妊紳士!

 妻の静香と別れて最初にしたことは、止めていたタバコを再開することだった。離婚届を出した帰り道、近所のコンビニに寄って、タバコとライターを買った。銘柄はなんでも良かったけれど、近頃主流の電子タバコではなく、馴染みのある紙のタバコ、それもボックスケースのものではなく、ソフトケースのものを買った。禁煙前にそうだったからそうしたのだが、今となってはこだわりの理由は忘れてしまった。銀の包み紙を破り開けてから、口に咥える。息を吸い込むと同時に、山肌に張り付く溶岩のように、再開の灯火が点火され、独身生活開始の緞帳がじっとりと上がった。タバコの薫りが口のなか一杯に広がり、これが求めていた味だ、と思う。全身がクサクサと燻されていく。タバコで薫製化され、生身では傷む寸前だった人生の賞味期限が、少しだけその寿命を未来へと繋ぐ。反面、煙が脳味噌に絡まるように巻きつき、神経を繋ぐシナプスによる信号の連結が失れると、全身の自由が奪われていく。真っ直ぐに立っていることすらままならず、神経の細部に指示が送られていかないせいで、宿主の意思に従わない身体は死に体のように重く、逆さ宙吊りにされて揺さぶられているような振動が脳内を静かに駆け巡る。
 吐き気が止まらない。頭の上からもう一段重力を課せられたように、もたげた首が持ち上がらなくなる。吸い込んだ煙が、内蔵にヒタヒタと貼り付きながら臓器の壁を越えると、皮膚へとその領分を拡大し、全身を支配していく。気持ち悪い。口先から僅かに吐き出された煙はすぐに霧散すると、吐く息の白さが永遠に続くかのように夜に昇っていった。ヤニクラで立ち上がることも儘ならなくなり、思わずその場にしゃがみこむと、まだ半分以上残っていたタバコを灰皿に放り捨てて消す。火事防止のために灰皿のなかに溜められた水に、タバコの沈む音。ジュッ。赤に近い橙色の穂先の火は消えて、灰で黒くなった海の一員となった。灰皿のなかに大量に溜まったタバコからは、水で消されたタバコの灰独特のヘドロのような臭いが立ち上り、脳を刺激する。
 静香と結婚すると、すぐに妊活を始めた。同時に禁煙を始めたから、実に五年ぶりにタバコを吸ったことになる。美味しいとはまるで思えず、吸ったことを後悔していたけれど、独り身になったことを痛感するにはいい刺激となった。もう誰もぼくに向かってタバコを止めろとは言わない。ふらつく頭と寒さのなかで、徐々に悴んできた身体を引き連れて再び入店。家にはぼくと、ぼくのよく知っているものしかないから、近所なのに、家に帰る気にはどうしてもなれない。
 店内の照明が眩しい。身体は蝶々結びの靴ひもがほどかれていくように、その暖かさにするりと弛緩していく。現代に於いてタバコを吸うということは、常に外気温と闘う覚悟が必要だ。だけどぼくはもう、家のなかで幾らでもタバコを吸うことのできる自由を手に入れた。喫煙者というマイノリティの世界の住人に再びなり、しかしそのなかでは初めから特権階級なのだった。ぼくのタバコライフでは、自宅での喫煙に於いて、壁と屋根が保証されている。それは静香と別れたことがもたらす、数少ない喜びといえた。缶コーヒーの微糖を買い、再び外に出る。まだ気持ち悪さが残っていたが、もう一本タバコを喰えて火を付けると、やはり美味しくはない。コーヒーを口に含む。口内に纏わりつくような、スッキリとしない甘さが広がった。更に一口飲み進めれば、体内が汚されていくのが分かって、気持ちが昂り高揚していく。買ってもらったばかりのTシャツを汚すような、あの興奮と罪悪感が目を覚まし、己が欲情していくのがわかる。缶コーヒーを持つ手が、シンと広がる外気の冷たさと、ジンジンと迫る暖かさの間で、ドクドクと脈打ち、生命のダイナミズムを伝えてくる。打ち鳴らされる心臓が叩く太鼓、歓喜を知らせるシンバルは脳内で反響し、連なるように全身の骨が、血が、節々が、それぞれに音をたてオーケストラとなる。空と顔を向き合わせると、暗雲が広がっていた。まるで漆黒の闇を引き連れた重厚な戦車のよう。戦車の一団にキスをするように、タバコの煙を投げた。煙は雲を目指してそのか細い命の線を空へと伸ばす。ずっと見ていると、落ちてくるのではないかと思うほど重みを感じさせる雲だった。次の瞬間、ギアを一段あげた空が、加速度的に闇の密度を濃くしていく。雲の暗さを闇が追い越し、星一つない夜となる。
 家に帰っても静香はいないけれど、静香に会いたいと思った。タバコなんて別に吸いたくなかった。どうしてぼくは一日の終わりを一人こんな場所で眺め、震えているのか。
 コンビニの光が闇夜を照らし、夜に影を作る。カーストッパーのブロックにできた影は正真正銘の暗闇で、ヤニクラが落ち着くまでの間、ひたすらその漆黒の沼を眺めて過ごした。

 静香と別れた翌日、職場に退職届を出した。静香と暮らさないのなら、特に今の職場で頑張って働く理由がなかった。やりたい仕事でもなければ、向いているとも思えず、ただノルマをこなしたときに得られる一過性の充実感のようなもののためだけに働き続けるモチベーションを、この先も保ち続ける自信がなかった。塩を付けたら甘くて美味しいのではやれん、身体中を活きて暴れまわる天然の雪融け水が飲みたいのだ。辞表届けを出すと上司に慰留された。うっかり思い直そうかと思ったけれど、いけない、もうぼくは過去の自分とは違うのだ、離婚したのだ、生き直すのだ、インターネット中に跋扈としている定型句の文例のような引き留め文句に狼狽えている場合ではない。
