緩やかな揺るがなさ

 もしかすると、これを読むともしかすると心が穏やかになるかもしれません。もしかするともっと心が重たくなるかもしれません。それはあなたの心持ち次第。だから何回も読めばあなたの心持ちの変遷が実感されて……

 ここからの文章は私が書いている「日記」の一部分からの引用です。後半は「日記」ではない気持ちで書いていましたが。「日記」自体は修正などせずに毎週日曜日に「日記」というマガジンの中に出していますが、ここではコメントをしたり修正をしたりするつもりです。しないかもしれません。「日記」からの引用は段落の冒頭を一文字空けずに書きます。引用ではない部分、つまりコメントは一文字空けます。この文章と一つ前の文章はコメント、全体に対するコメントなので一文字空けています。と言ってもここから引用する文章の後半はさっきまで書いていて、それがもしかすると皆さんにも意義あるものかもしれないと思ったからこそ引用しているのですが、前半はいつものように「日記」を書いていただけなので一つ前の文章が適切かどうかはわかりませんが。まあ、とにかく読みますか。

ウィトゲンシュタインが「何も隠されていない」と言っていた(記憶がある)が、あれはかなり真実である。しかし、真実であるだけである。もちろん、真実であるだけということはそれだけで尊いということである。おそらく。しかし、私は弱いので、人間なので、それが真実であろうとやはり、そこに虚構性を導入し、自分の足に絡まってしまう。悲しいか、それともこの人間性、弱さゆえにはじめて悲しいが存在し始めるのか、私には、少なくとも私にはわからない。しかし、このわからなさをこのように語った場合、そこに現れるものがある。それが悲しさ、そしてその基礎としての人間性、弱さである。

 思ったよりも全体の要約になっていてびっくりしました。

人間は弱い。けれども、弱くない人間など、人間など存在するだろうか。私にはわからない。私はおそらく弱いから。人間であるから。

 意図を説明するというのは恥ずかしいことですが、ここでの「弱くない人間など、人間など存在するだろうか。という表現には「存在するのだろうか」という「問い」を「弱くない人間」に向けるか、「人間」に向けるか、という二つの道筋が示唆されている。もちろんこの二つは大筋では同じなのですが。

私のある種の揺るがなさは問いに答えを出したことに由来するのではなく答えに問いが尽きることはないだろうということに由来する。

 「揺るがなさ」がここでのテーマです。私はあまり揺るぎません。それが不思議なのです。それを考えているのです。しかもおそらく、これが結論です。これが手を替え品を替え言われています。おそらく。記憶によれば。ここでもう一つ、洗練されたものを作ってみましょう。「私の揺るがなさは答えがないことが何に由来するかという問いに答え尽くすということがどういうことかがわかったことに由来する。」ややこしくなりました。すみません。

簡単に言おう。つまり、私に訪れる問いやその一形態としての答えはどうせ私が矢継ぎ早に繰り出す問いに、強調していうなら詰問に耐えられるわけがない。どこかで私は「ごめんごめん、やめやめ。」と言う。問われて、それに答えられなくて、どうせそのように言う。そのように言わないというビジョンが私にはまったく、まったく思い浮かばない。どうせ新しい問いが生まれ、その問いによって全体とまでは言わなくても一部の変更は余儀なくされる。どうせ変わる。これが私の揺るがなさの根拠である。だから、「もう、これで私は絶対に揺るぎません!」という宣言に演技性を持たせないことができると確信したならば、私はいまとは違う仕方で揺るがなくなるだろうと思う。どうせ揺らがないのである。

 この文章はかなり複雑です。が、ポイントは簡単で、私の揺るがなさの根拠は自問自答の自問に自答が答えられなくて自分が変化することになることにある、ということです。ただ、このように簡単にしても複雑です。この後に期待しましょう。

