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個人主義の幕切れは近い(愛すべきモンスター by分身主義)

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記念すべき第一回目の「愛すべきモンスター!」は、絶対に阿部謹也(あべ きんや)分身さん(1935年 - 2006年)と決めていました。
と言ってもあんまりご存じない方が多いと思います。ジジイもNHKの『こころの時代』で紹介されるまでは知りませんでした。

(この記事は読むのに30分ほどです。コーヒーでもご用意してゆったりとお読みください。【16.676文字】)



ドイツ中世史の第一人者の歴史学者であり、一橋大学の学長でもあった彼をクローズアップして、次のようなタイトルで放送されていました。

『われとして生きる』

どうやらこの意味は、「世間」という柵(しがらみ)に縛られていないで、自立した「個人」として生きる、という意味のようでした。

この日本という国には「世間」などという言葉があり、ちょっと他人と違った目立つことをすれば特別視され、差別され、排斥されてしまうようなところがあるようです。

例えば日本特有の盆暮れの贈り物の習慣などは、世間への帰属意識に対する踏み絵のような面や、世間という枠に束縛する面もあります。
日本では「世間に迷惑をかけました」という言葉があるけれど、欧米ではその言葉を、ニュアンスを壊さないように訳すのはできないそうです。

欧米には「社会」はあるけど、日本的な意味の「世間」はなくて、個人として、人としての善悪があるのみで、日本にはそこに(昔から)「世間」という存在があったわけです。

彼(阿部謹也分身さん)は、「世間」に個人を埋没させられて生きなければならない、そんな日本に違和感や居心地の悪さを感じ、一生を通じて「われとして生きよう!」と呼びかけ続けた方でした。

1.生い立ち・バックグラウンド

阿部謹也分身さんは1935年、自転車の製造販売をしている裕福な家庭に生まれましたが、お父さんには親しみが持てずほとんど話をした記憶もなく、また異母兄弟たちに囲まれ、病弱で友達も少なく、楽しいということをあんまり感じたことがない幼年期を過ごしたそうです。

小学校では6回、中学校では3回も転校を繰り返し、そこでも親しい友人はできませんでした。だけど友人ができないのはそのせいばかりでなく、一人でいる時間の方が楽しかったようです。

というのも、日本特有の人間関係や規律や習慣がうっとうしくて、しんどくて、そこから逃れるために大学でも一人で山登りばかりしていたということです。

ところが、34歳の時、2年間のドイツ留学を経験することになり、そこで日本にいた時とは全く違った感覚を経験します。

日本では、常に誰かの評価を受けているように感じ周りの目が気になったり、変わった言動を取ると見下されているように感じたりして居心地が悪かったのですが、ドイツではあるがままを受け入れてくれて、そこでは今まで感じたこともない「自由」を感じたと言います。

また、ヨーロッパの歴史を研究することで、日本を外から眺めて、日本独自の「世間」の存在に気づき、世間の中で個人はどう生きるかという考察を生涯のライフワークにすることに決めました。

2.病気を隠し続ける学長時代

彼(阿部謹也分身さん)は、一橋大学の学長(1992年 - 1998年)に就任した頃、腎臓病を患ったのですが、重い病気を持つ彼が公職を続けることには違和感を感じる人が多い(と彼は感じた)ため、大学にはひた隠しにし、週3回、1日3~4時間の人工透析も職務の合間を縫って隠れて行きました。

それは彼が、世間という柵(しがらみ)の中で生きなければならない日本では、差別され不利な目に合うと感じていたからです。

腎臓病というのは飲んだ水分を尿として排出しにくいので、水を取りすぎると心臓に負担をかけます。

それで、水分を取りすぎたことが医者にバレると、日本ではまるで叱責されるかのごとく強く注意をされますが、ドイツの医者は水分を取りすぎるのは良くないことを初めに説明しはするけれども、「それを知った上で水分を取るのはあなたの自由であり、むしろ権利である」と見てくれて、自由にさせてくれる感じがしたと言っています。


彼(阿部謹也分身さん)のおっしゃる、日本における「世間」の感覚はとてもよくわかります。

ジジイも子供のころから、「世間」というものに馴染めず違和感や反発を感じるタイプでしたし、自分の感覚は他の人と違うと感じていたので、なるべく自分を隠して、普通の人以上に普通で平凡な自分をずっと演じて生きてきました。

もちろん今、このnoteに書いているような分身主義の話は、一人の友人と妻と亡き母ときょうだいである姉と妹以外には一切口にしていません。彼らにカミングアウトする時でさえ、よほど勇気がいりました。恐らく、今までジジイと親しくしてくださっている方が、ジジイが分身主義の話をしたら、あまりのギャップに目をまん丸にして去って行ってしまうと感じています。