そうしている間に、三十歳の誕生日を迎えた。誕生日にお祝いの連絡をくれたのは、高校時代の友人の出口だけだった。簡単な『おめでとう、また飲みに行こう』とだけ書かれたLINEだったけれど、静香との別れ、離職と続いていたぼくにとって、三日ぶりに食べるご飯より嬉しかった。こんなに美味しいご飯は食べたことがない。出口は良いやつなのだ。
「静香と別れたんだ」
LINEの返事に電話で返す。LINEを打つのが億劫だったのと、気のおけない友人と、気安い話をしたいという気持ちがあった。
 あっという間に習慣化したタバコに火を点ける。日増しに寒くなる日々のなかで、ライターの火はちょっとした暖を取る手段にもなっていた。
「そうだったんだ」出口はそれから「お似合いだったのにね」と続けると無言になった。二の句を継ぐ言葉を、彼の物差しのなかで斟酌しているようだった。ぼくにはややこしい話をする気力がまだなく、ここで別れるに至った理由を説明する気持ちにはなれなかった。面倒な話は先送りにして、取り敢えずこちらの近況にまつわる持ち玉を全て出しきってしまうことにする。
「あと、仕事も辞めた」
三ヶ月後に正式に職場を離れることになっていたから、この古い社宅も近く出ていかなければならない。見上げた電笠には、うっすらと埃が積もっていた。
「暫く会わないうちに随分色々あったんだね。やめてどうするの?」
離婚の詳細については触れないまま、退職後のことに話題がスライドされる。出口の踏み込みすぎない距離感の選択が、電話越しにじんわりと鼓膜を震わせた。
「どうしようかね。特に決めてないんだ。そう言えば昔、出口と芸人になろうなんて話したことあったよね。覚えてる?」
静香が家を出るときに持ち出した荷物の分だけ部屋には隙間が生まれ、部屋のなかが去年の冬よりも寒く感じられる。
「勿論覚えてるよ。受験に失敗してすぐに、俺が誘ったんだ」半拍間を置いて「え、今から芸人になるの?」鳩が豆鉄砲を食ったような反応が返ってくる。目が点になっている様が目に浮かび、思わず口許が弛む。
「ならないよ。ただふと思い出しただけ。でも、そういう人生も悪くないかもなあ」   
辞めたあとのことは本当になにも考えていなかった。取り敢えずあと三ヶ月働いて、貰えるだけ失業保険を貰って、その間にゆっくり考えるつもりだった。
「あぁ、でも一つだけ決めてることがあるんだ」
「なに?」
「そっちに行こうと思ってる」
東京。進学を期に出口とぼくは上京し、出口はそのまま東京で就職、ぼくは都会から程よく離れた地元で働いていた。
「もうこっちにいる理由もないしね」
静香と別れ、地元の両親のもとには弟が帰ってきている。もう一度やり直すなら、ここではない土地、折角なら多少は土地勘があり、且つ出口のいる場所が最適なように思われた。
「そうか、楽しみにしてる。なんなら暫くうちに住めばいいよ」
澱みなく受け入れてくれる出口の存在が嬉しかった。電話を切る。突如、夜の静寂が訪れた。近頃あまり食欲がなかったけれど、少しでもなにか口にしておかなければ、という義務感のもと、コンビニで買ってきたショートケーキを食べて寝ることにした。
出口の申し出は嬉しかったけれど、多分ぼくが出口の家に住むことはない。それは、お互いの距離感を侵すことだから。社宅の造りは古く、家族五人でも住めるくらい広い。二人で持て余していた部屋に一人ぼっち、リビングの真ん中の炬燵にくるまれ、結局ケーキも半分ほどしか食べられないまま、コーヒーで口の中の甘ったるさを飲みくだすと、そのまま炬燵で眠ってしまった。
 夜中、目を覚ますと、玄関口から部屋に入ってきた小人が頭上を駆け抜けていった。薄い鋼板が風で吹かれたような、パッパッパッと不思議な足音を立てて走る。月明かりがブラインド越しに部屋を照らし、小人の姿が光と影の線路を渡る。線路を越えてベランダへと駆け抜けていった小人は、そのままどこかに消えてしまい、姿が見えなくなるのだった。束の間訪れる静寂に、今のはなんだったのだろうと思案していると、再び玄関口の方から、同じ格好をした小人が目の前を通過していった。小人による月明かりの線路の横断は、止むことなく繰り返される。どの小人も水彩絵具を適当に垂らしたような、複数の色が滲んだ半袖短パン、帽子を被っていた。淡い緑や青だった色が隣の色と混じりあい、その名前を持たない不協和音のような色がやけに目立つ。よく見ると、右足首には錆び朽ちて外れたと思しき鉄の鎖の残骸が括り付けられていた。走るたび砂に還っていく鎖は、もはや足枷としての役目は終えているらしい。鎖だった砂が、月光に晒されているぼくの手、指、腕に少しずつ降り積もり、仕舞いには口元にまで堆積してくる。初めはさらさらと軽く、気にも留めていなかったが、何十何百もの小人が溢していく砂は、いつの間にか体積を増してずしりと重く、体の自由を奪い、鼻で息をするのがやっとになっていった。