でも、「どうせ揺るがない」なら、どうして私は「あなたは揺るぎませんね」と言われるのだろう。そして自分でも「たしかに、私は揺らがないなあ」などと思えるのだろうか。

 これは極めて私の癖に頼った問い方であるように思われます。それゆえにこの文章全体の通奏低音であると言ってもいいかもしれません。

これはとても面白い問いで、有益な問いである。おそらく。

面白く有益な問いというのは珍しい。まず私はそのような問いを問うことがほとんどない。というか、有益な問いを問うことがない。

ただ、ここで問題はややこしくなる。というのも、有益な問いを問うことがない、という確信がここまでの議論を下支えしている可能性は大いにあると思われるからである。つまり、私は「有益」とか「無益」とか、そういう諸々の価値判断を放棄しているがゆえに、少なくとも放棄しているように見えるがゆえに、そしてその見えを私が承認しているがゆえに「揺るがない」可能性が大いにあると思われるので問題がどこにあるか、一つずつ固めてゆかなくてはならないのである。

ここで問題を整理しよう。①ここには「無益/有益」と、「面白い/面白くない」が「問い」の分類として提案されている。そして、②その前には「答え」が「問い」の詰問から逃れられるはずがないという確信が議論されている。ここでの主要な課題は私の揺るがなさを明らかにすることである。

ここで確認しておきたいのは私は①における二つの対比の前者を「問い」に対する基本的な価値判断において上位に置いているということである。この「置いている」というのは「置く」という選択をしているというよりも「自然な」ということが付与されるのがそれらであるということである。つまり、私は自然に「無益」で「面白い」ような「問い」を好遇しているということである。これは私の癖である。

この「私の癖」というのはおそらく「私の揺るがなさ」に関係があるように思われる。簡単に言えば、私は自然に「有益」で「面白くない」ような「問い」を遠ざけるのであり、そしておそらくその自然な対応は良いすなわち「無益」で「面白い」ような「問い」は「答え」を逃さない、「答え」に安住させないということそのものであると思われる。言い換えれば、仮に「答え」を逃す、「答え」に安住させる「問い」があるとすれば即「有益」で「面白くない」ような「問い」であると判断されるという関係がここにはあるように思われる。

だから、このことからすれば「私の揺るがなさ」というのは「有益」な「問い」を「問い」として認めていないことに由来するように思われる。ここからもう一つ、ここで主要な判断というか、立場決定の話があるが、このように結論を導く道筋には「無益/有益」と「面白い/面白くない」という対比がどのような関係にあるかが考えられる必要がある。

 ここで一旦脇に置かれた話は簡単な言えば、「答え」はそれとなる(=「問い」を「逆流」する形で作り出す)ことでそのことを忘れる(=「答え」と「問い」の相互依存性を高めると思われる)という話です。ややこしいし、最後にちょろっと話した記憶があるのでとりあえずこういう話が脇に置かれたことだけ言っておきます。

端的に言えば、「無益」とか「有益」とか言われる場合の「益」というのは社会通念的な「利益」のことを指している。そして、私の「面白い」というのはそれから独立した対比として提案されているからにはその「利益」とある種ねじれている必要がある。つまり、私の「面白い」は社会通念的な「利益」とは相容れないものとして想定されている。もちろん、ねじれではなくただの対比を見ることもできるが、それは話をややこしくさせるので置いておこう。(ここでの「ややこしい」というのは私の主題すぎてここでは議論しきれないということである。)

 この文章はよくわかりません。最後の「置いておこう」は手癖であるようにしか思えません。なんというか、私がよく「私の主題すぎる」という理由から遠ざける議論はおそらく、少なくともいまの私にはここでの議論と関係が薄いように見えます。なんというか、おそらく「置いておこう」と言うために私は私を騙したのだと思います。実は「ねじれ」がなぜそれになるのかを議論する必要があって、でもそれが面倒だったか本質的ではないと思われたか、いずれにしても隠されたような気がします。私には適当なところがあるので。しかもおそらく、最初らへんに言ったように手を替え品を替えしているという感覚も強くあった記憶があるので、飽きてきていたのかもしれません。おそらくですが。

