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後編 アウシュビッツに行ってきた(知的好奇心の刺激)

はじめに
去年の2月の後半にアウシュビッツ(Auschwitz)に行ってきた。
前編と後編とに分けて書いているので、もし良ければ前編も見てね。
前半は少し真面目な内容。後半は個人的な発見、面白かったことを書いてます◯


好奇心

場の空気や状況を置いておいて、好奇心が優先的に働いて、興奮しちゃうことがある。実際に空気を読まずに好奇心が働いちゃった例がある。
もう何年も前のことだけど、破局寸前のカップルがいて(2人とも友達)、彼女の方が妊娠した事が発覚。その命をどうするかみたいな議論の仲裁を「おもしろそうだから」という理由で引き受けたことがある。実に不謹慎。
当事者からしたら、感情がぐちゃぐちゃになるくらいの複雑で大きな問題だ。第3者からしてもダークすぎて触れづらい。だけど、当時の僕からしてみれば、「こんなめちゃくちゃおもしろい議論に当事者を交えて触れることができる」というだけで、おもしろさ満載で、その仲裁の依頼に即答でOKした。
他の仲裁者1人も交えて4人で話したり、それぞれの当事者と1対1で話した後、無事に2人がある程度納得のいく結論が導かれ、この問題は収束した。
うまく収束したから、こうやって書くことができる。
でも実際、この議論はめちゃくちゃおもしろい。この議論の中には人類がまだ明確な定義を示せていない「生命とは?」という問いがあったり、複数の人の”意思”や”行為”の時間軸的な関係性を整理したり、何かの決定を下す際に、まだ意思を持たない生命(これから生まれるかもしれない子供)の存在が考慮されたりなど、どういう結果になるのだろう?という好奇心がバッキバキに刺激される状況が含まれていた。
仲裁を始める前から2人には「おもしろそうだからやる」ということは伝えていたのだけど、仲裁の役目を終え、問題が収束した後に2人と普通に話すと、「こんなダークな内容をおもしろいと言ってくれて、こっちも気持ち的に楽だった」と言ってもらえた。
第3者からすると不謹慎に思えるかもしれない僕の態度も、当事者にとっては意外と良かったのかもしれない。

これは想像だけれど、例えば僕の友人の大切な人が死んだとする。その友人と話しをする機会があった時、僕はためらいもなく「おもしろいね」って言っちゃったりすると思う。
その死に関する友人の持っている感情や考えなどを聞いたりすると、やっぱり死って頻繁に出会うものではないから、新しい考えとかに出会えたりする。そして、そういうのをおもしろいと感じたりする。
ちなみに、ここでのおもしろいは「興味深い」という類の意味合い。

なので
これらの話を聞いて、「君はふざてるのだろうか」とか思う人はそっと、このページを閉じてほしい。これから人類史上最も残虐な事件であるホロコーストが行われた地であるアウシュビッツに行って、個人的におもしろいと思ったことを書く。


アウシュビッツも例外ではない

実際に行ってきた感想は?と聞かれたら、自信を持って「めちゃくちゃおもしろかった!」と言うことができる。
アウシュビッツにいく前、現地に訪れた人が書いたネット記事を読んだり、色んな人の話を聞いていたりした。その中の多くの人は精神的に大きいダメージをもらっていた。「もしかしたら、自分もそういう状態になってしまうかもしれない」という可能性を本当に少しだけ心配したけれど、そんな心配は無用で、最初の予想通り、めちゃくちゃおもしろかった。
言葉として「アウシュビッツ」や「ホロコースト」、「ユダヤ人迫害」は知っていたけれど、それはほとんど何も知らないに等しかった。そういう記号としての言葉を知っているだけにすぎなかった。やっぱり実際にその場所を訪れて、話を聞いたりすると、それらの言葉の背景にあった、膨大な量の情報に触れることができる。そしてそれらに触れることがたまらなくおもしろい。

断片的なメモ
これから書く内容はホロコーストという事件やアウシュビッツには直接関係のないことも多い。例えば”ユダヤ人”に関することであったり、”国”ということに関するものであったりする。
アウシュビッツに行って現地で聞いた話をきっかけにして考えたことなので、多少、話のズレた事を書くと思う。そしてそれらは断片的なので、全体として1つの結論のある話ではなくなると思う。
アウシュビッツに行っておもしろいと思ったことの断片的なメモ程度に見てもらえるとうれしい。


01社会問題の系譜
これまで生きてきて、アウシュビッツの問題は自分とは全く離れた遠くにある問題だと思っていた。事件が起こった場所も時代も僕が生きている地点とは距離がありすぎる。けれども実際に現地に行ってみて、ガイドさんの話を聞いたりすると、その認識は全く逆で、現代社会で起こっている多くの社会問題の根本にアウシュビッツの事例が位置づけられるようにさえ思えてきたのだ。今、社会で起きているヘイトスピーチ、移民問題、いじめ問題、人種差別などの出来事も、実は遡ってみるとアウシュビッツの事例で既にその片鱗が露呈していると考える事ができる。
アウシュビッツに行ってから、「現代社会で起こっているこれらの社会問題は人類が共通して抱えている問題である。」という認識が強まった。