砂の上を難なく走り続ける小人は、いつの頃からかベランダ窓から外へ出ていくことを止め、部屋中に増殖していた。行き場を失った小人たちが、ぼくの耳のなか、鼻のなかへと侵入してくる。ためらいなく飛び込んでくる小人たちを、恐怖に戦く暇もなく受け入れることになると、爪の間に針を刺されたような鋭い痛みが全身を駆け巡り、刹那、古代ローマ帝国の門柱で身体中を貫かれたような衝撃が走った。鼓膜の破れる音が他人事のように耳に届き、洞穴と化した眼窩は暗闇を見通していた。鼻は砂、小人、空気、あらゆる物質のための出入り口と化している。背骨が椎骨毎にばらされ、身体が砂の海へと還っていく。奪われていく五感のなかで、眼窩の隙間から月明かりが差し込み、いつの頃からか皮膚にあたる水滴が、月夜を縫うように降る雨を教えた。砂の世界を閉じ込めるように、雨の降りしきる音がヒダ状に夜を包む。水滴だと思ったものは、ぼくの目だったところから溢れ出てくる涙で、雨だと感じたものは、これもまた砂なのだった。粒子の細かい、月明かりに照らされるとまるで砂金のように輝く砂の雨。積み上がっていく砂は塔となり、その重量に耐えきれずバランスを崩して雪崩を起こすと、ぼくの家の箪笥からはじまり、冷蔵庫、エアコン、USBメモリー、パソコン、炬燵、布団、あらゆるものというもの全てを押し流した。そうして砂の洪水自体が、やがて海に還る。ぼくの肉体はとうに砂の一部となっていて、目のあった場所、口のあった場所、手や、足のあった場所なんかは、みんなバラバラになっていた。もう痛みはなかった。あるのは視界の隅に残った、濁った汚れだけ。
 職場の整理は簡単に済んだ。引き継ぎも滞りなく進み、最後の二週間はいよいよすることもなくなったため、有給消化に充てることにした。有給休暇の初めの二日で引っ越しの準備を終わらせると、あとはひたすら眠った。朝も昼も夜もなく、夢と現を繰り返し、起きてる間もその多くを意識のさざ波のなかで過ごした。
 眠りのなかにはいつも小人が現れた。ただその世界は少しずつ色彩を失い、一方で初めはよく見えなかった小人の顔が窺えるようになっていた。小人の目はどうやら一つしかないようだった。色彩が失われていくなかで、月明かりだけが日増しに光彩を強め、その射るような光は、いまや太陽同然だった。
 気を付けないと、食事の回数や頻度が不規則になっていった。なにをするわけでもないのだから、別段困ることもないのだが、まさかこの歳で栄養失調で倒れる訳にもいかない。静香が蓄えてくれていたカップ麺などの非常食もすべて食べてしまっていて、家の中の食料で残っているのは、乾パンくらいになっていた。
 コンビニで食料を調達することにする。前に外に出てから一週間が経過していた。来週で一年が終わる。外の世界では雪が舞っていた。だからだろうか、離婚届を提出した日より、寒さが身体を震わせない。
 今年は雪が少ない。一週間引きこもっていたので自信はなかったが、恐らく初雪のはずだった。肌に触れるか触れないかで融け、消えていくような、積もる気配のまるでない綿毛のような雪。肺が冷え、澄みきった空気で満たされると、脳みそがタバコを求めてきた。中毒症状にうんざりしながらも、タバコに火を付け、煙で口内と肺を満たす。晦日までには新居に移るつもりだから、あと二三日のうちにこの家を、街を、出ていくことになる。感傷的な気分に浸ろうと、思い出を記憶の抽斗から引っ張り出そうとするが、集中力が続かない。ここのところ少し眠りすぎたせいで、体力が落ちているのかもしれない。腰も少し痛い。雪が道々を照らす仄かなランプのように、明かりの少ない住宅街を先導する。この辺りは街並みが古いこともあって、道幅が狭かった。一方通行の道を、徒歩で逆走する。深夜、街も道も皆一様に黙りこんでいる。時折吹く風が、さわり、と住宅から道に伸び出している木の枝を揺らしていた。靴が地面を踏む、その弾力ある靴裏のゴムの跳ねる僅かな音が、耳に残った。着地と同時に道を濡らしていく雪が、見慣れた街に少しだけ普段と違う色合いをもたらしていた。
 夜中にたむろする場所のないこの街で、コンビニは昼夜を問わず煌々と光を放ち続け、そこでは優しい眠りに導かれなかった大人たちが、特段言葉を交わすこともなく、店内を徘徊していた。お菓子コーナー、乾麺コーナー、パンコーナー、おにぎりコーナーなどから、気の向くままに商品をカゴに入れていく。持ち帰り用の袋を持ってくるのを忘れたことに途中で気が付いたけれど、まあ適当に鞄に入れていけばいいか、そう思い直したところで、入り口から対角線上一番奥の冷蔵コーナーで、所狭しと並ぶ野菜コーナーのその一画に、豆苗が置かれているのを見つけた。
「豆苗って食べたことないな」
 猛暑や台風の影響で野菜が高騰していた時節「レタスもキャベツも考えられないくらい高いの! とてもじゃないけど今までと同じペースで野菜は買えないわ」と静香がひとしきり嘆いたところで、通路を挟んで向かいに陳列されていた豆苗を手に取ったのだった。
細い茎にラグビーボウルのような形をした緑の葉っぱ。根っこごと販売されていたこともあって、そこら辺に生えている雑草や、よくてクローバーみたいだな、クローバーも雑草か、などと思いながらしげしげと眺めた。