簡単に言えば、私は社会通念的に「有益」なものを「面白くない」と思っているのである。もちろんここでの「社会通念」が何であるかを考えなくてはならないというのはその通りである。が、私はそれに興味がない。これがねじれを見ないということである。つまり、私がただ単に「面白い/面白くない」という対比だけでなく「無益/有益」という対比を持ち出したのはねじれさせるため、簡単に言えば媚態なのである。これがこの議論の対話性である。これを放棄すれば私はただ単に揺るがないだけである。そして議論はすでに終わっている。「答え」に安住できるような「問い」を「問い」として認めず、「問い」が生きることの根底にあるという信憑ゆえに揺るがないのである。私は。

 一つだけコメントしておくと、一つ前のコメントとも関連するのですが、「ねじれ」がどういう「媚態」なのか、ということ、どういう「対話性」なのか、ということを強調するためには「ただの対比」が必要で、でもそれは結構面倒、というか、ある程度の量がある議論なのでそれを避けてしまったということなのかなと思います。真剣にそれをしようとすると相当長い気がするので。まあでも、それがなくてもおそらく大丈夫です。気になる人はどうせまた私は議論するので気長に待ってください。待てない人は各人で考えてください。ヒントは書いたので。無責任ですが。

私は「問い」が生きることの根底にあると思っている。なぜか。生きることには欲望が必要であり、「問い」はその欲望をそれとして保持するためのものであると思われるからである。

 これにも「ただの対比」を見ることができます。私は「欲望」というものがよくわからず、それをわかろうとしているのですが、私は「謎は存在しない」と書いたウィトゲンシュタインの態度をかなり踏襲していて、「問い」がそれとして存在するということと「欲望」が存在するということをつなげてやっとその正体が微かに手に触る気がするのです。おそらくこれはウィトゲンシュタインに出会う前からそうだったのですが、出会ってからはそれが実感されてきました。しかも、おそらくこの態度はここまでの議論の一つの基盤になっていると思います。なので、この態度が共有できないと議論がわからないかもしれません。ただ、共有する術がわかりません。ここまでの記述でその片鱗でもいいので拾ってもらえたらいいのですが。

ただ、これはただの人生観もしくは人間観である。これが実は私の揺るがなさの根源である。しかし、これは別にただの人生観もしくは人間観である。

 一つ前のコメントは要らなかったかもしれません。仕方ありません。これを書いたことを忘れていたのですから。

だからおそらく、これは誰かの役に立つわけではない。だから私は少し前に言っている。「「もう、これで私は絶対に揺るぎません!」という宣言に演技性を持たせないことができると確信したならば、私はいまとは違う仕方で揺るがなくなるだろうと思う。どうせ揺らがないのである。」と。そのように揺るがない誰か(未来の私がそうかもしれない)からすれば、この私は弱っちいかもしれないし、強すぎるかもしれない。しかし、これを知っていることはもしかすると重要なことかもしれない。私はそう思う。

 この文章はそのまま取ってほしいというか、素直な気持ちなのですが、一つだけハイライト的に覚えておいてほしいというか、素晴らしいと思ったのは「揺るがない誰か(未来の私がそうかもしれない)からすれば、この私は弱っちいかもしれないし、強すぎるかもしれない。」という表現です。ここでは「強/弱」が反転し続ける概念、場所として「人間」が提起されているように見えます。私には。それは素晴らしい発想というか、安らぎ?救いですらある気がします。このことがなんとなくわかっていて書いてきていたのかもしれません。最大限私を鋭い人間だと仮定するならば。

あと一つだけ、この議論の根底にある信憑がある。それは「言明」は「問い」と「答え」によって構成されるが、私たちが「問い」を発することはなく「問い」はいつもどこか誰かから訪れるものであるということである。そして、「語る」ことはそもそもその訪れに身が開かれていることから始まるのである。こういう信憑である。だから、「私たち」から一旦抜けるためにはこのことを逆手にとってあらゆる「言明」を求める欲望、「問い」を発する何か、その何かの演技性を、欺瞞性を強調すればよいのである。これはフーコー的でもウィトゲンシュタイン的でもあるだろう。