いろんな場所や環境で生まれ育った人たちがいて、それぞれが個性をもっている。けれども人類という点ではみんな共通していて、社会の中で、協力したり、時には喧嘩したりしながら、それぞれの人がそれぞれの幸せを求めて生きている。
そりゃあ、それぞれ違う個性や背景を持っているんだから、社会の中でそれぞれが幸せに生きていこうとする上で、問題も出てきちゃう。
世界中の人々が「人類」という点で共通点を持っていると考えると、世界の他の場所で起こった事例や、過去に起こった事例が少し自分にも関係のあることとして捉えられるかもしれない。

アウシュビッツで起こったホロコーストも例外ではない。この事件は人類が社会を形成して生きていく上で抱えていた様々な問題が過剰な形で表面化した例だと思う。そして、人類はここで表面化した問題を未だに完全に解決することができていないのかもしれないと感じた。
「アウシュビッツの事例で既に表面化していた問題が完全に解決されないまま、別の形に変わり、現代社会で起こっている。」
そう感じるようになったのである。
そう考えると社会問題にはある種の系譜があるように考えられる。
例を上げてみよう。アウシュビッツの事例ではユダヤ人がその犠牲になっている。これはユダヤ人が持っている性質や、歴史上の背景が大きく関係すると考えられる。その大きな性質の1つとして、ユダヤ人は国土を持っていないことが挙げられる(この性質自体も面白いなと感じるので、後述したい)。つまり、ユダヤ人は共通の思想を持っているけれども世界中にバラバラに住んでいて、どの場所に住んでいても”よそ者”という状態に置かれる事になる。当時のドイツがユダヤ人の迫害を始めた時、国際社会がユダヤ人を守れた可能性があった。ドイツ以外の国がユダヤ人を自国に受け入れることができたのであれば、もっと被害は少なかったかもしれない。
この部分は「難民問題」という名前に変わって、現代にも引き継がれ、国際社会の大きな課題になっているのではないだろうか。
自国の状況が悪く、そこでは幸せを求めるどころか、命の危険さえ存在する場合、他の国に拠点を移そうとするのは自然な行為であるように思える。けれども、国という境界線があるが故にそれを行うことが難しい状況がある。

他の問題もそうである。人種差別問題にしてもいじめ問題にしても同様である。それぞれの問題がエスカレートした先にアウシュビッツで起こったホロコーストという事例が有り得るのである。

少し話は変わるけれど、人種差別に対しての教育で、Jane Elliottさんの授業を動画で見たことがある。ある種の社会実験を授業の中に取り入れていて、目の色で子どもたちの扱いを変えるのである。それに応じて子どもたちの反応やパフォーマンスが変化する。とてもいい授業なので、時間がある人は見てみてほしい。ここにはあらゆる差別の根源的な部分が描かれている。



02職業の階層

今もそうだと思うけれど、それぞれの仕事ごとに上下関係がある。例えば、弁護士の仕事は地位が上の方にあって偉い。一方、ビル清掃員の仕事の地位は下の方にあって偉くないみたいな感覚だ。ちなみに、この上下関係のことを僕は階層と言ったり、ヒエラルキーと言ったりする。
当時もやはり仕事に階層があって、ユダヤ人は階層の低い(地位の低い)仕事をさせられていたらしい。例えば当時はお金を扱う仕事(銀行員)や芸術の仕事(アーティスト)は階層の低い仕事だとみなされていた。そういった仕事をユダヤ人にさせていたらしいのだ(今となってはその上下関係が逆になったりしているけれど)。
現代社会でユダヤ人に芸術の才能があったり、世界の金融を動かしていると言われているのはこういう背景があるようだ。
これまで、職業に階層があるってことを考えたことが無かったけれど、言われてみると確かにそういう感覚がある。
これは職業差別と言える。この差別はけっこう多くの人が持っているように思う。僕も、少なからず職業に対する差別をしているように思う。分かりやすいのはセックスワーカーの仕事だ。なんとなくの感覚だったとしても自分がやっている仕事のほうが地位が高いと感じているところがある。
でも実は未来のことを考えると先程のユダヤ人の例のようにその階層が逆転している可能性も大きくある。例えば今偉いとされている職業が全部コンピューターに取って代わられて、自分の身体を使って、他の人を幸せにしているセックスワーカーが偉いという時代が来てもおかしくない。それに、よくよく考えると、今だってセックスワーカーの持っている能力や果たしている社会的な役割を考えると、とても偉大なお仕事だ。ほとんど全ての男性は頭が上がらないはず。

少し話を建築に関連したところに持っていくと、建築業界だと職人さんが一番下の階層に位置づけられがちだ。けれどもやっぱり実際に手を動かして作っている人たちが一番偉大だなって感じる。手を動かして、物質に対面している時の情報量は膨大で、多くの発見がある。そういう部分に敬意がある建築家は本当に信頼できるし、僕もそういう人間になりたい。


