詩を読み書きすること

 私は思うのです。素敵に生きたい、と。そして私は思うのです。詩人になりたい、と。すると囁くのです。それなら詩を読み書きしましょう、と。

 私は詩を読みます。書きます。豊かに書けるようになりたいか?それとも豊かに読めるようになりたいか?そう訊かれたとしましょう。すると私は答えるでしょう。もちろん、読めるようになりたい、と。
 では、私はなぜ、なぜ「もちろん、」と言うのでしょう。それを今回は考えてみたい。そう思います。

 いくつか理由は考えられるでしょう。おそらく最も一般的なのは、読むが先にあったから、という理由でしょう。もう少し踏み込むとすれば、読むことからしか始められないから、という理由でしょう。たしかにこれは真理です。しかし、これが真理であることと「もちろん、」と言うことは関係があるのでしょうか。私は、強い関係はないのではないかと思います。それに、ここでの真理性はウィトゲンシュタインがアウグスティヌスを批判することで切り開いた「実はAであった」がありえない領域における真理性であり、この真理性は言わば大元なのであるから、この真理性と「もちろん、」と言うことの真理性は少しずれている。そんな感じがします。
 ここで少しずらしてみましょう。ここまでは「読む/書く」の対比にある意味での上下を描くことを目指していました。ただ、ここからはそのようなことではなく、「豊かに」ということの形態に着目してみましょう。もちろんこの着目でも上下らしきものは描くかもしれません。が、ここではむしろそのことを相対化しようとしている、そんなふうにも言えるかもしれません。

 「豊かに書く」というのはどういうことなのでしょう。「書く」と言っているからには書かれたものがなくてはならないでしょう。そうでないと「書く」ということはわからないからです。いくら「私は書いた。」と言っても書かれたものがなければそれが本当か嘘か、それがわかりません。なので、「豊かに書く」というのは書かれたものが豊かであると判断されることによってしかわかりません。おそらく。この言い切りには少し躊躇しますがとりあえずそういうことにしましょう。この留保は未だ理由のわからない留保です。何かを狙っているわけではありません。ただ単にわからないから、ただわからないなりにわかりそうだからピンで止めているだけです。
 さて、「豊かに読む」というのはどうでしょう。私は思うのです。「読む」が「書く」を作るのだ、と。(読まれない書物は存在するのでしょうか。)いや、「読む」と「書く」は同時に起こっているのだ、と。ただ、それでは「もちろん、」と言う意味がわかりません。どちらも同じだとするならば。そして、ここではどちらも同じわけではないと考えているので同時に起こっていると考えるにしてもそこをちゃんと見つめる必要があります。

 ただ、いまはなんだか色々なことが思い浮かんで考えられません。なので閑話休題して終わりましょう。変ですが。

 「書く」というのは「わからない」と書けるが「読む」というのは「わからない」と読むことができない。もちろん、哲学書などを読んでいて「わからない」ところはたくさんある。が、まったくわからないということはない。「書く」はそれがなされるとまったくわからないということがあったということがわかるようになる。
 なんというか、あまりうまく言えないが、「書く」にはわからないなりに進むができるということがあり、「読む」にはそれがない気がするのである。いや、ある/ないというよりも「ある」というふうに反転することがしやすいのが「書く」で、「ない」というふうに反転することがしやすいのが「読む」みたいな感じである。簡単に言えば、「書く」はわかっちゃったという傲慢に節制が効くが「読む」は効かない。そんな感じである。
 ただ、それではなんだか、「もちろん、」と言う意味がわからない。最も端的な誤魔化し、嘘を書くとするならば、「書く」ことは疲れるが「読む」ことは疲れないということがある。と、書いてみたはいいものの私の経験はその逆のことを言っている。別に疲れていても「書く」ことはできるが「読む」ことはできない。「字を追う」ことはできるが「読む」ことはできない。「字を流す」ことはできる。「書く」ことはできる。

 よくわからなくなってしまった。とりあえず問題として持って、寝ることにしよう。勝手に整理されることを期待して。

 その期待に一つの現実性をもたらすためにこの文章を書いていてずっと頭を掠めていた文章(の一部)を引用して終わろう。伊藤亜紗がヴァレリーについて書いた文章からの引用である。

ヴァレリーの詩のプログラムにおいて読者が行う「行為」とは、単なる能動的な行為とは異なる。それは「装置」によって促された能動性であり、ある種の「拘束」を、「捕虜状態」を伴う能動性である。

『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』 73頁

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