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noteを始めてよかった/カウンセリングへ/資本主義の犬ども/何かを自分で選ぶこと

note始めてよかった!実は少し前まで友人に長文を送りつけていたのです(迷惑)。
ことの始まりは「交換日記しよう」と言われたことだった。小さい水色のハードカバーノートを渡されて、ほとんどわたしが書き尽くすという意味のわからないことをしでかし、挙句メッセージアプリのチャットで長文を送りつけるに至った、という次第。いや、誰かに指摘されるまでもなくクソ迷惑だね〜。
それ以前は自分のノートにつらつら書くくらいで済んでいたのだが(といっても中二からなので量は膨大だ)人に読ませるという行為を経てなにか目覚めてしまった感があった。もっと書きたくなってしまったのだ。もはやTwitterの140文字では何も伝わらないと思った。やはり何かを正確に伝えるにはそれなりの分量が必要で、それなりの分量を読める人がいるとこに書かなきゃいけない。やはり短いと限界があり誤解を生む気がする。長ければいいわけでもないが。
わたしはそこそこいろんなことをやって生きてきて、主体性のある人間だと思われてしまうこともあるが実際はかなりぼんやりしているので、自分から何かをやってみようと思うことは少なかった。わたしが積極的に何か行動を起こす時は他人の影響が大きかったと思う。デザイナーの知り合いから僕の本あげるから君も本作ってみて、と言われた時に初めていわゆるzineてやつを作ったし、そこから製本に興味を持って自分でハードカバーを綴じるまでに至った。文章も何度かおもしろそうだから書いてみればいいのにと言われてきたが、なんか腰が重かった。わたしは本を読むのは好きだけど自分では人に見せる文は書かないと思っていた。周りにライターをやっている友人や、文系の研究者などがいたからレベルの低いものを見られたくなかったのもある。あと、小説を書いている知り合いが何人かいて、その人たちの小説を読まされた時になんかこんな完成度の低いものを読ませるってだいぶ人の時間奪ってるし感想言わないとごねるし面倒なやつらだな?と思ってしまったせいもある。実際わたしがクソな文章を書いてネットに公開していることに罪の意識がないわけではない。読んでしまった人たちよ、大変申し訳ない。
元々仲良かった人たちが何かひとつのことをずっとやるタイプの人たちで、わたしが絵を描いてバンドもやってるのをよく思ってなかったようだ。たまに指摘は受けていた。でも今は絵しかやってないし、ずっとオフラインで書いてた文章をネットに上げるようになったけど、基本的なところは何も変わってないと思う。音楽は自分でやれなくなっても聴くのはずっと好きだしな。たぶん絵も、自分で描かなくなることはないだろうけど、手を怪我したりして描けなくなっても見るのはずっと好きだと思う。そして文章が書けなくなっても考えることはやめないと思う。だって音楽も絵も文章も、人に認められなくてもただ好きだもんな。


某コンペに出す絵の案を考えていた。2枚出さないといけないので関連性をどうするか?クラシックな要素が強いコンペなので過去の作家へのリスペクトを持ちつつ自分の色をきちんと出したいがどういうアプローチが必要なんか、、ようわからん。まぁわたしは攻めたやり方が必要なコンペよりはクラシックな方が向いていると思う。でも自分の好きな要素を入れると変な雰囲気になってしまう。これはわたしの人間関係の悩みと被るところだ。審査員が寛容だといいな、と思うがコンペは就職ではないので、もう少し気楽に構えていい気がする。別にそのコンペで賞を取らなくても死なないし絵が続けられなくなるわけではない。

