oni-on 阿波しらさぎ文学賞落選

 夜はいつだって眼前から迫り来る。広がり始めた闇は、酔っ払った大学生の遊び場と化した都庁を音もなく呑み込み、西の空の胃袋のなかにすっぽりと収めていく。夜の深まりに歩みを合わせるように、鬼ごっこは酔狂な盛り上がりを見せていた。それぞれ手には飲みかけのお酒を持ち、逃げるともなしに方々へと散っていく。走って逃げながらも、そう言えば最早誰が鬼なのかもよく分かっていない。恐らく捕まえようと寄ってくるやつが鬼なのだろう。エレベータに乗り込む。最上階の展望台に夜景を眺めに向かう人たちに紛れて、鬼から逃げることのみに関心を寄せて、きょろきょろと辺りを見回す。と言っても然して全力で駆けて逃げる訳でもなく、エレベータを降りるときには走りすらしていなかった。一緒にエレベータに乗り込んだ一つ年上の同性の先輩と話しながら、展望台フロアを歩いてみれば、視界には日本一の大都会の夜景が広がる。パノラマ状に開かれた窓から臨む夜景は圧巻で、息を飲むほど綺麗だった。もう間もなくすると桜の咲く季節になる。まだ少し肌寒いが、鬼ごっこをするには丁度良い気温だ。
「結局、誰が鬼なんでしたっけ」夜景をツマミにお酒を飲みながら先輩に尋ねる。知らね、まあ誰でも良いんじゃん、毎年恒例の都庁鬼ごっこで夜景を見飽きている先輩は、端から窓に背を向け、手摺に体重を預けながら、フロアのお土産品売場を彷徨く観光客を眺めていた。お酒のせいで、周囲のざわめきは普段よりうるさいのに、個別の会話は絡まった糸みたいに一団になって耳に飛び込んでくるから、誰がなんの話しをしているのかはさっぱり聞き取れない。噎せるほどの人いきれのなか、先輩との会話が途切れると、樹海に一人迷い混んだ気持ちになる。折り重なっては濃度を増す、生き物の気配。ざわめきはやがて雑音となり、フロア中に敷き詰められている絨毯へと吸い込まれていく。
 手にしていたお酒が終わる。お酒のおかわり取りに行ってきます、そう言って先輩と別れ、再びエレベータに向かう。鬼の分からぬ鬼ごっこで、もはや鬼を警戒して歩くことも忘れ、そうしてスタート地点へとお酒を取りに戻れば、同期が三人集まって飲んでいた。声をかけて新しいお酒を受け取る。同期の会話に混ざって話しをしていれば、あ! いた! スタート地点にあんなに集まって! そう言いながらー恐らく鬼なのであろうー同性の先輩と、異性の後輩が走りながら向かってくる。慌ててその場にいた全員が、てんでバラバラ放射線状に逃げ始める。夢中で駆けていると、あっという間に一人ぼっちになった。走っている最中、好きな異性の先輩が、同期と同性同士で唇を重ねているのを見かけた。見なかったことにした。更に走って逃げ進めば、今度は吐いている異性の後輩を見かける。やはり気付かないふりをした。再び展望台行きのエレベータに乗り込む。走っている間にもお酒をグビグビ飲み続けていたせいで、アルコールが勢いよく全身を駆け巡っていく。頭がぐわんぐわんと揺れ、視界が歪んだ。満員御礼のエレベータはさながら乗車率120%超えの金夜の終電のようで、酸素が薄い。ただでさえ狭い箱の中で、酒臭い若者として周囲から顰蹙の目に晒されていると、今度は人にも酔ってきて、思わずエレベータの隅に蹲る。頭を下に向けたせいで、燃えるように熱い胃袋から吐瀉物が我先にと競り上がってくるのが分かった。祈るようにエレベータの到着を待つけれど、祈りの文句すら体内時計に支配されているものだから、時間の流れは亀よりも遅い。漸く展望台フロアに到着する頃には全身を寒気が遅い、立ち上がることすら躊躇われた。力がうまく入らない手で、必死に手摺にしがみつきながら、エレベータをふらりふらと降りるものの、今度は通り犇めく観光客に一度ならず二度三度とぶつかる。
謝ることもままならず、察した人々が避けて道を開けては過ぎ去っていく。壁際に腰を下ろす。酔いのせいでまともに目を開けていられず、また一方で目を閉じても比較明合成により星の軌跡を記録した写真のように光が旋回、ちかちかと目が眩む。星の旋回が止まらない。世界の軌跡に耳を傾け、宇宙の成り立ちの奇蹟に酔いしれていると、間もなく、当展望台は閉館時間となります。退館を促すアナウンスが聞こえてきた。仕方なく重い腰を持ち上げる。