「食べたことないんだ」静香はその透明な四角いプラスチックのケースを持ち、改めて豆苗を眺めながら「結構美味しいのよ」と言った。
結婚して二年が経過していたが、今まで豆苗という言葉を静香から聞いたことはなかったし、そのじっくりと眺める様から、調理方法がわからず思案していることは手に取るように分かった。本当にこの豆苗というやつは美味しいのだろうかと、疑わしく感じていると「それに豆苗ってさ、一度食べたあとも、根っこを残して育てると何回か食べれるんだよ。やったことはないけど」
なんと頼もしい食べ物だろう。その見た目から、とても美味しいのかどうかを判断することはできなかったけれど、これだけ安価かつ食べたあとに再び栽培、収穫できるということに強烈に惹かれた。
 初めて食べる豆苗は、静香がツナマヨと塩昆布でサラダにしてくれた。見た目通りの味だったけれど、想像よりもずっと美味しく感じられた。つまり、豆苗自体は見た目どおりの草の味なのだけれど、そのみずみずしさに加え、茎のシャッキとした歯応え、葉のしんなりとした食感が心地好く、十分楽しんで味わうことができた。味付けも、僅かに感じる豆苗の甘さによく馴染んでいた。満足して夕飯を終え、台所に食器を下げに行くと、豆苗はその苗を刈り取られ、身長だけ失った状態で、プラスチックケースのなかに白い根っこが残されていた。潜ることのできない地表に立つ豆苗は居心地が悪そうで、立ち方もどこか心許なかった。試験中に、どれだけ繰り返し眺めても解き方を知らない問題がわかるはずもなく、退屈を持て余して周囲をぐるりと見回した瞬間、カンニング防止や見回りのために巡回している教師と目が合ったときのような居心地の悪さを滲ませている。根と根の間には、豆がひしめきあうように並んでいた。まるでこちらの様子を窺いみる目玉のような豆は、生き物として生々しく、その禍々しい生のエネルギーの強さから目が離せなくなる。
「これ、育てるとまた食べられるんだったよね」
味もとても気に入ったし、このまま捨ててしまうのは口惜しい気がして、今まさに豆苗の上半身で作られたサラダを口に運んでいる静香に訊ねる。
「そうだよ。育ててみる?」歯と歯で豆苗を何度もすり潰し、その味を口中に満たしたあと、咀嚼、嚥下しながら静香は言った。
 一度刈り取られても何度でもその成長を諦めない豆苗。伸びよ伸びよと願えば彼らは何処まででも伸び行けるのだろうか。その根から、何もない空間に向けて気合いを飛ばして一途に天に向かって成長しようとする豆苗を想像してみれば可愛くて、ぼくは豆苗を育ててみることにした。
 豆苗の育て方を調べてみると、育てるというほど難儀なものではなく、日光にしっかり当ててやることと、毎日の水の入れ換えさえ気を付けてやればよさそうだった。早速、買ってきた容器をそのまま栽培用のケースにして、水を与える。静香は横目に見ているだけで、それほど関心はないようだった。
 残暑の厳しい年で、エアコンは居間にしか付けていなかったから、家にいる時間はほとんどずっと食卓や寝室の窓の網戸が開けられている状態だった。涼しくもない風がそよぐでも凪でもなく漂い、部屋の空気は湿度で重たく澱んでいた。なにをしていなくても、汗で肌と服がじっとりと引っ付く。食卓の片付けを終えると、暫くぼんやりと豆と根っこの面妖さに感じ入った。数えきれないくらいびっしりと豆があり、その間を縫うように根っこがお互いに絡み合う。複雑に絡み合うその様は、見るほどに立体感を増し、浮かび上がってくるようだった。小さな植物の命の基幹部分をひとしきり眺めたあと、静香とお風呂に入った。
 ぼくは静香の裸が大好きだった。手から少しだけ溢れるくらいの大きさの胸も、乳輪の慎ましやかな大きさも、白く柔らかで、滑らかな曲線を描くほどよく肉の付いた身体のラインも。初めて体を重ねた夜、ボッティチェリのヴィーナス誕生のようだと思い、そのあまりの神々しさに結婚を決意したことを、今でも鮮明に覚えている。
 お風呂から出たあと、体を拭きながら、窓際に豆苗を移した。静香が元気に育つと良いね、と言いながら、ペニスに触れてくるものだから、ぼくたちはそのままセックスをすることにした。子作りを意識しないエッチは久しぶりだった。
 結局、その豆苗が育ち、再び刈り取られることはなかった。毎日水を変え、家のなかではできるだけ日の当たる場所に置いておいたつもりだったけれど、苗が少し伸び始めた頃に、豆が黒く変色し、白い黴が苗を這いつたうように生えてきたのだ。
「洗えば食べられるかな」
独り言のように呟くと、静香が直ぐにスマートフォンで検索し「止めておこう、毒があるかもしれないみたいだよ」と応えた。ぼくなりに、注意深く、愛情を注いで育てたつもりの結果だった。
「毎日水変えるとき、声をかけたりしてたのにね」静香はそう言うと、ぼくの肩を叩き、豆苗の入ったケースを優しく取り上げた。台所で水を切り、新聞にくるんで、可燃ゴミに捨てる。
 水を捨てるとき、ステンレスのシンクがボツッボツッと音立てた。それが豆苗の、大きくなることのできなかった苦しみの息遣いのように響いた。石をすら穿つ水滴が、安いシンクに低く響かせたその音は、簡単には耳から離れていかず、その夜寝付けないままにインターネットで黴の生えた原因を調べた。部屋の湿度が高過ぎたことや、風通しの悪さ、水の入れ過ぎが原因として考えられた。