 まあ、フーコーとかはとりあえずどうでもいいというか、最後に広がりを持たせるための一つの手法であると思ってくれたらいいのですが、ここで確認したいのは脇に置いておいた話はこれだということです。まあ、思っていた力点の置き方ではないのですが。まあ、いいでしょう。また、ここでは「人生観」とか「人間観」とか言われたところとは逆の力点が置かれていることも注目に値すると思います。「人間」になるというか、そういうことではなく「人間」から一旦抜けてみるという、そういう方向性に力点が置かれています。ここでは。最後はやはり希望を語りたくなるものなんですね。最後じゃなかったらどうしましょう、という感じなのですが。最後らへんであることは間違いありません。

さて、フーコーは初めて出てきたが、ウィトゲンシュタインはこれを書き始めたところですでに居た。それを強く取るならば、ウィトゲンシュタインが批判しようとした哲学は弱さを隠しているがゆえに、または強すぎるがゆえに批判されていたのかもしれない。

 なんというか、ここで言われていることの感じだけを掬うとすれば、ある人がレヴィナスに対して「他者を考えているわりに他者に対して開かれていない」みたいなことを言っていたのに共感した、みたいな文章(たしか『傷の哲学、レヴィナス』の最初らへんで読んだが)に驚くというのがここでのウィトゲンシュタイン理解の根幹にはあると思われます。つまり、哲学はどうしようもなく強い「問い」に対する仕方なさを伴った応答なのだ、という、弱き者としての哲学者像というか、そういうものがここでの理解にはあるように思われます。そしてウィトゲンシュタイんとフーコーとレヴィナス、そして私の強さと弱さは違うし、それぞれもまた変遷していくからこそ根拠を持って揺るがなく居られるのだと思われます。この「強/弱」の関係はとても重要な関係であるように思います。複雑すぎていまはよくわかりませんが。

Who are you?
こう問われたとき、私は答える何かを持ち合わせていない。それがここでの揺るがなさの真芯である。私はそこを打つと聞こえる、澄んだ音を聞こうとした。少しは成功したがまだがちゃがちゃ鳴っている。けれど、これが鳴らないというのは人間ではないということである。別にそうあっても全然いいと思う。が、私たちは弱い。私たちはいつも弱い。レヴィナスに吸われていく私を私は見る。冷めている。けれど、この「見る」も「冷めている」もレヴィナスの重力の中にあるとも言える。まあ、ないとも言える。これはだって、「問い」を拒否することの議論なのだから。フーコーにしろ、ウィトゲンシュタインにしろ、レヴィナスにしろ、……。

 なんというか揺らいでいますね。いまもそうです。この時よりは落ち着いていますが。「弱い」みたいな話をするとサブシステムとしてレヴィナスが強く働きすぎてしまって「問い」を拒否できないということでしょうか。まあ、「問い」を拒否できないからこそ「「問い」を拒否することの議論」ができるわけですが。

ここで一つ、私は息を吐く。ここまでの議論から身を引き、私はもっと単純になる。単純すぎて捉えられないようになる。

 哲学に限らず最後は単純さに帰結するのだと思います。解釈の搦手が到達しない単純さに。

 本来はこれで終わっているし、終わりでもいいのですが、これを書いた後に「日記」に書いた文章を引用して終わりましょう。

もっとしゅぱっとした表現を探ろう。

確信した。何を?そのように君が聞くことを。

良さすぎるなあ。これじゃん。

このことが二重化される。反転する処世術になる。人間からの疎外に対する反転、つまり人間界の展開(開くこと)と人間界からの疎外に対する反転、つまり人間界の限界(閉じること)。ひっくり返すことという意味では一つだが、人間ということの内と外でそれが行われるという意味では二つ。

 過剰をfeelする力。人間というのはそういう力がある。それは困ったことだし、もしかすると嬉しいことである。

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