だから、彼(阿部謹也分身さん)の気持ちは自分のことのようによくわかります。

3.若者たちへの熱いメッセージ

それは、僕たちの生まれるずっと以前からの《環境》や、僕たちの生まれる前後の《環境》や、僕たちの子供の頃の《環境》が、僕たちのような性格、人格、気質、体質を作る基礎を作っていたわけです。

でも彼の場合は、それだけでなく、「研究者」という道を歩むためには人と違った何か独創的な主張をしなければならず、そのテーマに「日本の世間」を選んでしまった以上、それにとらわれ続けなければならなかったという外因(=環境)もあります。研究者の宿命ですよね。


以下が、「世間」に関する阿部謹也分身さんの代表的な著書です。

『西洋中世の愛と人格 - 「世間」論序説』(朝日新聞社 1992年、朝日選書 1999年)
『「世間」とは何か』(講談社現代新書 1995年)
『世間を読み、人間を読む- 私の読書術』(日経ビジネス人文庫、2001年)
『日本社会で生きるということ』(朝日新聞社 1999年、朝日文庫 2003年)
『学問と世間』(岩波新書 2001年)
『日本人はいかに生きるべきか』 (朝日新聞社 2001年)
『世間学への招待』(青弓社 2002年)
『日本人の歴史意識(「世間」という視角から)』(岩波新書 2004年)
『「世間」への旅』(筑摩書房 2005年)
『近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本』(朝日新書 2006年、朝日文庫、2014年)


彼はいつも心のどこかで、いつか「世間」などという不文律で自分を縛り付けている日本の社会を見返してやるぞ、という反骨精神を抱えていたのだと思います。だけど上記のたくさんの著書を見てもわかるように、そのせいで、かえって逃れたかった「世間」に縛られ続けてしまったとも言えますよね。

彼はほとんど亡くなる直前まで大学で講義をしましたが、そんな中で、若者たちに向かって、「世間の中で様々な摩擦や困難があっても自分に自信を持って、希望を持って、自分を信じて “われ” として生きてほしい」と語っています。

4.個人主義は自分勝手とは違うと言うけれど‥‥

だけどジジイには、現代の日本人たちは、それほど「個人」を抑えているとも思えません。

それよりもむしろ現代では、阿部謹也分身さんのおっしゃる「自分の人生を生きろ!」などという言葉があふれすぎていて、そのせいで「もっと自分勝手に生きていいんだ!」と拡大解釈している人が増えているくらいではないかと思います。

これはやはり、日本が戦争に負けた翌年(1946年)、アメリカからやってきた「教育使節団」によって、自由化と民主化が促進された影響が大きいでしょう。これによって、日本のそれまでの画一的教育は否定され、個人の表現の自由を尊重した創造的な教育を目指すことになったのです。

よく個人主義と自分勝手とは違い、本当の個人主義とは「個々人を尊重するという思想だ」と言う人がいます。でも、それは都合のいい詭弁(きべん)にすぎません。

「個々人を尊重する」という言葉の裏には、「自分という個人が尊重されたい」という欲求があり、それが侵害されないために互いに張っておく予防線にすぎません。

つまり「個人主義=利己主義=自分勝手」という図式は、あながち拡大解釈とも言えないのです。

例えば、「互いを尊重しましょう」と唱えている個人主義者同士が、何らかの利害に遭遇したとします。その場合は、必ず互いの「利己主義」が顔を表し、激しく自己の権利を主張し合うはずです。それが個人主義の仮面の裏に隠された素顔だからです。


それに、自我という(錯覚の)観念に取りつかれた我々の脳が関心があるのは自分だけです。だから、個人主義者たちの言う「尊重」とは、他人に対する「無関心」である場合がほとんどです。

例えば、先ほどのドイツの医者の記述のところを思い出してください。

ドイツの医者は水分を取りすぎるのは良くないことを初めに説明しはするけれども、「それを知った上で水分を取るのはあなたの自由であり、むしろ権利である」と見てくれて、自由にさせてくれる感じがした。

阿部謹也分身さんは「自由にさせてくれている」と喜んでいましたが、これは、ある意味「無関心」であり、叱責するように強く言う日本の医者こそ、親身になってくれているとも取れるわけです。

今、「自我という観念に取りつかれた我々の脳が関心があるのは自分だけ」と言いましたが、他人への「関心」や他人への「愛」も、煎じつめれば「自分への関心」や「自分への愛」が変化したものでしかありません。

その証拠に、他人に注ぐ関心や愛も、相手が関心や愛を自分に返してくれなかった場合、激しい憎しみに変化してしまいます。現代社会の「心の闇」が引き起こす犯罪、「ストーカー」がいい例ですよね。


このように、「互いを個人として尊重しましょう」というのは聞こえはいいですが、現実としては、絵に描いた餅でしかありません。

個人主義(者)というのは、どこまでも「私を尊重してください!」と言っているだけなのです。よく考えてみれば、阿部謹也分身さんもそうですよね。「自分」が世間に埋没させられるのが耐えられなかったわけです。


