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AERA dot.の対談記事に対する反論


AERA dot.の対談記事

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る 「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を」という記事(アーカイブ)を読んだら、リナ・サワヤマさんの発言に同意できない部分がありわたしはこう投稿した。

Xで書くにはとても長くなってしまいそうなので、この記事ではAERA dot.の対談記事にあるリナ・サワヤマさんの発言で同意できない部分に対するわたしの反論を述べたいと思う。

ちなみにわたしは今までリナ・サワヤマさんの顔と名前は知っていたけれども、「個性的なファッションをしていて、若い人たちに人気のロンドン育ちの日本人女性歌手」という認識で曲は聴いたことが無かった。

(オススメされた「STFU!」のMVを拝見したところ、冒頭のマイクロアグレッション描写がとてもリアルだったし、怒りを爆発させるような雰囲気のカッコいい曲だと思いました!)

わたしの反論

リナ・サワヤマさんの上記記事内での以下の発言に対して、細かく反論していく。

日本女性、特に一定の世代以上の方に、トランスジェンダーをものすごく敵視する、差別する方がいます。トランスジェンダーを嫌う女性たちの多くが、日本の男尊女卑、女性蔑視の中で育ってきた世代であることから、問題の背景には日本の間違った価値観があるように感じます。でも私はその女性たちに「ターゲット(敵視する相手)が違いますよ」と言いたい。あなた方が女性蔑視、男尊女卑の中で生き抜いてきたフラストレーションと、今、トランスジェンダーの人たちとはまったく関係ない。トランスジェンダーを怒る、嫌うより、あなたの周囲の男尊女卑する男性に怒ってください。トランスジェンダーは自認する性として生きないと心が死んでしまう、病気になってしまう、自分らしさを失ってしまう人たちなんです。

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る
「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を」

トランスジェンダーの定義

日本女性、特に一定の世代以上の方に、トランスジェンダーをものすごく敵視する、差別する方がいます。

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る
「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を」

まず最初に「日本女性、特に一定の世代以上の方」と書かれているが、世代間の対立を煽りかねないと思う。「トランスジェンダーを批判しているのは古い価値観の年配女性で、アライは価値観がアップデートされた若い女性」とでも言いたげだ。

そしてリナ・サワヤマさんはどのような方をトランスジェンダーとして想定しているのだろう。

わたしが認識しているトランスジェンダーの定義は以下の通り。
「生得的性別とは違う側の性自認をもつ人」のことで、GID(性同一性障害)よりも広い層が包括されている。
(トランス女性は身体違和がなくて性別適合手術を望まない性自認女性の生得的男性や、性指向が女性である場合もある)

今までSNSでの議論を観察したところ、「トランスジェンダーの権利擁護に熱心な方」と「トランスジェンダーをものすごく敵視する、差別する(とされている)方」のあいだでは、トランスジェンダーの定義や「トランス差別」に対する認識が異なる場合も多かった。

身体違和があって性別適合手術をうけたGID(性同一性障害)の方をトランス女性だと同一視している方もいるようだが、たとえばクィア批評で有名な東京大学教授の清水晶子さんは「埋没した棘」で

「生得的」な女性が晒されている身体的・性的な恐怖やトラウマを考慮すれば、女性用に性別化された空間は「生得的」な女性か、少なくともペニスを持たない人々に明示的に限定されるべきであり、トランス女性はその境界線を脅かす存在であるとする主張。

『思想 2020年3月号』「埋没した棘」p.38

を「日本語圏SNSに導入され拡大されてきたトランス(女性)批判/排除のロジックやレトリック」のひとつとして紹介している。
つまり、クィアの専門家である清水晶子さんは「ペニスを持つ人もトランス女性に含まれる」と考えているということになる。

そして「埋没した棘」で言及されている、トランスジェンダーを名乗る尾崎日菜子さん本人が 「ペニスはありますが、ホルモンを数年間続け去勢をしているので勃起はあまりしません」 「単に権利上の問題ではあたしが女湯を利用すること、それ自体には何も問題がないと思います」 という自分の発言を自分自身でtogetterにまとめてもいる。

「埋没した棘」にあるように、ペニスのあるトランス女性の女湯利用を批判することがトランス女性への差別だとして逆に批判されていた時期がかつてあった。

そして性別適合手術済みのMtF当事者による、生得的女性からの信頼を失いかねないデリカシーに欠ける以下のような発言に対してさえも、「内心の欲望をトランス女性が表明するまでに追いつめたこと自体が間違いなのだから」と熱心に擁護するアライの方もいた。


