賞取ったわ~い的な文章



あんまり公募とか興味なかったんですけど、このへんで個展とかしてもあんまり意味ないしとりあえずなんか外に出すか〜という感じで昨年からけんしん美術展に出そうかなと考えていた。昨年はまだホルモン治療を始めたばかりで体調が安定しなかったので、絵を描くために起きていることすらしんどく、出品が叶わなかった。寝転がって友人に送る動画を作ったりしているうちに夏が終わっていた。寝ながらやれることはそんなに多くないと気づいた。いや当たり前のことか。動画は友人にはちょっとウケていた。

今年は初夏から構想を練り、友人をモデルに絵を描きたいなと考えていた。個人としてその人の中にある現実と、フツーに当たり前とされている現実ってけっこうズレてるし、マジョリティ側の都合もある。フツーとか当たり前っぽいものが全てではないし正解でもないなぁと。そういう絵を描きたかった。座標が違えば現実に対する角度が違うから当たり前だし、よくある感じのテーマですね。
わたしは友人をモデルにして普通の技法で普通の絵を描いた。グリザイユで描き、たまに塗りつぶし描き直しながらグレーズしていった。昔から行われてきたようなことを2022年にやった。何も新しくない、普通のことをやった。「特段面白みがない」と言うことができると思う。わたしにとってはそれが絵画として自然だと感じた。今時絵画なんかやってるわたしは、退屈なものが好きなんだと思う。

モチーフに超現実的な部分はあるが、それを目撃している人物を背後に描き入れたことで正気のバランスを取っている。そういうところに保険に保険をかけた打算が見え隠れしている。キチガイほど自分は正常だと言いたがるのである。
けっこう時間がなかったから粗い部分が多々あるんだけど、仕掛けがうまく作動したかなという気はする。

「個人的な現実」みたいなものをただあるがままに描くと、独創的と言われるが、そういうのはクソだと思う。ある種の侮蔑に近い。小学校の図工の時間かよって思う。大人でも表現主義的あるがまま教徒は多い。なんかそういうの、居心地悪いなと思う。でもガチガチの理論派も、正直うぜーなw と思う。それ、解説無しで成り立つのかよw という無教養な古い人みたいな考え方をしてしまう。
そういう葛藤が、ちょこちょこ現れていると思う。令和の時代にスマートじゃねー絵だなと思う。
いろいろ考えるけど、絵はまず解説なしにどの程度説得力があるか、パッと見の画面が印象に残るか否かというフックが必要な気がする。ごちゃごちゃ言っても仕方がない。言い方は悪いが「わからない人に合わせる」ほうがいい気がする。普通、解説読んでまでわかりたいとすら思わない。

スタイルについても右受けの構図だけどそこまで収まりのいい構図ではないし、わたしの絵はそこまでリアルじゃないからただのシュール(レアリスムではない)、要はキモい絵だし、半端だから説明が難しい。何かに括られるように描ければ楽だなと思うが下手だから括れない。でも漫然と上手くなりたいわけではない、という屁理屈天邪鬼なので救いようがない。うまくなにかに括られて収まってしまうとそのまま忘れられる気がする。でも抗うと損をする。いや、抗うというより努力不足だから論外と言う人もいるだろうな。レッツ筋トレ(デッサン)!

どうしてもわたしは根に持つタイプで、画塾で言われてきた「シュールだけどリアルじゃない」とか、シリアイが言った「古典の技法は古くてダサい」とかそういうのをいつまでも思い出している。しかし、どんなにダサくてズレていても突き抜けたら違うものが見えてくるところはあるのかもなー。せめて突き抜けたいものだなー。

絵なんかなくても生命は維持できるし、資産価値がつかない絵に存在価値はないのかもしれない。それでもこういう絵に賞を与えてくれたけんしん同友会はすげーなと思った。てか失礼だけどこういうのってコネないと絶対無理とか言われてるし、わたしもそういうもんだと思ってた。
この世には健康で明るく才気あふれる若くて話題性に富んだ画家がたくさんいる(意外と絵以外の部分も大切だったりもする)。そういう人たちがわたしみたいな筋トレ的努力だけでやってきたクソババアをひょいっと超えていくと思う。そしてそれは嫌なことではなく、けっこう楽しい。妨害されなければ、わたしはわたしで役に立たない絵を描いて、ちまちま小規模に生きていくと思う。しあわせだなと思う。

生きていたいし絵を描きたいし文章書きたいしごはん食べたいと思う。