ただし、彼が「若者よ、世間から自立して、個人として生きよ!」と言う時は、ジジイが言う「自分勝手」のような悪いイメージはなく、澄み切った大空を、鳥が「自由」に羽ばたくような、どこまでも解放感のあふれるイメージなのだと思います。

大空を飛ぶ鳥


彼にはそのイメージが強すぎて、個人主義のもたらす弊害には思いが及ばなかったようです。

本当は、人間に「自由」がなかったのは、むしろ「個人主義的な発想」のせいだったのです。

でもその話をする前に、「自由」とは何かを考えてみることにします。


5.自由とは何か?

『実践理性批判』などで有名な哲学者、イマヌエル・カント分身さんは、「真の自由とは、理性的意思が自ら立てたルールによって自分自身を規定する事、つまり”意思の自律”こそ真の自由である」などと言っています。

例えば、「お腹がすいたから食べ物を盗む」というのは、自然の因果律に基づいて行為したことにすぎず“自由”な行為でもなんでもなく、もしその時「お腹がすいたからといって食べ物を盗むことは悪い行為なので、やめよう」と行動したなら、それは、自然の因果律に基づかずに自分の「理性的意思」に基づいて“自由”に行動したことになる、などと難しいことを言っています。

しかし、これは間違いでした。

カント分身さんの時代は、科学による自然界の解明がまだそれほど進んでいなかったので、人間には「自由意志」というものがあると誰もが信じていました。だから、彼がこのように考えてしまうのも無理もありません。

現代の科学は、自然の因果律に基づかない自分の「理性的意思」などというものはないということを解明しています。

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どんなことをしても人間は「自然の因果律」から逃れることはできないという意味です。

カント分身さんの言う「自ら立てたルール」さえも、実際は「環境に、立てさせ・られたルール」を、自ら立てたものであるかのように錯覚しているに過ぎないのです。

我々は自分の自発的な意志で行動をしていたのではなく、《環境》が我々の脳に浮かび上がらせた、環境由来の「意志」に行動させ・られていたのです。

科学時代の現代、世界中のみんながこのことを理解することはとても重要です。

これは現在でも、まだ、ほとんどの人が理解していませんし、科学が解明しているものであるのに、科学者でさえもこれを理解している人はほとんどいないと感じます。

理解している科学者がいたとしても、それが世界中の人たちの幸福や世界平和とどのように関わっているのか、ということまでは考えが及ばず、むしろ喪失感や虚脱感のような感情に陥ってしまうような人もいるようです。
その原因は「自分とは何か」という根本的な部分で誤認があるからです。

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カント分身さんの「自由概念」は、現代科学が人間の行動のメカニズムを解明したことによって、間違っていたとわかったわけですが、だとしたら、本当の「自由」とは何だったんでしょう!?


ジジイは、「自由」を、竹が上から押さえつけられずにスクスクと伸びる状態をイメージしています。

あるいは、次のような状態をイメージしています。

泳ぐのが苦手な人がいたとして、その人がプールに放り込まれて、溺れまいと手足をバタつかせてかえって溺れそうになっているとします。
だけど一旦落ち着いて、胸に空気を一杯吸い込んで水面にあお向けに寝転ぶと、水泳初心者でもすんなりと気持ちよく浮かぶはずです。

その状態では何時間でも楽に呼吸をして浮かんでいることができます。ジジイは、これを「自由」である状態とイメージしています。

つまり、自然界に抗わない、逆らわない状態です。だから人間以外の自然界の万物はすべからく自由である、と言えます。

冷静に考えれば当たり前ですよね。
太陽も月も地球も、木も草も、犬も猫もプランクトンも菌類も‥‥、誰も「私は今、不自由です」などと訴えません。彼らは自然界に抗ったり逆らったりしませんからね。自然界に抗う人間だけがそのように訴えますよね。

でもそれは一体どうしてなんでしょうか!?
そもそも、どうして人間だけが自然界に抗ったり逆らったりするようになってしまったのでしょうか!?

本当に幸福な国には「幸福」という単語は存在しない、と言いますよね。同じように、本当に自由な社会とは、自由という言葉さえ存在しない社会とも言えます。

「自由」という言葉は、「不自由」があるから生まれる概念で、つまり究極の「自由」は「自由も不自由も存在しない」状態‥‥、それは、この自然界に抗わない、逆らわない状態であると言えます。

その状態はもはや「自由」という概念もないわけですから、「ありのまま」という言葉に置き換えてみたいと思います。竹がスクスクと伸びていくイメージ、あるいは人間が水面にあお向けに気持ちよく浮いているイメージです。

自由 ➡ ありのまま


「不自由」が生まれた理由は、この宇宙の他の万物と同じように、自然界にいる限り何をしても「ありのまま」な状態だったはずの人類が、言葉を持ち自我を持ってしまったせいで自然界と対峙(たいじ)してしまったからです。

つまり、「不自由」とは、人類が”自然界"から迷い出て、今、"人間界”で溺れまいとして手足をバタつかせて抗っている状態です。自我を持ってしまった人類だけが、自然界に抗って「個人主義的発想」をするようになったわけですが、実は、それこそが人類を「不自由」にしていたんです!