SNSでのトランス女性を巡る話題は、まず当事者の発言に対しての女性たちによる批判がトランス差別として抑圧されたり封じられてきたという前段階があったため、これらの背景を踏まえずに分析しているのは的外れのように感じる。
少年ブレンダさんの発言(2018年12月29日)と同じ時期(2019年1月12日)に男性の社会学者が執筆した以下のブログ記事は当時の論調や空気感が分かりやすいのではないかと思う。

 念のため述べておけば、私は「男体への恐怖」の語りが常に悪いとまで思っているわけではありません。女性のほうが性暴力のリスクに晒され実際に被害にあっている差別的状況のもとでは、性暴力への恐れが「男性の」身体へと向かうことはむしろよくわかる気がしています。

 ただ、男性身体(とりわけペニス)へのそうした意味づけは、それをいつでもどこでもあてはまるものとして一般化してしまうなら、容易にトランス女性の身体にまで拡張され、現実的ではないトランスフォビックな懸念として表明されてしまうことになるでしょう。

 このように考えるなら、「女性専用スペースにおける性暴力」の問題を、トランス女性による利用と関連づけて考えることが、なぜトランスフォビアを含んでしまうのかわかるのではないでしょうか。そこにはトランス女性やその身体を、「男性」と想定したり意味づけたりすることが含まれてしまっているのです。性暴力の問題は、トランスの問題とは独立に考えられなくてはならなりません。(原文ママ)

「女性専用スペース」とトランスフォビア

「日本の間違ってきた価値観」

トランスジェンダーを嫌う女性たちの多くが、日本の男尊女卑、女性蔑視の中で育ってきた世代であることから、問題の背景には日本の間違った価値観があるように感じます。

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る
「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を」

リナ・サワヤマさんに関するWikipediaページ「アジア人でクィアである」ポップスターの誕生。日本生まれのリナ・サワヤマが次世代に伝えたいことという記事を確認すると、どうやら4~5歳のときにロンドンに移住してそれ以来ずっとイギリスにお住まいのようだ。

ならば日本にいる女性たちが男性から性被害にあうのが日常茶飯事で、告発や立件の困難さから性被害を泣き寝入りするため暗数が多くて、たとえ起訴したとしても被害者に対する二次加害が苛烈で性犯罪者がろくに罰せられないなどの出来事を彼女は身をもって体験していないので、どれほど男尊女卑がひどいのかご存じないのかもしれない。
ずっと日本に住んでいるアジア人のわたしが、欧米圏で育つアジア人がどれほどマイクロアグレッションをうけて人種差別されるかを身をもって体験していないのと同じように。

そのような立場から「トランスジェンダーを嫌う女性たちの多くが、日本の男尊女卑、女性蔑視の中で育ってきた世代であることから、問題の背景には日本の間違った価値観がある」といわれても、日本で生まれ育ったわたしとしては現実味を感じない。
男尊女卑、女性蔑視の中で育った結果、トランス女性を含む生得的男性全般を信頼できなくなったのに、間違っているのはそういった経験によって身につけた女性たちの価値観だとでも言いたいのだろうか?

トランス差別とは何か

でも私はその女性たちに「ターゲット(敵視する相手)が違いますよ」と言いたい。あなた方が女性蔑視、男尊女卑の中で生き抜いてきたフラストレーションと、今、トランスジェンダーの人たちとはまったく関係ない。

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る
「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を」

確かに日本の女性たちは「女性蔑視、男尊女卑の中で生き抜いてきた」といえる。
ならば、なぜサバイバーともいえる日本女性たちの経験に基づく懸念を「怒る、嫌う」と過小評価し、一方でトランスジェンダー(主にトランス女性)にのみ肩入れするのだろう。
女性たちに向かって「嫌うな、差別するな」というかわりに、トランス女性含む生得的男性たちに対して女性たちからの信頼を取り戻すように呼び掛けないのはなぜだろう。
女性側だけに受容を迫り、女性たちの経験に基づく意見を軽視するのは女性差別なのではないだろうか。

トランス女性が生得的女性と同等に扱われる場合に生じるであろう問題点はいくつもある。
・女性スペース(トイレ・女湯・女子更衣室)
・女子スポーツ
・統計
・医療
・トランスレズビアン
・パリテ
・東京強姦救援センターへの助成金打ち切り
・女子大でのトランスジェンダー女性受け入れ
・女性限定公募でトランス女性が採用される

