人生そのものが制作の一部

人生そのものが制作の一部

例によって誰の言葉か忘れてしまった。
僕の頭には膨大な数の言葉があると思うのだけれど、住所不定の言葉がたくさんある。住所がある言葉もあるけれど、それはあまりにもその住所と同じ様すぎてもはや住所が言葉の意味を喰らってしまっている。
言葉と住所はどこか不当な関係性にあるように思える。言葉は住所を知らない方がいいのかもしれない。
そもそも、歴史という糸にも、世界という糸にも、同じ点はない。というけれど、同じような点はあるだろう。そのために歴史と世界を学ぶのだ。
言葉も同じだ。住所が似ていることもあるだろうから、別にそんなに出典にこだわる必要はない。別に誰が誰の言葉を用いて考えようと、その知的創造に傷はつかないだろう。

という前提を置いておいて、人生そのものが制作の一部。という言葉を考えてみると、それは非常に熟達した芸術家の言葉のように思える。
人生には無限の要素があるが、それを人生の一点に、ペン先でも、筆先でも、指先にでも凝縮する。そこに滲み出た人生、それが制作だというのだろう。
人生から外れた制作じゃない。人生真っ只中の制作。晴れ晴れするほどの気概である。

カラスが鳴いている姿は一生懸命である。彼らは声を仲間に向けて発しているのか、空に挑戦の産声をあげているのか。僕にはわからない。けれども、その声はいつでも聞こえる。それが作品だからだ。
人生には暗い裏路地のようなときも、赤い絨毯のようなときもある。それを歩く人が人生を決めるのかと思っていた。
けれど、この言葉によるとそんな理解はしないだろう。
人生そのものが制作の一部であるのなら、それを見るのは自分だ。他人じゃない。だから、人生を決めるのは、歩いた人だ。その人の目の前に広がるのは無限の創造の草原だけである。そこに佇む一人の僕は片足を踏み出す前に後ろを確認してはいけないのだ。後ろはもうないのだ。歩いたところは制作されて跡形もなく消えているのだ。

人生は制作の一部である。
人生は制作の一部である。
人生で制作するんじゃない。
人は生きて、人は作る。

山の中で一人たたずんだときのあのどうしようもなく頼り甲斐のある自分。それが制作者だ。
僕は人生を壊すつもりで作ろう。壊れたって、どうせ作られるだから。

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