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0005_身体から生まれる音

「身体から生まれる音」というのを感じる時がある。

ここでの「身体から生まれる音」というのは、言葉の通りの、人間の声帯から出る声や、手と手をぶつけ合って出す、拍手のような音という意味合いとは少し違う。

かりそめの定義を与えるとするならば、「身体の内側から溢れる言語化される前の動きや体験から生まれる音」と言えるかもしれない。
具体的な音を出す要因としての身体に関してというよりも、もう少し身体を取り囲む言語化されにくい側面に関しての意味合いが強い。

少し話は逸れるけれど、いつ、どの瞬間に、どういう状況によって、最初の音楽が生まれたのか?ということに関して、僕は知る術を持っていないけれども、人類が最初に音楽を奏でた場面を想像したりしてしまう。自分の声帯から出る音を使ってメロディを奏でたり、身体を叩いてリズムを作ったり、何か道具を使ってこれまで聴いたことのないような音を出し、それに驚くようなシーンが想像できる。そこには好奇心によって考えるよりも先に身体が動いてしまう様子や、感情の起伏がそのまま音になったような状況、体験した音を真似るように音を出す姿をイメージしてしまう。

想像に過ぎないけれど、これらが音楽が生まれる瞬間の状況だとしたら、現在はそこから発展して、あらゆる音楽が日常にあふれている。そして、音を出す方法も無限にある。聴く環境もいろいろあり、音を出す人と聴く人との間に空間的な距離や、時間的な隔たりがあっても、音楽を聴くことができる。

そういった数ある音楽を聴く機会の中でも、音楽が生まれる瞬間に出会ったような、「身体から生まれる音」というものを聴く時がある。

僕の経験的に、この「身体から生まれる音」は演奏者が生で演奏しているのを聴いたときに感じることが多い。けれども、例えば、ミュージックビデオを見てそういう音を感じることもあるだろうし、CDを回してスピーカーから出る音を聴いても、感じ取ることが可能であるかもしれない。

少し個人的な体験から具体例を挙げてみよう。

サミエルさんというミュージシャンがいて、東京都内でゲリラ的に演奏をしている。その演奏を何度か見たことがある。一番最初に出会ったのは高円寺の駅前。もう何年も前になるけれど、友人と待ち合わせをしている最中にたまたま出会い、しばらく演奏を聴いていた。その他にも原宿駅の前や、中目黒の駅の高架下のあたりで演奏しているところに出会ったことがある。

最初にその演奏に出会ったとき、とても感動してしまって、「幻」という名前のアルバムを購入した。ちなみにそのアルバムは何か不要になった紙(裏には何か関係のない情報が印刷されていた)で包まれ、手書きで「幻」と書かれ、セロハンテープで綴じられた、最高にイカしたものだった。

身体から生まれる音との出会いは記憶の限り、その瞬間が最初だった。

サミエルさんは楽器自体を自ら製作して、その楽器を使って音を奏でている。その楽器は割り箸やピアノ線から作られていて、足元には打楽器的な装置も組み込まれている。

楽器は人類が発明した音を奏でるための装置で、それは身体機能を拡張するものとして捉えることができる。手足の小さな動きを音に変換したり、時にはそこに電気を流して、それを操作して音を奏でることもある。

サミエルさんのその装置は僕が今まで知っていた楽器とは一線を画していた。その楽器は彼の身体と密接に接続し、それはある種の拘束具にも見えたし、建築のようにも見えた。その楽器を使って、音楽を奏でている姿は楽器と身体の境界が完全に無いもののように見え、身体の一部というよりも身体そのものとして、楽器が動き、そこから音が生まれていた。

そこには頭の中で考える思考や意識すら存在しないように見えた。そういった思考や意識よりも、もっと根元にある感情の揺れ動きや、私たちがどうやって歩いているか頭で考えるよりもはるか前に歩いているような身体の性質としての動きがそのまま音として立ち現れているように感じた。

その時から、「身体から生まれる音」という視点が音楽を聴く際に加わった。

少し補足しておくと、「身体から生まれる音」を含んでいることが必ずしも良い音楽の条件か?と問われるとそれは違うと思う(音楽をやったことのない人間が偉そうにすいません)。例えばSteve Reichの音楽のように徹底的にシステムを遵守していった結果に立ち現れてくる音楽も好きだし、良い音楽だと思う。

もう1つ具体例を挙げるとすると、今は無くなってしまった原宿のVacantで行われたビンセント・ムーンのライブが印象に残っている。ビンセント・ムーンの他にも何人かのアーティストが一緒に集まってのライブだった。

ビンセント・ムーンの演奏は音楽だけではなく、映像と一体となっていた。と言うよりはむしろ、映像の方が先にあり、その映像の中の音から音楽を構成しているようなものだった。映像はこれまで彼が旅をしてきた中で撮ったもので、言わば、彼の視点がそのまま記録として残っているようなリアリティの強い映像だった。そこには彼が体験してきた世界中の生々しさが隠されることなく映っていた。

ここでも「身体から生まれる音」を聴いた。音そのものは記録した映像から取ってきたものであるので、その音を彼が直接出している訳ではない。しかし、彼の記録してきた生々しい体験から生まれる音には、どうしてもその体験そのものや、それを体験してきた彼の身体へ意識を向けざるを得ないような力強さがあった。

まるで自分が映像の中の空間に引き込まれ、実際にそれを体験しているというよりも、その体験のもっと根っこの部分に感情だけが引き込まれ、一緒に鳴っているのではないかというような気がした。

そういえば、サミエルさんの演奏を聴いた時も彼の作る空間に引き込まれ、その空間の中に入っているというよりは一体になっているような感覚があった。


「身体から生まれる音」の正体が一体何なのかは分からない。

けれどもそこには聴く人を引き込み、同時に聴く人と重なろうとする「何か」の存在が確かにある。


建築にもそういうことが可能なのだろうか。





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