たぶん一生、さみしさと付き合っていく
「自分がさみしいって知らない子が一番さみしい」
先日、Netflixで配信されている映画『クレイジークルーズ』を観た。
冒頭のセリフは、舞台となったクルーズ船の乗客の一人である、小学生(!)の男の子が言ったもの。正直はじめて聞いたときは、いくらこの男の子が達観したような、大人びたキャラクターとはいえ、「10歳前後の子が言うセリフなのか……!?」とびっくりしてしまった。
けれど時間が経つと、子どもだから言えたのかもしれないと思えた。
感情を、とても素直にテーブルの上にぽんっと置いたようなセリフだ。大人になると曇って見えにくくなるような、真正面から見つめらず、ついはにかんでごまかしてしまうような恥ずかしさがある。
最近、さまざまなことの根っこ、起源には「さみしさ」が横たわっているのではないかと思う。
例えば、誰かに認められたい気持ち、自己肯定感をあげるための行動、何かうらやましいと思うこと、愛する人と添い遂げたいと思うこと、そんな相手を探すこと……。もっと言えば、生きることそのものの、根っこに。
わたし自身も、覚えがある。一人で生きていくしかないと思いつつ、そこには愛し愛されたいという欲求が根底にあった。それは「さみしい」からではないかと思うと、合点がいく感覚があるのだ。
本当は誰もが、自分がさみしいことに薄々気づきながら生活しているのではないかと思わずにはいられない。「さみしい」とは「わたしたちは、自分以外と本当の意味でわかりあうことはない」と気づいていること。だから、わたしたちは一生、「さみしさ」と一緒に生きていく生き物なのではないか。
そんなことを、あのセリフをゆっくりと咀嚼しながら考えてしまうのだった。
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