 すべては初めに調べていればわかったことだった。毎日丁寧に豆苗の様子を観察していれば気付けたことだった。結局ぼくはなにも見ていなかったのだ。ただ表面をなぞるように自己満足でかわいがり、育てているつもりになっていただけ。実際には面倒を見ているつもりのうちに、日々豆苗を苦しめ、じわじわと死に追いやり、こうして見るも無惨にゴミ箱に捨てられることになった。
 静香は先程調べたときに、恐らくこの事実に気が付いていたはずだ。ぼくの怠惰や怠慢、無慈悲で愚かな行いに気付いた上で、敢えて一言も責めずに、捨てる役を買って出たのだ。
 スマートフォンの明かりが眩しくて、眠気は訪れなかった。天井から降る沈黙がぼくを睨み、押し潰してくる。押し戻そうとして手を押し出してみても、当然その闇の片鱗にすら触れることは叶わず、両腕が宙空を舞う。静香の健やかな寝息がやけに耳障りに感じられた。翌日、いつもより早く起きて、日が昇り出す前に、集積所にゴミを捨てに行った。

 コンビニで見かけた豆苗は最後の一ケースで、見つけた当初は買うつもりもなかったのだけれど、引っ越し前に冷蔵庫のドレッシングを使いきりたかったし、いい加減栄養も取っておいた方が良さそうだったので買うことにした。
 育てるどうかは決めていなかった。引っ越しも控えているし、止めておいた方がいいだろう。また育てきれないまま捨てることになるのが関の山だ。
 コンビニを出ると、積もらないだろうと思っていた雪が少しずつ含水量を増し、体重を増やしながら、路上を白く化粧し始めていた。目に見えて降る勢いが増していた。このまま夜通し降り続けば、明日の朝には膝下くらいまで積もっているかも知れない。
 コンビニから離れ、裏路地に入る。途端に辺りは闇に支配され、雪はぼくだけに吹き付けているかのようだった。自然と全身が強ばる。靴が水分の多い雪を踏み弾く音が、口を開けて食事しているかのような、品のない音を立てた。
 引っ越しの荷物は、静香と結婚する前から乗っている中古のパッソに簡単に収まった。不要なもので、すぐに引き取り手の見つかる家電用品や棚などは、会社の後輩や同僚に譲り、残りは実家に送ってしまっていたから、積んで運ぶような荷物は、僅かな身の回りの必需品と、手離しがたい思い出の品くらいだった。最後に、結局育てることにした豆苗をフロアコンソールに置く。今のところ黴は生えていないようだった。
 インターネットで内見と契約を済ませた東京都の外れ、埼玉県との境目にある新居まで、ぼくは豆苗とドライブした。車に揺られながら、豆苗はなにを思っていたのだろう?
 新居は駅から徒歩で十三分、木造二階建ての1DKで、築六十四年と、人生の大先輩だった。住所上ではぎりぎり東京に位置するはずだったが、物件情報には近所のコンビニまで徒歩八分と書かれていて、引っ越す前の社宅からコンビニまでの距離とほとんど変わらなかった。この街に住むことに決めた理由は、そうは言っても東京であることと、家賃が安いこと、出口の住む街からのアクセスがいいということで、それ以外にぼくがこの街に関して知っていることといえば、モスバーガーが日本で一番最初にできたということくらいだった。
 一通り車から荷物を下ろすと、最寄りのコンビニでカップラーメンを買って食べた。気温は東京の方が暖かいはずなのに、がらんどうのような部屋のフローリングの上に一人で座っているせいか、体が芯から冷やされていく。なにもない部屋の広さを味わうために布団を部屋の真ん中に敷くと、部屋の広さ以上に、天井が高く感じられた。移動の疲れがでたのか、目蓋が重たく肩がだるい。どちらにしてもこの部屋では大してしたいこともするべきこともなかったから、今夜は早々に眠ることにした。久しぶりに身体を動かした健康的な疲れが、心地好い睡眠へと素早く誘う。その夜は仕事を止めてから、一番の深い眠りとなった。
 つい今しがた目蓋を閉じたばかりと感じるほど深い眠りのあとに目を覚ますと、カーテンのない窓から朝陽が鋭く差し込んでいた。チリチリと目映い光の雨が降るなか、豆苗が気持ちよさそうに伸びをしているのが見える。血色の良い艶やかな豆苗のその様子に、思わず頬が緩む。明日の大晦日には再収穫できるかもしれない。
 必要最低限の買い物だけ済ませて、家の片付けや諸々の手続きを行っていると、あっという間に大晦日の夜になった。紅白歌合戦を横目に、出口に上京した旨をLINEすると、すぐに電話がかかってきた。今日買ってきて設置したばかりの炬燵の上には、カップそばとコッペパン、再収穫した豆苗を塩昆布で和えただけのサラダが並べられている。サラダを口に運びながら電話を取った。
「あけおめー」
「いやまだ早いわ」
「今年の紅白どっち勝った?」
「これからだから知らんし、それ年明け一発目に引っかけで聞くやつだから」
弛い掛け合いで電話が始まる。テレビのなかでは、今年のヒットソングたちに挟まれるように、あまりよく知らない演歌が歌われていた。サラダを口に入れたままタバコに火を付ける。
