文脈の旅人 優れた文章の読み手とは何か。

文脈。それは文を方向付ける。そして、それは文に作られている。
このウロボロス的な生成の仕方をする文脈はそのでき方にも注目すべきだが、僕がここで注目したいのは、その内部と外部についてである。
文脈はいつだってある。生きていることそのものが文脈の上に成り立っているのだ。そして、その文脈はひどく固定的である。
人間は自分の常識という文脈的作用をするものを文脈だと誤解しているが、真の文脈と呼ぶべきものはその文に内包されたものである。
文に内包されるというのはどのようなことを言うのだろうか。文脈は文に作用するだけのものではなく、その文そのものにまた作られていくものである。だから、常識などと言う軟弱なものではない。もっと柔軟で強いものなのだ。
文脈は文に作られ、文は文脈に作用される。矢印は双方向だが、文脈は文を包含しているのだ。その内部的な発想はいかにも飽きを持て余している人間的なものである。

本題に入ろう。文脈の内部と外部、そこではどのように文脈が再構成されているのだろうか。
話をわかりやすくするために一つのまとまりのある文を想定しよう。そして、それを今回は文章と呼ぼう。
文脈は文章の内部に存在するものと文章の外部に存在するもとがある。しかし、その存在の仕方は文章の中でしか確かめられない。けれども、人間という存在にそれは強く作用してくる。そして、文脈化された人間としての自分がまた世界という文章を文脈化していくのだ。
この話は永久に続いていく。なにせ、文章の中に存在している文脈は内部と外部に作用し、その外部たる人間が文脈化したとき、その文章は人間ということになるからだ。そして、それを脱したつもりになったとしても、それは新たな文章を創生したようなもので、またそれには文脈がこびりついている。
文脈を内部と外部に分けるとすれば、それは内作用的か外作用的かに分けられる。
内作用的な文脈はいつまで経っても直接的には文章を読んでいる人間には作用してこない。
外作用的な文脈は内作用的な文脈を包含し、直接的に文章を読んでいる人間には作用してくる。
僕はこの内作用的文脈と外作用的文脈を行き来できる人間が優れた読み手のように思える。
そこに於いての作法はまた書くことにするので、その優れた読み手の典型的な読み方を示す。

作者は死んだ!

ロラン・バルトは作者の文章への溶解をそう示したが、文脈は溶解しない。その強固なシステムは文章そのものの存在を許し、またそのことによって自分の存在を許されている。
だから、優れた読み手は作者の意図を次元を変えて捉える。
意図の世界、意図が変えている世界、そして、意図が生んだ世界。
その三つの世界の次元を飛び越えていける読み手こそ本当に優れた読み手であるのだ。
その一つの世界に安住しないのが本当に優れた読み手である。
決してどこかの次元や世界の支配者になることではない。

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