1-2-7 後編「折り畳むアナロジー」

後編「折り畳むアナロジー」は少し難解かもしれないので、前提となる前編と中編についてまとめておきましょう。

まずは前編です。
前編の「三つの解体とアナロジー」では、その名の通り三つの解体とアナロジーについて書いてある文章です。
ここで言う、三つの「解体」は、「主体」「二項対立」「主体化」という方向に向いています。三つの方向は互いにとても近接するときもあれば、あまり近接しないときもあり、非常に不安定なものですが、それぞれが重なり合うところで共鳴することによって、それらは友好的な関係を結んでいるように思えます。
「主体」への解体は、新たな主体による体系を志向し、「二項対立」への解体は、他者へ向かっていくような体系を志向し、「主体化」の解体は、外的要因へ向かっていくような体系を志向しています。
それらは、体系の外部と内部の不均衡な安定ではなく、均衡な不安定を目指しているという点で一致しています。
前編では、簡単に言うとすれば、解体の不均衡な安定から均衡な不安定へという志向性を提示したことになります。
中編の「四つ目の解体」では、三つの解体が重なり合うような四つ目のアナロジーと三つの解体の関係について考察しています。
しかし、メタ解体とでも言えるような解体は訪れることができず、ただ擦れあった痕跡だけがそこに残ることも指摘しました。
解体とメタ解体の中間にある解体こそがここで思考するべき解体なのです。
つまり、中編において重要なことは、解体がメタ解体へと移りゆく時に失っていく解体の解体性をアナロジーによって回復しようということなのです。
そして、ここからは僕の思想そのものですが、アナロジーと解体は蝶々結びのように綺麗な丸と二つの方向性を提示しながら、それらは不可分であるような性質の行為であるということがここから言いたいことです。

珍しく結論から提示していますが、それもまた意味があります。
では、対話に進みましょう。

前回の最後に、

次回は、「三つの解体」においての「解体」と「四つ目の解体」、文脈化としてのアナロジーを考察してみましょう。
そして、思想と段階の考察へと豊かな資源を持って進んでいく気概を詩的に掴みましょう。

と言いました。
つまり、この対話では、三つのこと(「対話」の関係、アナロジーという文脈化、そしてその二つの関係)を考察しながら、思想の段階の考察へと接続するような資源を掴まなければなりません。
我ながら、大きな風呂敷を広げてしまったものです。

「思想の段階の考察へ」という題は追編や余談で行うとして、まずは三つの解体について考察していきましょう。
三つの解体は、その対象を「主体」「二項対立」「主体化」へと向け、その体系としての対象を他者を志向する体系へと向かっていくような方向性を持って行われていた、と僕は考察しました。
その解体の方法や洞察は、僕に僕の思想そのものを理解させ、また育ませるような触発です。
また、その解体たちの持つ切羽詰った責任感のようなものは、怠惰な僕に新しい風を吹かせてくれるものであります。
しかし、思想はいわゆる思想として、もっと言えばAの思想、Bの思想といった、匿名の思想へと変化していくような感もありました。
バルトの思想が、バルトという名前を失っていくような、ヘーゲルの思想が、ヘーゲルという名前を失っていくような感覚が僕の中にはありました。
僕は解体の「解体」という志向性や情熱を、冷たい体系へと押し込んでしまう気がしたのです。
彼らが生きている思想として表現している思想を僕はいわゆる「解体」として捉え、解体の「解体性」を失わせてしまっていたのです。
それは、カテゴライズされた思想であり、「解体」という名前においてしか生きられないような捉え方をしていました。
解体はある意味でこのカテゴライズを解体するものです。そしてそれこそが「四つ目の解体」なのです。
しかし、「四つ目の解体」が行われるためには、解体対象がなくてはなりません。ここでおける解体対象は「解体」そのものです。
僕は非常に難しい境地に陥っているのです。
「解体」とカテゴライズすれば、「解体性」は冷えてしまう。しかし、そうしなければ、「解体」の「解体性」は死んでしまう。
僕はこの「解体」の危機から「アナロジー」を呼び求めたのです。
僕はどこに活路を見出したのでしょうか。