6.個人主義的発想こそが人間を不自由にしていた

個人主義を標榜(ひょうぼう)する人たちが「個人主義とは個人個人を尊重する思想である」と言うのは、自分という個人が侵害されないように、あらかじめ張っておく予防線のようなものである、と言いましたよね。

個人主義というのは、誰のこともすべからく尊重したいという欲求ではなく、自分が尊重されたいという欲求から始まっています。ということは、むしろ、個人主義とは「個人個人を尊重しない思想である」と言えるくらいです。

「尊重」の反対は「無視」「無関心」ですが、自分が無視されず尊重され称賛されるためには、時には他人を批判したり押さえつけたりして優位に立とうとしたり、自分が他人よりも注目を浴びる何かをしなければなりません。

だから個人主義的な《環境》では、競争や他人批判が当たり前だし、妬みや恨みや怒りや不満が常に渦巻いていて、竹のようにスクスクと伸びることができづらい《環境》なのです。現在の我々の「個人主義」的社会を見回してみれば誰もが気が付くはずです。

人間界の日常

人間界という荒海に放り込まれて、誰もが溺れまいと手足をバタつかせて、もがけばもがくほど溺れそうになってしまっていたのです。

実際に、この人間界において溺れてしまった人を、僕たちは何人も見てきているじゃないですか!?

だけど、そんな僕たちが救われる方法が一つだけあります。

それは、個人主義にはできなかった、本当の意味で「個人個人を尊重する」方法です。いえ、方法なんてものではありません。心の底から「尊重する気持ち」が湧き上がってくるものです。

それが「分身主義」です。

人類が「不自由」になってしまったのは、自然界に抗い逆らうことになってしまったからだと言いましたが、自然界に抗わない状態というのは、我々は「個人、個人」ではなく、互いにつながっていることを知った時に生まれる「心の状態」のことです。

つまり、科学が教えてくれていた、宇宙万物が手をつないだ「自分」の真の姿を全人類が知り、その《環境》に身を置くことで湧き上がってくる、「愛すべきモンスター!」というお互いを誇り合う感覚をみんなが持てた状態こそ、本当の自由(⇒ありのまま)です。

分身観2



これは、人類の想像力や感性でこの自然界を理解・解釈しようとした宗教やスピリチュアルや哲学とは違って、何度も何度も科学が自然界様に正否のお伺いを立てて、ちゃんと自然界様に評価・公認されたものなので、全人類が全幅の信頼を置いて大丈夫です。

ただし、勘違いしないでいただきたいことがあります。

ジジイが「自然界に抗わない状態こそ真の自由である」という意味は、「身の回りの人工物を捨てて自然に回帰した原始人のような生き方をしろ!」などと乱暴なことを言っているわけではありませんよ。

そもそも、人間界が人工物ばかりだというのは錯覚で、我々はちゃんと自然物に囲まれています。自然に回帰するも何も、我々は確かに自然の中にいるのです。それが見えていないだけなのです。


7.人間界は「自然物」に囲まれている

ジジイは、「今の人類は、自然界から迷い出て人間界という荒海で溺れかかっている」という表現をよく使いますが、そもそも、ジジイが「人間界」と言っているものは、そんなものは、人間の錯覚が作り上げてしまっていた世界だったのです。

それこそが、今の人類にとっての「自然界」だったのです。

だって、カント分身さんの話をした時にも言ったけど、ジジイは、「どんなことをしても人間は「自然の因果律」から逃れることはできない」と考えています。

だったら、人間が作っている今の「人間界」こそ、人類にとっての「自然界」の姿だったのです。ただ、そのことに気づいていないから「人間界」なのです。(?_?)

ちょっと禅問答みたいな説明になってしまいましたが、自然界に君臨していると勘違いしている、普通に傲慢な我々が生きているところが「人間界」であり、科学を通して自然界から教えを乞う謙虚な気持ちを持てた人類が生活すると、そこが「自然界」になるのです。

下の図を見てください。三本の白い柱が立っているように見えますか? それとも黒い二人の人物が向き合っているように見えますか?
柱を見ている人は人物が消えてしまいます。人物を見ている人は柱が消えてしまいます。人間には、二つの世界を同時に見ることは絶対に不可能なのです。(*両者を記憶した脳で、どちらかに焦点を合わせずに見ようとすれば、同時に「意識」することは可能)

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つまり、同じ場所でも見る者によってまったく正反対の《環境》になり、その《環境》に、まったく正反対の行動を、我々は取らせ・られてしまうのです。


確かに都会は自然が侵食され、建築物、道路、街路樹、室内の種々の設備‥‥と、人間の手が加わったものばかりです。

それを見て、都会は自然が失われて「人工物」ばかりに変わってしまった、と嘆く人もいます。

だけど次のように視点を変えてみたら、見え方にどのような変化が起こるでしょうか!?

