読書はなぜ楽しいのか 3

 今日は「読書はなぜ楽しいのか」という文章を二つ書いた。どちらもよく書けた。とても嬉しい。が、別にどちらも答えを出したわけではない。何をしたかと言われると難しいが、応えた、とは言えよう。どちらも答え的なものを一応提示はしているが、それは議題のようなもの、主題のようなものである。言わば、みんなが集まるテーブルを用意した、みたいなことである。

 さて、わざわざこんなことを書いているのはもう一つ書きたいことができたからである。
 ここまでの二つは割とちゃんと分析として書けたと思う。主に私の読書の楽しさを異なる仕方を用いてではあるがある程度丁寧に表現できたと思う。ここでは違う仕方で書いてみよう。

 私は寝ている人の胸の上下が好きである。ふくらんで、しぼんで、息が入って、息が出て、まるで生きていないけれど生きるために必要な呼吸、それが、それだけが表現されているからである。読書の楽しさはそれに似ている。私が読書を好むのは呼吸のようだからである。
 これは別に読書は生活における呼吸だということではない。生活の基本は生きることである。ここで言いたいのは「ふくらむ/しぼむ」がリズミカルだということであり、「ふくらむ」が中心を持つ膨張であること、「しぼむ」が中心を持つ収縮であること、そしてそれがある人の呼吸であることによって複数性が示唆されているということである。要点は「中心」と「ある人」が接続されたイメージが「人の呼吸」にはあるということである。そしてもっとイメージでいくと、「寝ている人の胸の上下」は身体という横たわるものの上での屹立でもある。ここにあるのは強弱のイメージの繰り返しである。「胸の上下」、「ふくらむ/しぼむ」、そして「起きている/寝ている」。「寝ている人の胸の上下=呼吸」というのは「弱」における「強/弱」であるし、「寝ている」本人からすれば「強」かもしれないし、そもそも「無」かもしれない。(ここで初期のレヴィナスの「不眠」の考察に触れたいのだが準備が充分じゃないので今回は見送ろう。)
 で、読書というのは「ふくらむ/しぼむ」における「中心」を「ある人」から解放するものであると思う。もっと純粋な印象で言えば、構造自体は上で言ったようなこととは違わないが「ある人」を措定するために必要なエネルギーや体力を本が代理してくれる感じがある。それは別に考えないとか、感じないとか、そういうことではない。し、誰かのように考えたり感じたりすることが楽しいということでもない。(もちろんこれらは楽しさの一側面ではあるのだが。)ここで楽しいのはおそらく、「一つが二つになる」ことと「二つが一つになる」ことである。そして、その「一つ」は「二つ」に、「二つ」は「一つ」に支えられていることが言わば忘れられていることである。言い換えれば、純粋に「一つが二つになる」ことと「二つが一つになる」ことがここでは起こっていることが楽しいのである。だから読書は楽しいのである。これが幻想であるとか、逃避であるとか、そうやって言うこともできる。それを否定するつもりはまったくないが、私は読書の楽しさをそういう感じで理解していると思う。
 解放したところで戻ってしまって申し訳ないが、「ある人」の「呼吸=ふくらむ/しぼむの繰り返し」ということで言えば、「一つ」は「ある人」、「呼吸=ふくらむ/しぼむの繰り返し」は「二つ」であると言える。そして「ある人」を「中心」としてだけ考えるとするならば、いやむしろもう「中心」とすら見ないとするならば、「ふくらむ/しぼむの繰り返し」をする「個体」が複数存在するという事態が読書の楽しさであると考えられる。
 
 さて、これは何を言っているのだろうか。よくわからない。構造すぎたかあ。困ったなあ。うーん、誤解も招きそうだけれどー、一つ構造的に書くとすれば、「社会⇔個人⇔個体」という構造があると考え、それぞれの「⇔」はスケールの違いを表しているとすれば、右から左へは「一つになる」ことが必要であり、左から右へは「二つになる」ことが最低限必要であると考えられる。(ここで後者だけ「必要」ではなく「最低限必要」なのは別に「二つ」である必然性があるとは言い切れないからである。逆に「一つになる」ほうは必然性があると言い切れると思っているから「必要」としか書いていないとも言えよう。)読書はこの構造は同型でも異なる仕方でこのことを理解することができることを教えてくれるから楽しいと言えるのではないだろうか。それをどう表現すればいいのかはわからないが。
 まあ、「構造は同型でも」というのは譲歩するとそうであるだけで、言い換えれば便宜的にそうであるだけで、実際私はその構造がよくわからない。よく言われる仕方ではそんな感じかな、くらいである。あと、この構造は別にこのように三つに限定されるわけではない。「個体」と「⇔」の関係にあるものも想定できるだろうし、「社会」と「⇔」の関係にあるものも想定できるだろう。しかし、それも結局三つの関係になってしまうから実質的にこの構造の反復ではないかと言われればそうなのかもしれない。
 うーん、やっぱり「個人」と「社会」がよくわからないせいで「個体」と「作品」みたいになってしまうなあ。そうすると、「個体」と「個人」の間に「作品」が入るみたいな形で理解できるのかなあ。よくわからないけれど。

 さて、寝ている君の胸に耳を当てよう。海の音は聞こえないが君の温もりは感じられる。

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