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「ドラマ『セクシー田中さん』調査報告書」日本テレビ版、小学館版をそれぞれ読んだ感想。
「ドラマ『セクシー田中さん』について」の報告書、日本テレビ版、小学館版を読んで自分が感じたことについて書きたい。
あくまで自分が感じたこと、考えたことなので、興味があるかたは原本を読むことをお勧めする。
報告書を読んだ限りでは、この件は「日本テレビと小学館の間の問題」だ。認識の食い違いによって対立し、その対立を解消をする責任を負うべき当事者は、日本テレビと小学館である。
だが何故かどちら
「大造じいさんとガン」のストーリー解釈と「タニシを集める養女の夢設定」への感想を語りたい。
めっちゃなつかしい。
自分もこの話が凄く好きで「今まで勉強した国語の教科書の物語の中からひとつを選んで、絵を描きなさい」という課題で、残雪とハヤブサの戦いのシーンを描いた。
「残雪」という名前に、当時から「カッコよ」と痺れていた。リアル中二になる前から厨二だったのだ。
という思い入れがある話なので、思い出しついでに自分の解釈を話したい。
※解釈違いが許せる人だけ読んで下さい。
自分の記憶
「パラノマサイト」の志岐間春恵と櫂利飛太の、表向きの設定を越えた不思議な関係が面白い。
※本記事には「パラノマサイト FILE23 本所七不思議」のネタバレが含まれます。
※全体の感想記事は↓こちら。
「パラノマサイト」の志岐間春恵と櫂利飛太の関係が面白い。
二人の関係は、物語の表層上は「探偵と依頼主」でしかなくそれが揺らぐことはない。
ところがその視点だけで物語を追うと、不自然に感じる点が多々ある。
例えば物語の冒頭、春恵は真夜中に利飛太を自宅に呼び寄せている。いくら夫と
自分が考えるフェミニズムと、いまネットで広まっているフェミニズムとの違いは何か。
自分が考えるフェミニズムは、いまネットで広まっているフェミニズムとどこか違う。
むしろ真逆のように思えるのは、ベースにある考え方が違うからでは、と気付いた。という話の続き。
*以下は、自分が読んだものに基づく限りの話になります。
フェミニズムの各派はその時代の哲学の主流となる思想をベースにしている。
↑の記事でスピヴァクを例に引いたが今のフェミニズムは
「ライチ☆光クラブ」や「鉄血のオルフェンズ」のような、閉じられた子供の互助コミュニティの話が好きだ。
古屋兎丸と和山やまの「ライチ☆光クラブ」のコラボ本を買ったことをきっかけに、「ライチ☆光クラブ」への熱が再燃している。
本編を読んだ時は、ジャイボはイカレたヤバい奴としか思わなかったが、コラボ本の短編で描かれたゼラへの恋心を前提にして本編を読むと、まったく別のキャラに見える。
本編でも「ゼラが本当に好きだったから、大人の男になることが怖かった」という内面が、もう少しジャイボに寄り添う形で描か
女性キャラを「自分」と紐づけて考え、問題にする女性がいるのは何故か。
もうこの話題はいいかなと思っているのだが、タイトルの件だけ気になったので自分の考えを書きたい。
自分が考えた一番大きな理由は、今の社会の中では(特に対男性において)「女性という属性」自体が特徴として捉えられやすいということだ。
女医、女優という言葉が問題になったことがあったが、「男であることが常態(標準)であり、女であること自体が特殊な状態」という意識が社会(公的な場)ではまだ強い。
女
「社会に依拠せず、自分が世界とどう対峙するか」を語っているコーマック・マッカーシーの作品が大好きだ。
黒原敏行がマッカーシーの作家性だけではなく、作品一冊ごとに話をしている。こ、これは贅沢すぎる。
記事の終盤で黒原敏行がこう語っているように、マッカーシーの作品の特徴は、社会がほぼ機能していない、ゆえに自己がむき出しのまま世界と直で対峙する(せざるえない)ところにある。
今の時代だと「自己を抑圧するもの」として捉えられることが多いけれど、社会は「脆弱な自己を守る鎧」でもある。
共同体の内部
「世界が余りに強大で不可解すぎて、人間の個体差など無意味」というチートと逆の設定が好き。
「ケントゥリア」の五話を読んだ。
これは自分が好きそうな話だな、と期待がふくらんでいる。
「世界の全貌は人には理解できない」
「人は何一つ意味もわからず世界の隅っこで生きているだけ」
「人の個体差(能力差)など、世界から見ればミジンコと蟻程度の差しかない」
という世界観が大好きである。
ホラーが好きなのは、ホラーというジャンル自体がこういう世界観だからだ(クトゥルフ神話が典型だけど)
この
「風よあらしよ」の感想。「悪者になってはならない」は女性にとっては、もはや呪いに近いのではないか。
野枝が大杉栄と出会うまでは凄く良かった。
子供時代、十代の野枝はとても魅力的だ。
何としても学校に行き勉強がしたい、このまま田舎の片隅で平穏に暮らす一生で終わりたくない、世の中が見たい、自分の力を試したい。
「風やあらしは強ければ強いほど、それに立ち向かえる」
野心と克己心、上昇志向、自分の可能性を追求したいという情熱と渇望、その反動としての焦燥と鬱屈がこれでもかと伝わってくる。
自分
人をざわつかせる影響力について
記事を読んで思ったけれど、よしきさんが経験したケースはこっち↓じゃないかな。(違ったらすみません)
自分が想定したのは、よしきさんが悩んでいる状況とは逆の「他人が自分に無関心なのは当たり前だから、何かをするにあたってそこを問題にしても仕方がない」という話だ。
よしきさんもそこはわかった上で「他人の反応」という大きな枠組みでとらえたのだとは思うけれど。
完全にただの推測だけど、コメ主は