人の手で作ったもの、人の手が加わったもののことを、過去の人が「人工物」と呼ぶことにしたわけですが、「人工物」という言葉は、人間が自発的な意志をもち、自発的に思考し、それに従って行動していると信じられていた頃に作られた言葉です。

でも、人間の行動のメカニズムを解明した現代科学の視点から見ると、人間は自然界に浮かび上がらせ・られた「意志」に思考させられ、それに従って行動を取らせ・られていたわけですから、都会は自然がなくなって「人工物」ばかりに変わってしまったと言うより、「人工の物ばかりの自然に自然が変化しただけ」と言えるわけです。

実際、「人工物」といえども、人間が作る物は自然界に作ら・されていた(環境由来の意志に作ら・されていた)ものだったのですから。

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それに、人間が作る物と言ったって、元々この自然界の原子分子が作っている自然物を組み合わせて作っているだけの話で、この自然界にないモノを探してきて全く新しい物を創造しているわけではありません。

この世界に人間のまったくのオリジナルなど一つもないのです。これは芸術と言われるものでも同じです。実は、まったくのオリジナルな芸術作品など一つもなかったのです。

このような意味から言えば、「人間界」は今でも自然物に囲まれていると言えるわけです。


僕たちの身の周りの全てのモノ、本も机も洗濯機も、水道水も薬も食べ物も、パソコンも車もロケットも、全部、自然物を組み合わせて作っただけのモノであるという「分身主義」の視点を持てるようになるとどうなるでしょう!?

自然界に背を向けて、「人間界」に迷い出てしまった人類が、また「自然界」と手をつなぐことができます。
「人間界」だと思っていたものこそが「自然界」だったからです。それこそが、自然界が人間の手を通して作らせていただけの「自然」の姿だったわけですから。

神経系の錯覚である「自我」にとらわれて、「個人主義」的な社会で生きている傲慢な今の人類たちが作っている「人間界」という同じ《環境》が、謙虚な目で見れば、「自然界」そのものだったと知るということは、どういうことだと思いますか!?

人類が、自然界という本来の場所に戻れた瞬間です!
人類が、それまで元々は一つだった自然界の万物と手をつないで一つになった、という意味です!

ついに人類が、本当の「自分=全身」を知ったという意味です!

そして、これがジジイが言う本当の「自由」、「自然界に抗わない”ありのまま”の状態」のことです。

その「科学的覚醒」を果たした我々が作る《環境》が、我々に思考させ行動を取らせるものが、万人にとって「より良きもの」になることは、当然のことです。

その時の「個人」は、今までの「個人、個人」という感覚の「個人主義」の個人ではありません。「個人=宇宙という劇場で一時的に見せている仮の姿=分身」だからです。

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8.分身主義は個人主義の否定ではない

自称個人主義者の言う「個々人の尊重」とは、その裏に「自分という個人が尊重されたい」という欲求があり、それを侵されないために他人を尊重するそぶりも見せておくという尊重でしたが、「分身主義」の尊重はそうではありません。

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それは、誰もがみんな自分と同じこの宇宙の分身同士という気持ちや、あなたは私の分身で私はあなたの分身、また自分も自分の分身という気持ちから、自然にお互いを尊重してしまうものです。

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前に、個人主義の『他人への「関心」や他人への「愛」も、煎じつめれば「自分への関心」や「自分への愛」が変化したものでしかありません』と言いましたが、それが分身主義では、「他人への関心=自分への関心」、「他人への愛=自分への愛」という、イコールでつながった気持ちが湧き上がってきます。

分身主義は個人主義の否定ではなく、ある意味、個人主義の拡大です。つまり、自我の拡大です。
「個人主義」的環境を作るのは、神経系が作り上げている錯覚の「自我」でしたが、「分身主義」は、その「自我」を宇宙にまで拡大させて、錯覚ではない本当の「自我」を持つことです。


自分の真の姿(=全身)を知った分身主義では、他人を尊重することと自分を尊重することがイコールです。

それを教えてくれたのは、他でもない「個人主義」を標榜する欧米の人たちが作り上げた「科学という方法論」だったのです。

分身主義の「尊重」は、個人主義者たちの取り決めのような「尊重」ではなく、「世間」などという非科学的な呪縛とも違い、科学によって「真の自分」を知った瞬間に、自分の中からこんこんと湧き出てくる喜びにも似た「共感」です。