最近でいえば
・理系女子学生支援プログラムの条件が「性自認か戸籍上の性別が女性」

以上のように、トランス女性の権利を優先すると、本来、生得的女性が生得的女性であるがゆえに生じる不利益を改善するためのアファーマティブアクションや、保護シェルターとしての機能が失われてしまう場合がある。
これらは「トランスジェンダーの人たちとはまったく関係ない」わけがなく、むしろ直接的に関係があることだ。

トランス女性と生得的女性の権利の衝突やそれにともなうリスクを懸念し、議論することが果たして「トランス差別」なのだろうか。
わたしはそう思わない。

トランスジェンダーを怒る、嫌うより、あなたの周囲の男尊女卑する男性に怒ってください。

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る
「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を」

リナ・サワヤマさんは「トランスジェンダーを嫌う」と言っているけれども、「トランスジェンダーを差別している」といわれている女性たちが問題視しているのはずっと(生得的)男性との権利衝突だ。
男性器がある人はもちろん(生得的)男性だし、トランス女性も(性自認が女性の生得的)男性である。

女性たちはずっとトランス女性が生得的女性と同等に扱われた場合に起こりうる問題を懸念しているのに、アライの方たちはこのようにトランスジェンダーへの差別や嫌悪だと話をすり替え続けている。

そもそもこの女性蔑視・男尊女卑の社会において、生得的男性が自分の思う女性らしさを実践したり、自分のことを女性らしく感じるからといって「女性」として受け入れなければ差別だと生得的女性に対してせまること自体が女性差別だと思う。
この場合は「女性に受容をせまるトランス女性=男尊女卑する男性」となるので、「トランスジェンダーを怒る、嫌うより、あなたの周囲の男尊女卑する男性に怒ってください」はナンセンスになる。
女性そのもの(sex)と女性らしさ(gender)は別だ。

「心が死んでしまう」

トランスジェンダーは自認する性として生きないと心が死んでしまう、病気になってしまう、自分らしさを失ってしまう人たちなんです。

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る
「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を」

スーザン・フォワード『となりの脅迫者』では、相手の恐怖・義務感・罪悪感を利用して感情的脅迫がおこなわれると書かれていた。

先に述べたような「女性スペース(トイレ・女湯・女子更衣室)/女子スポーツ/統計/医療/トランスレズビアン/パリテ/東京強姦救援センターへの助成金打ち切り/女子大でのトランスジェンダー女性受け入れ」など、トランス女性と生得的女性の権利衝突について議論する必要があるのに「心が死んでしまう」といわれてしまうと、議論そのものが成り立たなくなってしまうだろう。

「愛は愛」という名のもとに

Xに投稿したスクリーンショット部分の発言は以上になるが、リナ・サワヤマさんは直前でこうも言っている。

自分の子ども、家族のようにLGBTの人を愛してください。私がLGBTの権利について訴えているのは「愛は愛」だからです。だってLGBTの人も誰かの子ども、家族です。それなのに、その愛情を受けてない人がLGBTには多い。「カミングアウトしたら家族の愛を失うのではないか」と気にしている方がたくさんいます。

リナ・サワヤマ×ちゃんみな LGBTを語る
「どうしたらお互いのハッピーにつながるか話し合う機会を

この記事でわたしが言及してきたのは全てトランス女性と女性の権利に関する内容でLGBとは無関係だが、LGBとT(ときにはTQ+も)を合わせて「LGBT」「LGBTQ+」とまとめられ、トランス女性と生得的女性の権利衝突について言及すると「LGBT」「LGBTQ+」への差別といわれてしまうことが多い。

リナ・サワヤマさんは「自分の子ども、家族のようにLGBTの人を愛して」というけれども、全ての人を愛するのは不可能だし、親密圏と公共圏の話を分けて考えるべきなのではないか?
社会は「愛」という不確定な感情に頼らずとも他者と共存できるように考えなければならないのだから。

たしかにトランス女性は男性たちのなかでは弱い立場なのかもしれない。
しかし、「女性スペース(トイレ・女湯・女子更衣室)/女子スポーツ/統計/医療/トランスレズビアン/パリテ/東京強姦救援センターへの助成金打ち切り/女子大でのトランスジェンダー女性受け入れ」などにおけるトランス女性と生得的女性の権利衝突を無視することはできない。

ホモソーシャルやマチズモによって男性集団から排除された男性の問題を、「愛は愛」という名のもとに女性に受け入れさせて解決しようとするのは、従来の女性差別と同じ構図のようにわたしにはみえる。


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