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我生涯中二病也

それは嫌すぎw
くねおばさんです。インスタに長文書きがちなのでよくねぇなと思ってこっちに持ってきたぞ!


世の中二病患者が感銘を受け影響を受けたであろう、ウィトゲンシュタインによる「わたしの言語の限界は、わたしの世界の限界を意味する」という言葉があるが、歳を重ねるごとにマジそれな〜と実感するケースが増えた(知能の限界を感じる言語センスなw)。

育った環境や受けた教育、本人の特性等によるところが大きいのかもしれないが、ライフスタイル、ライフステージが違えば話が通じなくなり疎遠になることもある。後者はまぁ、その時その時で必要なものが違うと捉えれば当たり前のことだし悲しみは薄い。

一度も地元を出たことがない同世代や、所謂アウトサイダー的な環境で生まれ育った人と話したときに、価値観の違い以前に言語感覚が違いすぎてビビることがある。このようなケースをみて思うのは、言語の限界が世界の限界なのではなく、世界の限界が言語の限界になっているということだ。卵が先が鶏が先か的な話だが。

いい家のお嬢もけっこう特殊な環境に置かれているので別次元の限界を持っていて変な人率高い。


視野を広げるというと経験からの学習と、疑似経験からの学習ということで、若いときにいろいろせえよとか、本を読めよとか、様々な角度から勉強せぇということになる。たしかに年上の人たちからそう言われてきた。

わたしは一般的な年齢で実家を出たが地元にいた時間がそこそこ長い方なので、視野が狭いと思う。ちょこちょこ都に出たり文化的な活動をしたが、周りの先輩たちに守られてきた世間知らずだ。別府に来てから人間に対するケース学習をずっとやってる感じがする。こんなに治安が悪いところに住んだのも初めてだったし、同世代が多い環境も初めてだった(お金のトラブルと痴情のもつれが多いですね)。

その上で脳裏に浮かぶのが冒頭の言葉で、人と関わると、「普通に話していて伝わらないってどういうことだ?」「なぜ曲解する……?」と他人に思うこともあれば、「自分がバカだから伝わる言葉を選べないのか?」「説明の組み立て方がまずかったんだろうか?」「そもそも話振ってきたのに聞いてない人に対して話さなければならないこのシチュエーションが地獄」と低めの限界を感じることもあるw

言語感覚というのは生きるほどに差が生まれるものかもしれない。

(知能の問題も関係すると思うが、知能の程度がかけ離れすぎている者同士は年齢を重ねるごとに同じ環境にいることが減るから出会わなくなるし見えなくなる。たまに出会ってしまって事故が起こるがそれはちょっと置いておく)

それから単純に人を観察するのおもしれーなとも思う。人と話していると、その人の経験の蓄積のようなものを感じられる瞬間がある。どんな馬鹿げた発言でも、なぜそこに繋がるのかという部分が見えたときに納得と小さな興奮がある。そしてそれは、会話の中でなるべく多くの情報を得た上で断定しないからこそ面白みを持って人と関われると思う。この人はこーだねと決めた瞬間つまらなくなる気がする。

若いときは感性と知性が貧困で、ゼロヒャクとまでは言わないがわかりやすいものを好ましいと思った。たぶん余裕がなくてあまり思考したくなかったんだと思う。様々なものを自分で見て、他人からゼロヒャクで判断され嫌な経験をして、曖昧であること、断言しないこと、好きでも嫌いでもなく「興味がない」という感覚を自分に許すことも豊かなことだと思うようになった。興味が持てないのも自分の限界だが、それを許すことができている。興味あることを深めればいいしな。

単純にだりーから物事にも人にも深入りしないことが増えた とも言い換えられるが、人に関してはその方が自分が楽だけど相手も楽なんだな、とも感じる。浅くてもちょこちょこ関わると理解が深まって面白いということがある。

これ書いて思ったが、わたしはなにかをわかりたくて生きてるけどわかんねーから生きてられるのかもな。

生きていたいし絵を描きたいし文章書きたいしごはん食べたいと思う。