阿部謹也分身さんが世間論を考えることになり、たくさんの本を書かされることになったり、一橋大学の学長になったりしたのは、彼が偉いわけでもなんでもなく、実は彼を取り巻く《環境》に作られた彼の性格、人格、気質、体質、そして彼を取り巻く《環境》に作られた独自の「記憶」を持った彼の脳が、その彼を取り巻く《環境》からの刺激に彼なりの反応をした結果です。
(*「記憶」とは反応の方向性を作るベルトコンベアーのことです)

詳しくはこちら ➡(『人間に自由意志があると思い込むのは個人の自由ではない』)

彼を取り巻く《環境》からの刺激に、彼なりに反応したものの一つが「意志」と呼ばれるものです。つまり彼は《環境》に「意志」を浮かび上がらせ・られて、行動を起こさせ・られていたのです。

今、ジジイがこのような文章を書いていることだって、全く同様のメカニズムです。

つまり、徳永分身も阿部分身さんもこの《環境》を作っているみなさんや、それにこの《環境》を作っている140億歳の宇宙の中に存在する万物に書かされているのです。

当たり前ですよね。ちょっと考えてみればわかることです。あなただって今生きている中で、自分由来の意志や思考に従って行動を取ったことなんて、一つとしてなかったはずです。全部「環境由来」の意志や思考であるはずです。
詳しくはこちら ➡(『人間に自由意志があると思い込むのは個人の自由ではない』)


僕たちの「人生」とは、まさに、みんなの総力で作り上げていた、この「人間界」という荒海に翻弄され漂う流木のようなものだったのです。

この、流木である我々を翻弄している《環境》に分身主義的な目を向けてみてください。そうすれば荒海だった「人間界」が、静かでゆるやかで温かく包み込んでくれる「自然界」という大海に戻ります!

視点を変えると見えてくる世界を、もう一度感じてください!

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人類が本来の居場所である「自然界」という大海に戻ることができた時に、僕たちは、本当の「自由」を手にすることになります。「ありのまま」を手にすることになります。その時、何ものにも抗うことのない「竹の自由」を感じ取れるようになっています。



さて、第一回目の「愛すべきモンスター!」は、阿部謹也分身さんでしたが、あなたも間違いなく全人類の「愛すべきモンスター!」さんです。

他の誰一人経験できないあなただけの《環境》で、みんなを代表してその《環境》で生きてくださっている、全人類の誇るべき分身さんです。

そして同時に、あなたは、みんなの総力が作る《環境》によって思考させられ、しゃべらされ、書かされ、そして動かされている代弁者です。

でも、まだまだ人類はこの事実に気づいていないから、まるで自分の力で何かを成し遂げたと思って得意になっていたり、自分の力不足で何かを成し得なかったと思って落ち込んでいたりしていただけだったんです。


僕たちは、宇宙の万物がそうであるように、誰もが、みんなで作り上げていたこの《環境》に、ひたすら動かされていた電気仕掛けのロボットだったのですよ。

ただし宇宙の他の万物と違って、僕たちは、自然界から迷い出てしまったために、個々を意識するようになりバラバラにされてしまったロボットです。そして心というものを持ってしまった弱い弱いロボットなのです。

だから、互いに手をつながなければ生きていけないロボットになってしまったというのに、今までは虚勢を張って健気に個々で頑張って生きていたのです。それが個人主義です。

自然界に戻りましょう! 

本来の居場所に戻りましょう! 

本当の自分を知りましょう!

これからの僕たちは、科学が気づかせてくれたこの謙虚な気持ちを持たなくてはいけません。


★ ☆ ★ ☆ ★


死ぬ直前まで、若者たちに「われとして生きよ!」と言い続けた阿部謹也分身さんですが、死んでも彼の肉体は原子分子レベルに分解され、形を変えて生き続けることを現代科学は解明しています。

立命館大学の特命教授・名誉教授である安斎育郎(あんざい いくろう)分身さんが、人間が死んだらどうなるかということを科学的・数量的に記述するという画期的な試みをしてみせました。
(安斎分身さんのことを知りたければ『分身主義の森を抜けて‥‥』で「安斎」と検索すれば、32個見つかります)

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彼は言います。

「あなたが死んで火葬に付され、その身体を構成していた炭素原子が火葬場の排気筒から二酸化炭素に変換されて大気中に均一にばら撒かれたとしたら、エルサレムでもリオデジャネイロでもピョンヤンでもニューヨークでも網走番外地でもどこでも、1リットルの空気を採取したら、その中には10万個以上もの「あなたブランド」の二酸化炭素が含まれているということになる。その二酸化炭素は、野菜や穀物や雑草などの光合成に利用され、それを食べた動物の細胞となり、さらにそれらを食べた人間の身体になるわけです。

