好きの反対は嫌いではなく無関心である

好きの反対は嫌いではなく無関心である。

 こう言われることがある。これを一つの「構造」として反復してみよう。ここでの「構造」というのは「類似と差異を描き出すためのもの」としての「構造」である。それゆえにむしろ「反復」が「構造」を浮かび上がらせると言った方がよいかもしれない。ただ、「構造」"として"「反復」すると言ったのは冒頭の言明が一つの流線であることを先取りしているからである。話が長くなりそうなのでとりあえずこれくらいにしよう。

 まず、「構造」をとても簡単に描き出すとすれば、ここには「関心(好き/嫌い)/無関心」という対比を埋め込まれた対比がある。が、これは全体を俯瞰した場合にそうなのであって、レトリックをちゃんと精確に反映するならば「好き/嫌い」という対比を「否定」して「好き/嫌い」を「関心」に「まとめる」ことで「関心(好き/嫌い)/無関心」という対比を作ったということになる。とりあえず後者をこの言明の「構造」であると考えよう。
 この言明は例えば、「恋愛」における言明として考えられる。特に「嫌い」があらわれているように思えるときのお守りのような言明として考えられるだろう。この「お守り」という在り方を強調するとすれば、この言明は一種の溜飲下げである。「嫌い」と思われることの嫌さを一つ次元を上げることで「無関心」よりは「関心」の方が良いという見方を提供する。これが「お守り」としてのこの言明の在り方である。この在り方をとりあえず「良い/悪い」というとても単純な対比の「反復」として考えてみることにしよう。つまり、「関心(好き/嫌い)/無関心」という対比にある二つの対比すなわち「好き/嫌い」と「関心/無関心」に「良い/悪い」が重ねられることでこの言明は「お守り」になっている。
 しかし、ここには陥穽があるように見える。というのも、この「お守り」の効力があるのは「恋愛」において「『好き』が欲しい=『好かれたい』」という思いがある場合のみであると思われるからである。仮に特に「好かれたい」わけではない人、さらに言えば「好かれたくない」人から自分への思いであると考えるとすると、上の重ね合わせにおける「良い/悪い」は反転する。上では「好き/嫌い」と「関心/無関心」に「良い/悪い」を重ねていた、言い換えれば「好き」と「関心」は「良い」ものであり「嫌い」と「無関心」は「悪い」ものであると考えられていた。しかし、「好かれたい」ということが反転するとそれは反転し「好き」と「関心」は「悪い」ものであり「嫌い」と「無関心」は「良い」ものであることになるのである。つまり、ここにおける「良い/悪い」は「好かれたい/好かれたくない」によってスイッチングするということである。
 しかし、このスイッチングはそれほど綺麗に起こるのだろうか。というのも、このスイッチングは「関心/無関心」の対比にだけ起こっているように見えるからである。いや、もっと精確に言うならば、「好かれたい/好かれたくない」によってスイッチングするのは「関心/無関心」の次元だけであり、「好き/嫌い」の次元は「好かれたくない」においては「関心」に吸収されているように思われるからである。言い換えれば、このスイッチングは反転だけでなく「関心(好き/嫌い)/無関心」を「関心/無関心」に平板化することであると考えられるということである。
 この「平板化」を別の仕方で考えてみよう。この「平板化」は「ある/ない」(=「関心/無関心」)の次元に「どのようにあるか」(=「好き/嫌い」)の次元を吸収することであると考えられる。そのためには「どのようにあるか」の次元がなければならない。なぜなら、それがなければ吸収は起こらない、すなわち「平板化」は起こらないからである。ここで考えたいのは「平板化」の前、言うなれば「階層化」(これは「お守り」化のもっと純粋化したものである。ここでこのような純粋化を行うのはここからの議論に「お守り」という人間的な前提は必要ないと思うからである。)においては「ある/ない」にも「良い/悪い」が重なっていたにもかかわらず「平板化」の後はそれが重なっていないということである。その「良い/悪い」の変化は「どのようにあるか」を「ある」に吸収しているか否か、いやこれでは流れと混同してしまうので別の言い方をしよう。この変化は「どのようにあるか」を「あるか」と区別するか否かによって起こっている。そしておそらくそこで重要なのはこの区別の重要なファクターとして「好かれたい」ということが働いているということである。
 
 今日はとりあえずここまでにしよう。これ以上ちゃんと進める気がしないからである。というか、おそらく私は「ある/ない」がそもそも「刺激」を「要請」にすることによって出てきたものであると思ってしまう。そしてそのことはここでしている、してきたように「語る」ことによって絶対に前提にされること、もっと言えばされてしまうことであると思ってしまう。だから、本当の「ある」は「語る」ことができないと思ってしまう。思う。だから、なんというか、ここでの対比が埋め込まれた対比「関心(好き/嫌い)/無関心」の想定は間違っていて、この言明は「好き/嫌い」を「否定」して「好き/無関心」を「作る」ような言明なのかもしれない。しかし、それだとわざわざそれを言う意味がわからない。「作る」意味がわからない。私は「作る」意味を「お守り」であると考え、「作る」を上のようなことであると考えたのである。しかし、それよりももっと非人間的な問いとして、「ある/ない」がそもそも「刺激」を「要請」にすることによって出てきたものではないのか、という問いがあるのだと私は言いたいのである。しかし、それはできるようでできないように思われる。伝わるとは思うのだが、それがなぜ伝わるのか、それが私にはわからない。
 ここでヒントになるのはおそらく、議論にはそもそも「問い」を固定して「答え」を仮固定する仕方と「答え」を固定して「問い」を仮固定する仕方があると思われることである。この二つの仕方は「類似と差異」を「答え」に見るか「問い」に見るか、どちらにするかということである。おそらく。このようなところに私は漂着してしまったのである。ここでの「構造」は「問う-答える」である。これは人間の「構造」である。だから、それを「問う」こと、それに「答える」こと、でどうも人間的にはなれず、人間でないなら「好かれたい」とか、そういうことはよくわからないから、私は困ってしまったのである。おそらくここには二つの漂着がある。欲望と語ること。この二つ。しかし、私はまだちゃんと二つの「類似と差異」を「語る」という「欲望」を満たすことができていない。「構造」が見つからなくて。とりあえず「人間」に「構造」を埋めてもらっているが、これではどうも面白くない。これから面白くしないといけない。

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