「本当にこっち来たんだね」
「うん昨日来たよー、また飲もうよ」
「そうだね、なにもう仕事は決まったの」
「全然だよ、特にやりたいこともないし、急いでもないからまだ真面目に探してすらいない。失業保険もらえる限りは失業保険でやり過ごすつもりー」
「そっか」
「暇ならテレビ電話にして飲みながら話す?」
「そうだねそうしようか」
 スマートフォンをテレビ電話に切り替える。塩昆布の味付けはまずまずだったけれど、今までに食べてきた豆苗よりも、心なしか味が薄い気がした。双方で付いているテレビの音がダブってうるさかったので、消音にする。
「サラダなに食べてるの」
「豆苗だよ」
「あぁ美味しいよね、安いし、二回三回と育てられるしね」出口が豆苗について知ったような口を利くのが可笑しかった。
「育てたことあるの?」
「以前に一度ね」
「よく育てられたね」
一度失敗している身としては、改めて自らの不手際突き付けられたような気持ちになる。
「正確には当時の彼女が好きでやっていたのを横目で見てただけなんだけだから、俺はなにもしてないんだけど」
 電話の向こうで、出口が肩をすぼめながら笑っているのが目に浮かぶようだった。
「静香はあまり豆苗栽培に興味なかったみたいなんだよね」
「そうか。面倒だもんね」
 静香の名前が出ると、出口は会話にゆっくりとブレーキを踏んだ。たっぷりと間を置いてから「そういえば、二人はどうして別れたの?」と訊ねてくる。話の流れのなかで、今日は聞いてもいい日だと判断したのだろう。スマートフォン越しにも、出口がこちらの目を見ながら様子を伺っているのがわかる。
「うまく話せるか分からないし、理由は多分一つだけじゃないと思うんだけど」消音のテレビのなかでは、人気演歌歌手が、子供向けアニメの主題歌をこれまでのイメージを覆す激しさで披露していた。「でも確かに分かっている理由もいくつかあって」上手く言葉を紡げる自信がなかったから、わかりやすい要因を真っ先に伝える。「子供がさ、なかなか思うようにできなかったんだ」勿論今の時代、子供が思うようにできない際に高じることのできる選択肢は増えているし、いくらもある。
 ぼくたちの場合は、ぼくの種が弱いことに大きな原因があり、そのなかで訪れた数少ない懐妊のチャンスも、染色体異常のために流れてしまっていた。誰のせいでもないとわかってはいたけれど、二人ともうまく立ち直ることができなかった。周りの人たちの悪意ない言葉に敏感に反応して、神経過敏な毎日を過ごすことに、二人とも疲れてしまった。二人でいることが愉しくて結婚したのに、二人でいることが息苦しくなってしまう日々が増えていった。気付けば、お互いが赤の他人より遠い存在になってしまっていたのだった。
「子供ができなかったから別れたの?」出口の問いに、 離婚届を出す直前に静香に聞かれた言葉を思い出す。

ーーねぇ、やっぱり子供が欲しかった?

 正直なところ、ぼくにはよく分からなくなっていた。子供が欲しいから妊活していたことは間違いないし、だからこそ不妊治療にも臨んだわけだけれど、子供ができなかったことが理由で離婚する訳ではない。一方で、子供ができなかったことで色々なことが上手くいかなくなってしまっていたことは、動かしがたい事実だった。なにより子供ができないことの理由のほとんどが自分にあることが辛かった。静香には、彼女が望む母親になって欲しかった。
 と、綺麗事を言い募る言葉とは裏腹に、ぼくのなかには現代的な手法により子供を授かることへの抵抗感があったのも事実で、結局のところすべてはぼくの我が儘が理由だとわかっていた。静香もきっと、表面上は彼女のことを想っている素振りを見せながら、その実いつも真っ先に保身に走り、自分を守ることだけに精一杯なぼくに気付いていたことと思う。
 テレビでは翌年活動休止することを決めているアイドルグループが大トリでメドレーを披露していた。
 平易な言葉で語ることができてしまう、ありきたりな夫婦の離婚に至った経緯を、出口は同じように電話越しで紅白歌合戦を見ながら「そうだったんだなるほどね」「あ、もうすぐ紅白終わるね。こりゃ白組の勝ちかな」などと言いながら、抑制のきいた丁寧な相槌を重ねつつ聞いてくれた。離婚までの道程を人に仔細に話したのは初めてで、特別な感想を言うでもなく、淡々と聞いてくれる存在は有り難かった。言葉にしてしまえば凡庸な話だったから、出口の反応は話の内容ととても釣り合いがとれている。
 結局豆苗のサラダしか食べないまま、お湯を注いでしまったカップそばは生ゴミに捨て、コッペパンは後日食べることにした。豆苗のサラダも、最終的には義務感から無理矢理に口に運び、飲み下しているような状態だった。
「年が明けたら近いうちに一度遊びに行くよ」
 出口が言うのとほぼ同じタイミングで、紅白歌合戦は白組の勝利が確定した。喉が乾いたので、台所で蛇口から直接水を飲もうとすると、刈り取られた豆苗の根っこが目に入った。もう一度収穫できるだろうか、もしそうなれば、出口にも食べさせてやれるかもしれない。