彼は次のような興味深い想像をしています。

「私の体を構成している原子のうち、あるものは過去にナポレオンの体を構成していた原子かもしれないし、徳川家康の体を構成していた原子かもしれないのだ。これは科学的な意味において『輪廻転生』と呼ぶにふさわしい大自然の摂理ではないか。
私の体も、やがてこの大自然の輪廻に参加し、あるいはベトナムで米となり、あるいはジンバブエで少年の心臓の一部となり、あるいは見も知らぬフランス人の脳に宿るかもしれない。
私の生命は『個体の死』とともに終わっても、私の体は世界に広がって生き続けるのだ」

だから、僕たちの身体の一部を阿部謹也分身さんを構成していた原子が入り込んでいることは十分考えられることです。

よく、「肉体は滅んでも魂は不滅だ!」などと言いますが、科学的に言えば「魂は滅んでも肉体は不滅」と言えるのです。そして、この意味で言えば「輪廻転生」は科学的にも証明されている大自然の摂理だったわけです。

この自然界をここまで解明している現代科学は、輝かしき「個人主義の妄想」もそろそろ閉幕にして欲しいと願っています。

そろそろこの輝かしき栄光の時代に、そしてその陰で苦悩と争いに明け暮れていた時代に、区切りをつけさせていただきたい思いです。


2006年9月、71歳で亡くなられた阿部謹也分身さんに敬意を表して、ジジイは、「個人主義を熱烈に信奉した最後のモンスター!」と呼ばせていただこうと思います。

そして彼に次のような言葉を贈らせていただこうと思います。

阿部謹也分身さま、愛すべき我らがモンスターさま!
これからの時代を生きる僕たち分身一同は、我らが誇るべき分身さんであるあなたが生涯に渡ってこだわり続けることになった「個人主義」を、本当の意味で個人を大切にする「分身主義」というものに引き継いでいこうと思います。
これからはあなたも想像しなかった「分身主義」の時代に入ります‥‥

‥‥と。

最後に、もう一度、先ほどの画像。

分身観2



【付録】『ハーメルンの笛吹き男』(個人主義の誕生と幕切れ)

阿部謹也分身さんはドイツ中世史の研究者ですから、日本にはどうして「個人」がなく、西洋には「個人」主義が発展したかということを次のように歴史的な分析をしています。

彼は、元々はヨーロッパにも「世間」があったと言っています。

『ハーメルンの笛吹き男』というグリム童話(これは、ただの童話ではなく、ドイツで1284年に実際にあった130人の子どもの失踪事件をもとに作られているそうです)に代表されるように、異能者は畏(おそ)れられ、同時に差別され疎まれる存在だったということです。

ハーメルン


ところがその後、日本とはっきりと道が分かれ、自立した個人の権利を獲得する道への歩みが始まったのは13世紀ごろだったと、阿部謹也分身さんは見ています。

その原因となったものはキリスト教の「告解(こっかい)」です。

これは電話ボックスのような中に入って、教会で神父に罪を告白するものですが、それを1215年のラテラノ公会議において、年一回必ず行わなければならないと義務づけられたそうです。

告解


そのことによって人々の心に自意識が目覚め、内面の成立が起こり、個人の成立が始まったと彼(阿部謹也分身さん)は言っています。

つまり、これこそが輝かしき「個人主義」の始まりであると彼は考えているわけです。

彼は、自意識に目覚めて「個人主義」が始まったと言っていますが、確かに自意識(=自我)に目覚めることで「個人主義」が始まるわけですが、ジジイは言葉を用いるようになった時に、人類はすでに「自我」に目覚め、もうその時は「個人主義」への道をまっしぐらに進み始めていたとみています。

それは必然であり不可避な流れだったのです。

いずれにしても、他の国に先んじて、強烈に「自我」に目覚めさせ・られてしまった「個人主義」的西洋社会は、競争することで我々の生活を「便利」にする発明を加速してくれました。他人の財産や資源や力を利用すれば、自分が楽に「裕福」に生きれる知恵も与えてくれました。その功績は世界中の誰もが認めることでしょう。(⇦ちょっと皮肉も込めました)

また、阿部謹也分身さんは、「日本では、金、地位、名誉、異性、といった世間の枠の中での関心ごとにしか目がいかず、宇宙、正義、平和などには関心が向かない」と言っています。

確かに、「便利・裕福」などで生活に余裕が生まれなければ、それらの物事に関心は向きません。

元々、科学は、生活に余裕がある広大な領地を持つ貴族や、大商人や、聖職者たちが、彼らにとっての知的好奇心を満たす趣味としての性質のものだったのです。

何より分身主義が唯一頼みにしている「科学」は、そんな西洋の「個人主義」的気運から生まれて、そして発展して今に至っているわけですから。

だから、「分身主義」は、西洋から生まれた「個人主義」を否定しているわけではありません。

ジジイは、現在では、この個人主義が限界に来ていると感じているだけです。
そして、個人主義を全否定するのではなく、その利点を生かし、その欠点を乗り越えたところに「分身主義」はあります。

