哲学を流行らせたい

哲学が流行るにはどうすればいいだろう。
誰もが一度は通過するような「流行り」として哲学を定義するにはどのようなことが必要だろうか。

こんな邪道とも言える提言をしたいのには二つの理由がある。
一つは単純に私が日常的に「ニーチェはさあ、」みたいな感じで哲学について話したいからである。
流行りに疎い私はどうでもいいような話でお茶を濁して過ごしているので,それが哲学の話題になれば良いなあ,と思うのである。
もう一つもある意味単純で,哲学には流行りそうなところがあると私が思っているからである。
その流行りそうなところというのは哲学の持つキャラクター性にある。
こんなこと言うととても怒られそうだが,哲学者はキャラが立っているし、「哲学の歴史」ということを考えると,他の「歴史」と呼ばれるものと隔たりがあるように感じられ,その「哲学の歴史」とかっこつきで呼びたくなるような哲学の性質は誰が関わっても面白いと思えるような気がするのだ。
ここからはキャラクター性と歴史性について考え,ある種ゲームとして哲学を学び、その先に実存的な「哲学」という確立したものを見出していくような構成で今回は考えてみたい。

哲学者のキャラクター性について。
まずキャラクター性ということについて考えてみると,流行りのものは「推しキャラ」なるものが存在する余地が十分に残されているように思える。アニメや漫画はもちろんのこと,ファッションやデザインだってある種の人間が想定され,それはキャラクターとなっている。
哲学にも哲学者がいて,それはそれは強大でかっこいい、美しいキャラクターが多いのだ。
哲学者をキャラクターとして見ることに一種の拒絶感がある人がいるかもしれないが、それはフィギュアとしてのキャラクターではなく、キャラクターとしてのキャラクターとして哲学者を見るという発想が少ないからだと思う。
キャラクターとして見るというのは決して,ニーチェという像を精緻にしていくことではなくて,ニーチェという人間が持ち得るコンボや他のキャラクターにはない魅力,そしてどのような系譜に置かれるのか、など、私たちがキャラクターを推すように「ニーチェ推し」になり、ニーチェの良いところを語れるようになることが哲学者のキャラクター性の意味である。
勘違いしてはいけないのはこのキャラクター性はあくまで全体としてキャラクターを捉えることであって,自分の好きなように配置するために貶された一面からのキャラクター性ではない。
フィギュアということは悪くないのだが,どうしても哲学者にそれを見出すのは違う気がする。哲学者は生身の人間なのである。
このように哲学者の広大な個性のおかげで私たちは一生愛し尽くせるような「推し」を見つけることができるのである。
そのことが入り口となって,ニーチェが「推し」だった人がショーペンハウアーを読んで「ニーチェよりクールだ!」と思って「推し」になったり、ハイデガーを読んで「ニーチェよりもロマンティックだ!」と思って「推し」になったり、そういうことは哲学者に限らないキャラクターの魅力だと言えるだろう。
そして上で述べたように私と「ニーチェはここがすげえよなあ」とか「ニーチェの書く文章はここがドラスティックだよなあ」とか、そういうことを話せるようになれば楽しいと思うのだ。

哲学の歴史性について。
「歴史」という概念を聞くときっと日本史や世界史などの歴史を思い浮かべることだろう。
そのような時に思い浮かべられているのは「線としての歴史」であろうと思う。
Aさんがなになにをして、Bさんがそれを引き継いで,Cさんが、
こんな風にどんどんと続いていくところに「歴史」という概念を当てるのが我々の風習である。
しかし,このような「歴史」という考え方には流行りそうなところがない。
それは面倒くさいからだ。
しかし、日本史や世界史などはその連綿と続いてきたことに意味があるのであるし,その中である種の反復や、反復に対しての革新性など,そういったところを見出すことが「歴史」ということの楽しみの一つであると思う。
けれど、それはあくまで「歴史」の楽しさであって,「哲学の歴史」は少し違う楽しみ方ができる。
歴史というと先ほども言ったようにA→B→Cといったように過去から現在へと至るものを呼ぶが,哲学の歴史はそういった構造を取りつつも,それとは別の歴史の形を取っている(と、私は思っている)。
この事態を言い当てるとすれば,「歴史」が観光的なものとして考えられているのに対して,「哲学の歴史」は居住的なものとして考えられているのである。
このことは別の言い方をすれば,「哲学の歴史」が時代を基準として考えるよりも系譜を基準として考えるということである。
「哲学の歴史」はある哲学者を中心としてそこから系譜的・同心円的に広がる波紋のような歴史なのである。
このことが流行りにどうして良いかといえば、哲学者を掘っていけばある種「哲学の歴史」は完成していくからである。
時間の経過や出来事の推移をその中に含みつつも、その核心にあるのは「ある哲学者を生んだ哲学とその哲学者の哲学が生んだ哲学」なのであり,常に「推し」の哲学者は中心に鎮座し,過去を整流し,未来を呼び込んでいるのである。
それは別の言い方をすれば,過去の哲学の財産を引き継ぎ,未来の哲学の可能性を広げる中心点として哲学者が「哲学の歴史」となるということである。
普通「歴史」は「別様であり得た」ということをあまり見ずに「流れ」や「推移」をその本質に置く面が強いが,「哲学の歴史」は哲学者が「別様であり得た」例の一つなのであり,それでありながら未来における「別様であり得た」別の哲学者を呼び込むような存在にもなっているのである。
このような構造に哲学の歴史はあるのであって,それは流行りとして考えると,ある人物を愛することが,ある物を愛することが,その人物や物が「生まれた理由」と「生んだもの」を同じ地平に展望することにつながるのである。
このような構造は科学には少なく,哲学や芸術、文学には大いに存在する。
私は哲学が好きだから「哲学の歴史」と言ったが,この「別様であり得た」をたくさん拾い上げられるような構造は芸術や文学にも存在する(と、私は思っている)。
だから別に芸術や文学が流行っても良い。
けれど私は哲学が最も好きだから,それをお勧めしているのである。

と、ここまで私にしては珍しく熱く語ってきたわけであるが,簡単に言えば,「かっこいい人がいるから一緒に推そうよ」というのが私の言いたいことである。
その言いたいことのためにキャラクターということを考えたり「歴史」を考えたりしたのである。

最後に一つだけ。
この「流行り」ということはあくまで入り口であって,「哲学」ということを行うためにはやはり実存ごと問われることが望ましいと私は思う。
普段から「哲学」を語り合うことは自分が問われる回数が多くなることであり,キャラクター性を見出すということは自分のまだ知らない自分を見出すことと同じことである。また、「歴史」を「別様であり得た」物事を拾い上げるための装置として考えるのなら,他者を迎えたり,対話を促進したり,誰かや何かを愛したり,そして自分の豊かさを知り,小ささを知り,世界の美しさに出会うことに少しでも興味が湧くと思う。
そのために私は哲学が流行ってほしいのであり,相手を論駁したり,文化を嘲笑したり、そういうことのために哲学を流行らせたいわけではない。
キャラクター性も歴史性も,深くまでいけばこのような感慨めいたエネルギーに繋がるような気がするし,私はたまたま「哲学」を愛することになったが,すべての流行りはこのような一種の経験,装置となるために存在していると私の「哲学」は信じ,愛し,肯定している。
私はプロフェッショナルが自分の仕事や生き様を少し照れながら笑って「面白いですよね。」と誰に向けたか,何に向けたか曖昧な愛で語るのが好きなのである。

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