 そのあとも、ゆく年くる年を点けたまま暫くだらだらと通話を続け、「あけましておめでとう」と新年の挨拶を交わしてから電話を切った。通話を追えたあとのツー、ツーという音が途切れると、部屋には無音が広がる。存在感を増した所作の音に耳を傾けながら、向かえた新年に一人乾杯した。
「チアーズ」
辞めた職場の付き合いで買った赤ワインが、引っ越し前の家で誰にも飲まれることなく床に放置され忘れ去られていた。別に捨ててもよかったのだけれど、結局なんとなく捨てられずに引っ越し先にまで運び込んでいた。血中アルコール濃度が高まっていくと、ワインボトルとグラスの立てる音の違いに音楽を感じ、これこそが曲づくりの源泉じゃなかろうか、普段意識していない生活音にこそ名曲は潜んでいるのだ。リモコンを机から持ち上げては置いてみたり、指で机を叩いみたり、続けざまに床を叩いてみたり、とにかく音を奏でてみる。ぼくはひょっとしたら音楽の大家に成るべくして生まれてきたのに、道を間違えてしまったのかもしれない。
 音楽家ごっこに飽きると、テレビの音量を僅かばかり上げた。朝まで続く音楽番組を見るともなく眺める。ボトルが空になると、テレビは点けたまま、部屋が朝陽に染まり出すのをカーテン越しに感じつつ、炬燵で眠りに付いた。
夢の中でぼくは砂漠に暮らす蛙だった。照り返しの強い砂の上、酷く喉が乾いていた。体内の水分がどんどん蒸発し、体は砂にへばりつき、跳ね上がるどころか前に進むことすら儘ならない。このまま陽が暮れれば他の動物や昆虫の餌になるか、乾ききって死を待つのみだろう。舌を伸ばして焼けるような砂を食む。お腹を形ばかりでも満たして、何とか水のあるところ、或いは日陰まで辿り着ける力を蓄えたかった。砂は焼けるように熱く、食べた瞬間にこの砂は小人に風化させられたぼく自身だったと知る。お腹が重たく膨れ、体から水分は奪われ、肥大化したまま干からびていくのを感じる。もう砂にすらなれない。遠くに見えていた救いの雨雲は、近付くに連れ、イナゴの群衆の飛来であったと気付く。他にも彼を狙う蛇や蜘蛛など、砂漠の覇者たちが怪しげな音を立てて迫っていた。それでもぼくにできることは砂を食べ続けることだけだった。身体的な自由が利くのは、砂を食べる舌と、他の生物の動きを察知する目玉だけだった。敵に食べられる前に、自分で自分を食べ尽くし、風船のように膨らんでいくことしかできない。サンドバッグのように、砂詰めの固まりと化すと、砂漠の夜がやってきた。誰にも襲われない変わりに、どこにも行けず、極寒の夜を越えることになる。体内の熱は冷めず、頭と手足がどんどん冷えていく。燃えるお腹との温度差に意識が朦朧としていく。干からび死んでいないことが奇跡のようでいて、生きたまま地獄だった。
 砂漠の夜が明けて、相変わらず人間の肉体に収まっている自分が確認されると、下腹部に違和感を覚えた。砂を食べる夢など見たせいだろうか。昨夜食べた豆苗が腸で嵩を増して膨らみでもしたのかのように、お腹が重たい。相変わらず食欲はなかった。
 新年を向かえて、両親からメールが来ていた。
ーーあけましておめでとうございます。新居の住所も分からないからメールで送りました。早く住所を報せるように。
 簡潔な挨拶のみの文面。両親にとっては、ぼくが離婚したことも、子供ができなかったことも面白くなかったが、なにより仕事を辞めたことへの不満が大きいようだった。勿論すべてに於いてぼくの説明が足りておらず、募っていた不満が退職で爆発したことは間違いない。両親、取り分け父親の、仕事や就職に関する考え方は、彼自身の青春期からまるで変化していなくて、地元の大手企業という安定した仕事を、たかだか離婚、しかも再就職も決まらないうちに辞めてしまったことは信じられないことのようだった。離婚に至る経緯は説明を尽くせば分かってもらえたかもしれないー尽くすつもりはなかったーが、恐らく退職したこと、それも親に黙って結果報告のみであったことは、一生かけて説明してもわかってもらえそうになかった。なにより両親の理解を得られるような、明確に口に出して説明することのできるような理由を、ぼく自身が持ち合わせていなかった。わかっていたことは、一度すべてを止めて休みたかったということ。ただそれだけだった。けれどそれだけでは周囲の理解を得るための説明としてまるで足りていないということは、ぼく自身よくわかっていた。約束された雇用、将来のための年金、身の回りの保障、そのすべてを放棄してなお、リセットをかけたかった。両親との関係も含めて。
 しかしこんな話を、いくら懇切丁寧にしてみたところで、両親から見たぼくは只の自堕落な怠け者、人生の落伍者でしかなかった。それでも両親が、出口を除いて、ぼくに望まなくとも連絡をくれる数少ない存在であることは確かで、住所を教えることは見送ったが『あけましておめでとうございます』という、負けじと簡素な返信だけ返すことにした。返信し終えると、ぼくにしなければならないことはなにもなかった。
 正月休暇の時期が明けたら、失業給付金を受け取るためにハローワークに行かなければいけないけれど、それも今はできない。初詣に行って、お餅と甘酒を買って帰ってきてから、ゆっくり配信動画でも見ようと思い、そこで初めて、昨夜お風呂に入っていなかったことを思い出した。シャワーを浴びるために服を脱ぐと、お腹の違和感が消えていない。まじまじと己の腹や臍を検分してみたけれど、見たところ特段おかしな様子はないようだった。