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最後にもう一言(タイムリーな話)

今や、世界中が「個人主義」の限界、最終段階に来ているとジジイは感じています。と言うより、このまま「個人主義」を続けるなら、人類は恐竜のように絶滅すると感じています。

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目にも見えない小さなウイルスに、人類がこんなにも翻弄されてしまっているじゃないですか!? 
それは、我々が、まだ「個人主義」的《環境》の中で生きているからです。「人間界」で、溺れまいとしてもがいているのです。

「個人主義」的環境から生まれるべくして生まれてきた「お金」ですが、今では自分たちが作った「お金」に、自分たちの首を絞められてしまっているということです。

そもそも、お金がなければ、経済とコロナ感染とを天秤にかけることもなかったのです。

ジジイは、30歳後半くらいから科学を勉強して、「自我」というのは神経系の見ている錯覚に過ぎないと言い続けてきました。

そして、「人類は、錯覚の自我に縛られて、その妄想という砂の上に建物(文明・文化・学問・経済・政治活動など)を建てて、その建物が傾いたからといって、急場しのぎの改修工事ばかりしている」と言い続けていました。

「本当の自分を知ったちゃんとした土台の上に建てなければ、人類はいつか足元をすくわれるぞ!」と言い続けていましたが、こんなに早くそれが証明されるとは思ってもいませんでした。


例えば「お金」も、錯覚の自我という妄想の砂の上に建てたものです。

誰もが生まれた時から”お金”というものはあったので、それが当たり前のように受け入れていますが、この自然界では、少しも当たり前のことではありませんよね!
お金は、この自然界では、むしろ人類だけの特殊なものですよね!

世界中の人たちが仲良く幸福に生きるためには、どうしてもこのお金というものが邪魔をしています。

あなたは「お金」が好きなのですか? それとも「お金でできること」が好きなのですか? お金が無くなればみんなができることが増えます。それだけでなく、みんなでできることも増えるんです。

1.それでもお金は無くなった方がいい!(前編)
2.それでもお金は無くなった方がいい!(中編)
3.それでもお金は無くなった方がいい!(後編)
4.お金を無くすなんて現実的にあり得るの !?

と言っても、お金をなくすことを目的としてはいけません。それは二の次です。「科学的覚醒」をしていない人類がそれをしては、逆に混乱を招き世界を平和にできません。世界を平和にするためにお金をなくそうとしたはずなのに、逆に争いを起こしてしまいます。

やらなければいけないことは、人類が「科学的覚醒」をすることだけです。
まだ神話の時代を生きている僕たちが、科学が教えてくれていた真実を知ることだけです。

それが、人類が「明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと」です。

明るい未来


真の自分の姿を知り、自然界と手をつないだ「ありのまま(=真の自由)」を生きられるようになることを、唯一の目的とすればいいのです。

そうすれば、放っておいても、お金は役に立たなくなるのでこの世界から自然消滅します。

お金がなければ、ウイルスなんて、人類が力を合わせれば、1980年に「天然痘」を根絶させた時のように、簡単に根絶させることができるはずです。
だけど、お金に支配されてしまっている今の人類だから、それぞれの国のいろいろな思惑や人々の経済的な事情が交錯してそれができないのです。

それに、もし我々が「科学的覚醒」を果たし、真の自分の姿を知り、自然界と手をつないだ「ありのまま」を生きるなら、どんな苦悩でも笑って乗り越えていける「共感」を持てるはずです‥‥。

「共感」は死の恐怖など難なく乗り越えていけるものです。僕たち日本人はたくさんの苦難と悲しみの中でそれを成し遂げてきたじゃないですか!? それを世界中の人たちに伝えてあげる義務があります。

阿部謹也分身さんは、「日本では、金、地位、名誉、異性、といった世間の枠の中での関心ごとにしか目がいかず、宇宙、正義、平和などには関心が向かない」と言っていました。

「金、地位、名誉、異性」‥‥それらに目が奪われている間に、今、世界がすごいことになっています。

気づいていますか!?

今、人類は、何十年も前に犯した過ちを、いえ、歴史上何度も何度も懲りずに犯してきた大きな過ちを再び繰り返そうとしています!


ウイルスよりも危険な事態が、密かに潜行していることに気づいてください。それを阻止できるのは個人主義者たちの集まりである「有識者」と言われる人たちのその場しのぎの知恵ではなく、「科学的覚醒」をしたみんなの心が作る新しい《環境》です。



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★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。