次のカウンセリングの予定が決まったので、過去をほじくったりしていた。子供の頃から抱えてきた違和感について。なぜ小学生の時点で地元にも家にも居たくなかったのか。なぜそれらから離れるのにこんなに時間がかかったのか。考えることを避けてしまう問題がいくつかある点。
考えることすら避ける、家や地元から離れるのに時間がかかったことについては少し洗脳みのある話なので自分だけでは処理が難しい。何度も同じことを言われるとか、罰としての暴力、期待させてから絶望させるやり方、何かと比べて褒めたり貶したりというやり方はまんま洗脳で使われる手口だ。けっこうその事実を思い出すのもつらいというか変な感じがする。家族はそこまでしたのにわたしが思い通りにならなかったからはやく死んでほしいという結論に至ったのか?なかなか気持ち悪い。まぁ実際普通の人がやることを真似ても何もうまくできないのはわたしがバカだからなんだが。
人間関係においても周りの人やメディアで伝えられることを真似してみたがうまくいかなかった。適当に恋人をつくって適当に結婚するのが普通とされるが、そもそも適当な理由で付き合いにオッケーして失礼だったと思うし、なんか気持ち悪い。みんなそうしてるからってそうすることに何の意味が?
てか人と暮らすのはキツい。特にわたしは体調不良で寝込むことがあるので、そういう時に人が出す生活音はすごくキツい。寿命が削られていく感じがする。特に無神経な人ってガッチャガチャ音出すし、実家にいた時も家族が扉を閉める音はわりと激しくてバッターーーーーンという音を聞くたびハゲそうだった。いやそれは普通の人でもハゲるかw 滞在制作の時のシェアアパートもほぼ音が筒抜けで死ぬかと思った。実際少しハゲたしw
そういうことを考えていくと自分の意思で選んだことなんかほとんどなかったかもな。周りの人に煽られたこと、メディアに煽られたことしかなかったような気がする。今もインスタのおすすめとか見てるとなんでこんなにクソみたいなもの勧めてくるんだ?金か?株主か?資本主義の犬どもがヨォって気持ちになる。いや、まぁ消費行動に向かわせるのは企業として当たり前のことだが。何かを自分で選び取ることの難しさを感じたりしています。本当に大切なものなんか、すごく少ないんだろうな。


少し前に住んでたとこのコミュニティでわたしのことを病んでるキャラとか言ってきた失礼な人たちがいるんだが、何をもってそう思ったんだろうか。何も考えずパーティーしてれば病んでないのか?ものを考えて絵を描くのは病気なのか?じゃあ君たちはなんで作品制作してるんだよ、と思う。ようわからん。
わたしは考え事が好きなんだが、まぁ1人で参考文献読んで考えることが多いから社交的ではないと思う。話したら話したでぐにゃぐにゃしてるし。遊びの誘いは時間作るの下手だから基本断るし。そういうのが病気だと思うんだろうか。どっちかっていうとわたしは他人のことを単純化して捉えてバカにしてもいいと思う人たちの頭がおかしいと思うんだ。だいぶ理解の解像度低いな、と思う。
あ、で、なんでこんなことを言い出したのかというと、わたしはありえないくらい集中力がないので、考え事が好きだけどすぐ違うこと考えるし何かやると忘れるし、落ち込むことにすら集中出来ない人間なんだよって話を書きたかったんだ。先日発達の初診でいろいろ聞かれた時に思ったより自分自身が集中して落ち込めてないことに気づいたんだよ。。たぶん本来ならもっと鬱とかになってる感じなんだよな。自分がバカだから救われてんだなと思います。絵を描くのもほとんど考えることから始まるし、描いてる時も計画を立てたりしないといけないので、あまりに集中できないのは致命的なんだよな、と思う。。そういう意味ではただのヤバいやつなんだよな。みんなが思うメンヘラ像じゃないからその辺も期待外れなんだろーなーと思います。メンヘラ好きのちんちんがアトリエ訪問しにきた時は勝手な理想を押し付けられて地獄だったな(しかもそういうのは数ケースあった)。はぁ。おれはただの発達障害だよ。。

生きていたいし絵を描きたいし文章書きたいしごはん食べたいと思う。