別れ(愛のレッスン)

 三月は別れの季節である。桜というのはこんなにも、ゆったりと咲き、早々と散っていくものだっただろうか。

 今日、いや、先ほど、少し前、かなり前、長らく(と言っても別に年数にするとそんなに長くないかもしれない。ただ、私にとっては長かった。)一緒に楽しくしていた人たちと別れた。一旦。いや、実はずっとなのかもしれない。
 苦楽を共にしたわけではない。ただ単に一緒に過ごし、ただ単に楽しかった。そういう気持ちである。いろいろ複雑な事情があり、それゆえの寂しさのようなものもある。ただ、なんというか、感謝しかない。
 特に書きたいことはない。私のこの、感情(?)、恋慕にも似た感情を書いておきたい。そんな思いに駆られたのである。もう寝なければならないというのに、私はそんな思いに駆られても良いと思ったのである。
 思い出すと泣いてしまいそうになる。それは悲しいからではない。なぜだろう。寂しいから、でもない気がする。もちろん、何か言うとすれば「寂しい」と言うだろう。ただ、それゆえに泣いているわけではない。それに別に泣いていない。私はただ、ただ単にさまざまなことを思い出し、それが楽しかったことを再認しているのである。
 たしかにこれはノスタルジーだろう。しかし、私はこんなにもちゃんとノスタルジックに存在できるのだな。それに驚いてもいる。こんな文章、小っ恥ずかしくて書けないはずだ。普段の私なら。しかし、いまはすらすらと書けている。別にお酒を飲んでいるわけでも音楽を聴いているわけでもない。ただ単に思い出し、微笑んでしまうほどにあたたかい、そんな思い出をひとつひとつ、というわけでもないがぼんやり、思い出しているのである。丹念に。
 何か具体的なエピソードを思い出しているわけではない。し、少し不穏な感じも感じている。けれど、なんというか現状肯定でしかないと言われようともそれでいいくらい、私は幸福なのである。幸福だったのではない幸福なのである。もちろん、おそらく何日か経てば「幸福だった。」と言うかもしれないし、そもそもそれを言うか言わないかなどどうでもいいような、そんな生活が始まるかもしれない。たしかにそうだ。しかしそれでも、それでも幸福であるのだ。
 別に私は幸福であることを誇ろうと思っているわけではない。喜ぼうとすら思っていない。ただ単に幸福であることを感じようとしている。それになんやらかんやら言わず、ただ単にそう在ろうとしている。
 たしかに、それならこんなもの書いていないで一人でにこにこしていればいい、とも言えよう。しかし、私はずっとこのことを抱き締め続けられるわけではない。忘れるだろうし、思い出しにくくもなるだろう。何かが剥がれて、邪悪な真実が垣間見えるかもしれない。しかし、そのことは別にこの愛に似た、いや、愛のことを傷つけることはないだろう。私は守ろうとすらしないだろう。なにせ傷つけることはないのだから。わざわざ守ってしまったら傷つく可能性を認めたことになるだろう。もちろん、こんなことを書くのはその可能性をすでに認めている、認知しているからだとも言えよう。
 もういいだろうか。私はとにかく幸福であり、私はとにかく感謝している。そして、やっぱり寂しい。寂しい。これはおそらく未来を予感してそうなのではない。なぜかはわからない。いや、もしかすると未来を予感してそうなのかもしれない。思い出の上に覆いかぶさり、それを雨や矢から守らなくてはならなくなるような気がするからかもしれない。それはたしかに滑稽であり傲慢でもあるだろう。しかし、別にそれでもいい。そういって守り抜くことができるような、そんな輝いているとかそうやって言うことすら野暮な、そんなものをちゃんと感じておきたかったのである。私は。そして記録に残しておきたかったのである。
 ただ、これらは言い訳かもしれない。ただ愛されたことへの、そして愛したことへの言い訳かもしれない。桜はまだ蕾なのだという。私の地域ではそうらしい。いや、もしかするともう、咲いているのかもしれないが。

 この文章を書こうと思ったとき、私はまっさきに次の詩を暗誦した。いや、勝手に再生されていた。

春芽ふく樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言ひ訳をせず

『乳房喪失』

 私の文章、ここでの文章はまったく、まったくこの詩を超えていない。超えるとかじゃないかもしれないが超えていない。しかし、この詩をもう一段深く、いや、これからさらに深く愛していく覚悟だけはできた。経験だけはした。そうは言える。それなら超えるとか超えないとかよりも素敵なのではないだろうか。別に素敵さを競っているわけではないが。別に素敵さを競っているわけではないのかもしれないが。
 特に賭けたつもりもないが賭けには勝った。そんな感じがする。そんな感じがする。「賭けてよかった。」みたいに思ったから。別れてすぐに。別に何も決断していないのに。いや、小さく、そして大きな決断をたくさんしていたのかもしれない。そんな気にさせられる、そんな愛であり、レッスンであった。

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