03条件が揃って始めて起こる事象
「アウシュビッツの事例は突然変異的に起こったのではない。」ということを現地のガイドさんが言っていた。背景を知らないと、アウシュビッツの事例が突然変異的に起こったように思える。けれども、実際はそうではなく、いろいろな条件が重なって起こった事件だということが分かる。例えば、第一次世界大戦でドイツが敗戦して多大な借金を抱えていたことなどはけっこう大きい原因のように思える。国が必死だったのだ。
国民も疲れ切っていたに違いない。戦争で負けた事がきっかけで急に国民全員が大きな借金を背負っているということだ。その状況を想像すると国全体が疲れている上に切迫詰まっているという状況も納得できる。疲れていると判断能力が鈍くなってしまう。何かを判断したり、決定するという行為はとても労力を使う行為だ。
疲れ切った社会は独裁政治を生み出す可能性を大きく秘めている。だって、独裁政治は全部勝手に決めてくれる。疲れていると、それがおかしいことだと気がつく余裕は無い。
背景にどういう流れがあったのかを知ることができると、今の社会の状況に似たような部分を見つけることがあったりする。
日本は労働時間が長くて、疲れている人が本当に多いように思う。疲れていると、社会で起こっているいろいろな事象に目を向けている余裕が無くなる。実際、東京の設計事務所で働いていた時に選挙に行く機会があった。けれども毎日終電で帰ったり、休みがなかったり、疲れが溜まっていて、選挙に行く余裕は全然無かった。
今の社会は大丈夫かな?と考えて、そういう方向に進まないように発言したり行動したりできる状況を作ることは思っている以上に大切な事かもしれない。もしかしたらその先に、自分や自分の大切な人たちが毒ガスで殺されてしまうような未来があるかもしれないのだ。


04国という体系

先述した内容だけれど、ユダヤ人が国土を持ってないってのはかなり面白い。国の定義を調べると「住民・領土・主権及び外交能力を備えた地球上の地域のこと」と書いてある。
僕は沖縄出身だけれど、沖縄はもともと琉球王国という1つの国だった。けれども戦争があって、日本という国に吸収された。
国が生き残るのか、人が生き残るのか。という選択肢の中で、琉球王国は人が生き残ることを選択したのである。
けれども、やっぱり沖縄出身の人と会って話をすると、地元に愛を持っている人が多い。どこかで日本とは違う1つの国の出身という感覚を感じてしまう。いつになるかは分からないけれど、沖縄のために自分の力を使いたいなっていう気持ちは心の奥に強くある。


05論理や数学やシステムの問題?

アウシュビッツの事例に、マジョリティがマイノリティを排除したという側面を見出すことができる。この部分に論理や数学が持つ性質の限界があるように感じた。
マジョリティが生まれるのと同じ瞬間にマイノリティが生まれる。数が多いとそれは力を持つ。一方で、「数が少ないことが価値を上げる」事もある。芸術品などだ。
これらは数字という概念がもっている性質の例。
これは誰にも変えられないし、人間がどうあがいてもそうなる。
あまりうまく言語化できないけれども、そういった”論理”や”数”という概念の性質がアウシュビッツの事例に加担しているように感じた。それぞれの概念の性質自体は誰にもどうすることもできないし、それ自体が悪ということではない。
これらの概念は生き物のように僕らの意思とは別で動いている。アウシュビッツの事例はこれらの概念が悪い方向に作用しているような感覚を覚えた。

他に例を上げるとすると、資本主義というシステムがある。これも1つの概念である。このシステムも生き物のように人間が完璧にコントロールすることは難しい。そして、このシステムで社会が回り始めた時は良かったかもしれないけれど、今となっては、このシステムが人間を幸せにしているようにはなかなか見えない。資本主義というシステム自体が悪い訳ではない。
けれども僕らは既に動き出していて、多くの人が順応しているこのシステムをどうすることもできない。何か、新しいシステムを始める時、それを途中で辞められるようなシステムを同時に持つべきだったのかもしれない。
それらを手なづけられるような状態や仕組を保っておかないといけないのかもしれない。


最後に

以上、個人的に面白かったことをメモみたいにいろいろ書いた。
現地に行った時のメモは他にもいろいろ書いてあって、なかなか全部を整理できなかったけれど、主なものは全部書けたように思う。
僕もまだ勉強不足で分からないことも多いし、こっちにいると政治の話になったりすることもあるので、少しずつお勉強しながら、自分の考えを育てていきたい。
ちなみにアウシュビッツはヨーロッパの教育現場でとても注目されているらしく、毎年多くの学校がプログラムを組んで見学に来ているらしい。
確かにここで起こったことから学べることは非常に多くあると思う。
普段、なかなか考える機会がない事象だからこそ、現地に行って実際の体験を伴って話を聞くと、新しい発見や学びがたくさんある。

もし機会があれば行ってみてね◯

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