 そう言えば鬼は何処に行ったのだろう。皆は何処にいるのだろう。誰もいない一人ぼっちの鬼ごっこ。鬼から逃げていたはずなのに、いつの間にか鬼を探している。どこにいるの? 不安になって声に出してみても、誰も反応しない。鈍くなっている頭を、誰かが肩を掴んで思いきり激しく揺さぶる。砂利道を勢いよく走るコンバインのように、身体が跳躍するのを感じる。エレベータに力づくで乗せられると、重力から解放、浮力で夜空に浮かび上がった。腕を広げると、空気に触れただけで汚れてしまいそうなほどの白い羽が、競技かるたで札を並べるが如く、素早く整然と音もなく広がる。一枚の羽根が夜空を揺り篭よろしく悠然と舞うと、瞬間、帚星となって地上に降り注ぐ。帚星を追いかけて地上へ急降下、夜景を作り出すビルや家々の灯りが、そのまま食事となる。コーラ味の光たちを満足するまで啄み、満たされたところで鷺山である都庁展望台を目指して飛び上がる。街中から白鷺の仲間たちが続々と集まってくる。見渡す限り白鷺だらけで、最早コロニーというよりは、小高い白鷺の山。集まった白鷺たちは、街中の光を含んで発光していた。街は光を失い、闇に静まり返る。光を発する鷺山、都庁展望台だけが闇に浮かぶ。夜空に月ふたつ。集まった白鷺たちが、濁った鳴き声で闇のカーテンをはためかせる。グエーッ。白鷺たちの嘴が黒く変容したのち、次々と交尾が始まる。交尾している白鷺に、別の白鷺が覆い被さり、その白鷺にまた別の白鷺が覆い被さる。白鷺on白鷺on白鷺on白鷺。繰り返される白鷺on白鷺。そうして白鷺たちは境目を失い、巨大な発光体となっていく。交わる度に光は強度を増し、いつしか月は太陽に成る。夜の闇は打ち破られ、世界は太陽に包まれる。
 突然の光の襲来で網膜が焼かれ、翻って暗転。眼底が焼かれていくさまがスロー再生されるものだから、落ちることの決まっている針の山に、ゆっくりと時間をかけて落ちていくよう。じわじわと、時間をかけて世界は狭くなり、暗部に占められていく。境目は焦がしたチーズのような茶色の網目状で、光ある世界の最後の記憶は、汚い焦げ茶色。
 呼び鈴の音がして目を覚ますと、部屋で子供たちが鬼ごっこをしていた。鬼ごっこの音で起きたのか、呼び鈴で起きたのか分からない。
「パパ、お荷物来たよ」お兄ちゃんの調が教えてくれる。妻とよく似た笑顔。笑うと目が三日月状になる。
 荷物を受け取る間も、兄弟二人は鬼ごっこを続けていた。全身汗だくで走り回っている。うるさい、というと弟の律はきょとんとした表情を浮かべ立ち止まったが、調は一人でも走り続けていた。調が律を捕まえると、パパのせいで捕まったと律が泣く。ごめんと言って、律を抱き締めれば、はいじゃあ今度は律が鬼ね! ちょっとパパどいてよ、と調が律とパパを離そうとする。煩わしくて無視していると、今度はパパを攻撃し始めた。そうして鬼ごっこはパパとの戦いごっこになり、抱き締めていたはずの律も、いつの間にか調と一緒になって戦いを挑んでくる。知っている単語を並べた技を繰り出しては、叩いたり蹴ったり、仕舞いにはパパによじ登り、乗っかって頭を叩いてくる。ええいママよと二人を剥がしては、くすぐったりだっこしたりして反撃するものの、しつこく攻撃してくるので、堪らなくなって逃げ出した。なおも子供たちはしつこく、力任せに体当たりしてくる。律に至ってはお兄ちゃんの真似をして体当たりした結果、反動で転んでまた大袈裟に泣き出す始末。いちいち付き合うのが面倒になってきて、立ち向かってくる調も、泣き続ける律も、一旦脇目に追いやって横になれば、飽きもせず再び二人してよじ登ってくる。
 妻の育子が休日出勤で一日いないから、朝からずっとこんな調子で、トイレに行くことすらままならない。育子の平日の苦労が忍ばれる一方で、子供たちへの扱いがぞんざいになっていく。髪の毛を引っ張られても、靴下を脱がされても、無視してスマホでTwitterを眺めていると、律が首に巻き付いてきた。そのまま目隠ししてくるものだから、塞ぐ手を剥がして振り落とそうと試みてみれば、今度はその隙に調がパパからスマホを取り上げて、カメラを起動させて遊びだす。力ずくでスマホを取り返してから、堪らなくなってトイレに逃げ込んだ。勢いよく扉を閉めて鍵をかけると、部屋から三たび律の泣き出す声が聞こえてくる。