僕は解体の本質をを部分的な解体と全体的な解体とが擦れあった解体であるとか、空白を生み出す行為であるとか、アナロジーの基盤であるとか、様々に定義してきましたが、その定義たちは何を目指していたのでしょうか。
端的に言うと、僕は新しさと可能性を呼び求めていたのです。
僕はここにアナロジーの本質と可能性があると思っています。
その本質を僕は「折り畳む」という行為に見立てています。アナロジーの本質は「折り畳む」ことです。たしかに、解体の基盤はアナロジーですが、その解体そのものの奉仕はアナロジーを志向しています。たしかにアナロジーは解体なしには行えませんが、解体はアナロジーが存在してこそ、その情熱的な情動を維持し、発揮することができます。
なぜ、思想を知るのか、思想を他の思想と比べてカテゴライズしたいからです。それは間違いありません。しかし、その思想の生き生きとした生命を失わないためには僕が「僕」という思想と対話し、それぞれがそれぞれの中の他者として思想と対話しなければならないのです。
僕のこのような思想観そのものが、思想を三つの解体として並べさせ、またそれらの解体と呼ばれた思想たちによって僕の思想は解体されているのです。
なぜ、三つの解体と四つ目の解体は相容れないのか、それは場が違うからです。
三つの解体は三つの思想の内部に存在する性質として僕が拾い上げたものです。しかし、四つ目の解体はその外部に存在する僕という思想の内部における性質として存在しているのです。
僕が解体の本質を三つの解体と四つ目の解体の間に見出したのは、僕が遠いところから僕の思想を呼び寄せ、そこから思想を畳み込んだ、濃密で重厚な「僕」という思想のうちに、アナロジーによって畳み込まれたその思想の内側に外部としての思想を生き生きと生命を取り戻させるためです。
アナロジーというのはいわば、対話の相手を生かす方法であり、その方法とは相手を相手として自らの心臓が紡ぎ出す生命の鼓動に新しいリズムと迸る情熱を生むところにあります。
アナロジーが奥に潜んでいる「僕」から思想を内側へと折り畳み、その重厚な内部を達成したとき、その内側には空白が存在しません。空白が存在しなければ、新しさは死んでしまいます。中間的な解体(解体性そのもの)は、その死を生命へと動機づけ、またその生命を吹き込む行為そのものでもあります。そして、そのぎゅうぎゅうに濃密で重厚な内部と比べたときの外部はすかすかで空虚なものとなっています。その平和で達成的で死のような状態は新たなる他者の来訪によって活気づけられます。
このアナロジーのうちに解体が存在し、解体のうちにアナロジーが存在し、それらが一つの平和的で重厚な内部、内奥にいる僕と果てにいる僕が折り畳まれて同じ「僕」として生きていく。その流動的で迸るような活気に溢れる対話そのものが、アナロジーによって達成されているのです。
三つの解体はそれだけではただのコレクションになってしまいます、しかし、その解体を解体する行為である四つ目の解体という可能性をコレクションに折り畳んだ途端、そのコレクションは独自のコレクションとして生きていくのです。
この理解は、コレクションをコレクションとしてでありながら、コレクションではないものとして理解することを促し、その可能性と新しさに意味を付与します。
折り畳むアナロジーは、その意味へ向けた行為であり、その内側でまた豊かな外部を希求するような尊い行為でもあります。
対話において一番重要なのは、対話の場です。対話の場が生き生きとしてしていれば、その対話は豊かなものとなります。
僕が常々、「豊かさは外部に存在する」と言うのは、あらゆるものとの対話のうちに存在する豊かさは外部的な豊かであり、内部的な豊かさとはそれを可能にするような潜在的なものであると信じているからです。
バフチンのポリフォニーもそういった豊かさのことを指していたでしょうし、バルトの快楽もそういった豊かさのことを指していたでしょう。
僕は自分の「思想」というアナロジーによってこの文章全体を生き生きとしたものとして構成することを目指しています。
思想の純粋な思想性はそのアナロジーによって失われるものではなく、その境界的な創造によって絶えず越境を起こしながら、思想と思想性の擦れ合う場、「思想」として定義されたその場、が絶えず一瞬でありながらも提示するようなものであると僕は信じています。
だから僕は思想について知り得なくとも、「思想」について知り得るというアナロジーの豊かさを信じるのです。

長くなってしまいましたが、最後に結論めいたものを。

内奥と可能性の果てを折り畳めるのはアナロジーだけであり、その豊かさは折り畳まれた場によって一瞬の煌めきとして存在する。そのようなアナロジーのさまざまな位相はその位相それぞれと位相それぞれの擦れ合いによって「場」として「対話」として「僕」として豊かな他者を呼び求める。

以上で長かったアナロジーと解体の対話を終えましょう。
長かったですね。
解体をアナロジーの対話相手に選んだのは、アナロジーの別名が解体だからです。

さて、擦れあった僕は美しかったでしょうか、、、。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?