう違うか、ということである。(ちなみにおそらく×は同一化として考えられている。このことについては触れるかもしれないし触れないかもしれない。触れなかった場合終わったあとについでみたいな感じで書く。)
このことを遂行する上でキーとなるセンテンスがある。キーセンテンスである。手がかり、と呼んでもよいかもしれない。それは次の文章である。
なんというか、私は結構、オートシステムで思考が飛び飛びしてしまうタイプである。色々な発想がぐるぐるとあちらこちらに存在するようなタイプである。しかし、それに耐えられる強靭な身体があるわけではなく、たびたび疲れる。しかし、その飛び飛び存在、それを抑え込むことは困難である。だから余計疲れ、回復するということがない。寝るとか、そういう強制的なシャットダウンがないと疲れていないことが実感できない。もちろん、寝ているときもぐるぐるしているにはしているのだろう。
だから、私は「なにもしない」ことをしてみようと思ったのである。するといつも通り、いろいろなことが頭をめぐる。ぐるぐるぐるぐるめぐる。そして私は思ったのである。「書く」とおっせえなあ、と。なんというか渋滞のように感じたのである。「書く」ことを。それに対して「読む」は流れ自体はあるがそれが多様で追いきれない、そんな感じだと思った。そして「生きる」は流れ自体だと思ったのである。
しかし、仮に「生きる」を流れ自体だと考えるならば、「読み書き」は停滞と分散である。それではあまりに「読み書き」が否定的すぎる。私は別に否定的な見方をしているわけではない。「生きる」にとっての「読み書き」を。だからこそ「生きる」は「堰を切って流れる」みたいなことであると考えているのである。おそらく。
私はこのようなセンテンスのあとに次のように書いている。
なんというかますます、ますます複雑化されている感じがするが、「エネルギー」を軸にするとすれば、「エネルギー」の喪失と回復のリズムがあり、そのリズムの喪失と回復があると考えられる。「生きる」というのは「エネルギー」の喪失と回復であり、「読み書き」というのは「エネルギー」の喪失と回復のリズムの喪失と回復であると考えられる。
(同一化については書きそびれたが特に言いたいことはない、いや、言えることはないのでとりあえず置いておいてもらおう。一つだけあるとすれば、「エネルギー」の喪失と回復という次元とその「喪失と回復」のリズムの喪失と回復という次元を同じものにすることが「生活」の理解に資すると思って「同一化」の問題は提起されていたのだとここでは言われているように思われるということである。それ以上のことをいまは考えられない。いつか考えられるか、それもわからないが。)
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