 部屋にいるから煮詰まるのだ。トイレの窓から外を見れば、徳島城を含む徳島中央公園の蜂須賀桜が見頃を向かえていた。ソメイヨシノよりも一足早く咲く蜂須賀桜は、早くも春の色づきを振り撒いている。桜でも見に行くか、そう言うと調がビックリするほど大きな声でわーい! と叫ぶ。よく分かっていない律も、兄の喜ぶ顔を見て一緒になってわーいとにこにこしている。徳島中央公園までは、大人の足で十分ほど。出掛ける前に調をトイレに行かせ、律のオムツを変える。律のためのオムツと着替えだけをリュックに入れると、調にくれぐれもトイレに行きたくなったら早めに言うようにと口を酸っぱくして伝える。今まで何度あと少しで漏らしたか分かったものではない。子供たちに冬用のコートを着させて外に出ると、まだまだ寒さを多分に含む冬の風が全身に打ち付ける。他方、桜の色づきのせいか、日差しは柔らかく、春の訪れを感じさせた。
 少し歩くと律がだっこを求めてくる。また少し歩くと、調もだっこと言う。頑張って歩け、あと少し、声をかけながら、何とか助任川沿いの蜂須賀桜並木道に着く。並木道では、万歳するように天に向かって伸びた桜の枝が、春の訪れを歓待して祝祭を繰り広げているようだった。春を迎え入れる桜のアーチのなかで、子供たちが再び鬼ごっこを始める。帰り道は二人ともだっこして帰らなければ行けないかもしれないと思うと少しうんざりしたが、それにも増して穏やかな日差しと、舞い落ちる桜が気持ちを和ませた。勝手に鬼となって子供たちを追い駆ければ、二人は奇声を発しながら逃げ回る。興奮した律が、前方不注意で老婦人にぶつかる。すみません、と老夫婦に向かって頭を下げると、調も一緒に頭を下げた。律は泣きそうになりながら呆然と立ち尽くしている。いいのよ、ぼく今いくつ? 老婦人の問いかけに律が固まって応えられずにいると、代わって調が二歳だよ、僕は四歳だけどね! と応じる。するとよく手入れされた豊かな白髪を携えた老婦人は、そう、二歳、一番良い時期ね、こちらこそボーッとしていてぶつかっちゃってごめんなさいね。そう言って律の頭を撫で、隣の調の頭も撫でてくれた。老婦人の皺だらけの骨張った手のひらが、二人の頭を優しく大きく包む。近付くと老婦人からは、線香の匂いがした。ムッと鼻をつく匂いは、懐かしく感じる一方で、距離を縮めることには抵抗感を抱かせる。もう一度お詫びとお礼を告げたのち、バイバイ、と子供たちが別れの手を振る。老夫婦がその手に応じて、手を振り返しくれると、終始固まっていた律も、もう一度大きく手を振り返していた。それはバイバイというよりも、腕を天に向けて伸ばし振り回すことで、空気をかき回しているように見えた。
 よし、じゃあそろそろ帰っておやつにするか。再び二人がわーいと大きな声を上げて走り出す。危ないから走らない、と言うが早いか、今度は調が大学生くらいの男性とぶつかった。男は、わざと相手に聞こえるように、大きく口を開けてから舌打ちをした。チッ。調が硬直したのが分かって、すかさず傍により、後ろから抱き締める。調の目線から見上げた男は天高く聳える高層マンションより大きく、威圧感を持って見えた。握られた拳は、今にも力任せに振り下ろされるのではないかと思える。調が後ずさりしようとしたところで、パパの手が邪魔となる形になり、尻餅をつきかけて全身から力が抜けるのが分かった。男とパパが睨み合う格好になる。抑えきれない怒りが、突然押し寄せてくる。死火山と思われていた山が、一夜にして活火山になるが如く、突然の、沸き上がり、煮え繰り返るような感情だった。マグマの泡が弾けて、自らの内面を焼いていく。眼窩が焼け落ち、視界の一部に黒い染みが滲んだところで、律が男の後ろ側で立ち尽くしたまま泣き出した。途端、我に返り、男に口だけの謝罪をする。こちらの不注意で申し訳ありませんでした。言葉が空をなぞり、気の抜けていく風船のように空虚な音をたてながらやっとこさ相手のもとへと届くと、男は再び舌打ちをして去っていった。調と律を両の手で抱き寄せると、調は身じろぎひとつせず、律は堰をきったように嗚咽を漏らしながら大声で泣いた。調の安堵の息が、胸を湿らせていく。
 都庁鬼ごっこで、展望台フロアから地上に降りたあとのことはよく覚えていない。確か吐けるものは全て吐ききってしまって、胃液を出しながら泣いた。あのとき水を買ってきて、大丈夫? と声をかけてくれたのは誰だったのか。顔をあげることもままならない状態だっからか、相手の顔はまるで覚えていないのだけれど、記憶のある限り、ずっと隣に居てくれた。その気配だけは、はっきりと覚えているのだった。

 

 

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