 変な姿勢で寝たから疲れが取れなかったのか、まだ少し眠い。立ったままシャワーを頭から浴び、一人滝行気分で瞑想に耽る。するとそのまま、また寝てしまいそうになり、慌てて顔を擦り頬を叩く。口にお湯を含み、うがいをする。予定のない一日だから、自らを律して奮い立たせる必要性も特にはなかったのだけれど、新居周辺の散歩がてら、元日に初詣くらいは行ってみたかった。冷えた空気にシャワーの煙が濛々と立ち込め、浴室が水蒸気に包まれていく。体を拭き、鏡を覗き込むと、少し痩せたようだった。頬をなぜると無精髭が伸びていて、ざらりと柔らかいタワシのような手触りがする。着替えて外に出てみれば、午後の陽は頂点よりもいくらか西に傾き始めていた。お餅や甘酒もいいけれど、酸っぱいものが食べたい気分なことに気付く。そういえば昔から、お節料理のなかでも紅白なますが好きだった。元日ではスーパーもやっていないだろうかと思いながら念のために調べてみれば、今日も明日も二十四時間三百六十五日やっているスーパーがヒットした。
 雇用保険受給説明会のためにハローワークを訪れる日まで、便秘が続いた。相変わらず酷く眠く、いざハローワークを訪れた日には、通りすがりの飲食店から漂うご飯の匂いで吐き気がした。
 ぼくは、妊娠していた。
 身に覚えはなかったが、悪阻が始まり、自分の体を他人のようだと感じたときに確信した。それは理解を越えて、天啓の如く知らされる。事態は突然やってきて、ぼくに残されている選択肢は受け入れることだけだった。例えば顔を洗ったおり、鏡の中の自分に寄る年波を感じるように。お腹が空いたら腹の虫が泣き、腹の虫ってなんだ? 寄生虫か? という思いが頭を掠めるように。ご飯を食べ咀嚼するという行為に、人間以外の生物を細かくすり潰し嚥下するというあまりにも見事な命の循環、生命の神秘だね? それに排泄するならもういっそ食べずに済むようになればいいのだ、いやもういっそ寝ることすらなくなれば尚、或いは永遠に寝続けていれば無駄なんかなくなるのでは。生きることのなんと無意味で、なんと無情なことよ。愛しい人に好きだと伝えることは確かに美しいが、その一方で我々は性欲の言い替えとしてしかその言葉を使わない。子孫繁栄が所詮生命の唯一の生きる意味、正しさなのかと天を仰ぎ見、意味もなく涙するのだった。頬を緩るめていれば嬉しいと人は感じるようだが、ただ笑うだけならここで哀れな道化人形として死ぬまで笑っていてくれようぞ。寂しいときには誰かと居たい、つまりムラムラしていて、誰でもいいからエッチしたいのだ。ねえエッチしようよワハハ、笑いが止まらぬ。裸の体と裸の心に一体どれ程の違いがあるというのだ? そしてどれだけ体を重ねても、静香と分かりあえることはついぞなかった。残ったのは、そう、この妊娠だけだ。そうしてぼくは極々自然なこととして、自分の妊娠を受け入れた。ハローワークに着くと、新年に訪れた初詣の神社と同じくらい込み合っていた。
 妊娠した以上、当面就職は厳しいかもしれない。幸い貯金はそこそこあるし、慰謝料もない。まずは日々を安静に安寧に過ごし、この子を元気に生むことが肝要だろう。誰の子かはわからない。そもそも男性が自然妊娠するなんて聞いたこともないから、これはもしかすると人間の新しい進化の形なのかもしれない。
 静香との子供だろうか。或いはぼく自身が生まれ直すのかもしれない。ぼく自身を生み直すのかもしれない。
 誰の子であれどんな形であれ、生むことに決めた。授かった命を死ぬ気で守るために、これからのぼくの人生はあるのだ。ハローワークからの帰り道の足取りは軽く、そしてこれまでの人生で感じたことがないほど、大地を踏みしめている実感があった。
 命二つで歩道を歩いてみれば、老若男女すべてが愛しく、美しく見えた。道に落ちているゴミを端から拾い歩き、すれ違う帰宅途中の少年少女に「こんちには」と元気に挨拶をする。冬の冷え込みの厳しい盛りも越え、東京では間もなく桜が咲こうとしていた。少しずつ薄着になっていく街の中で、春の訪れを感じさせる強い風が吹き抜けていった。風に煽られよろけたときに、思わずお腹を庇うぼくこそは、すっかり妊婦、否、妊紳士なのであった。
 妊紳士! 喜びのあまり、出口に電話をすると、仕事中なのだろう、留守番電話になった。「なあ出口! やったぞ! 妊娠したぞ!」そう吹き込んで電話を切る。アパートの階段を昇るときに、階段のカンカンと打ち鳴らされる音が、祝祭の鐘のように耳にいつまでも響いた。

 出口が家に泊まりに来たのは、その週末のことだった。
「妊娠したってなに」
家に着くなりぼくの顔とお腹をまじまじと見つめながら出口は言った。久しぶりに顔を合わせると、自分を鏡で見る以上に、重ねてきた歳月を感じる。学生時代から変わらない強い癖っ毛の髪に混じる白髪は、最後に会った一年前と比べても明らかに本数が増えていた。スーツは着こなされるを通り越し、着くたびれている。シャツが一日の疲れを吸い込み、くっきりとした皺を作り上げていた。
左手で仕事用の鞄を持ちながら、「久しぶり」とこちからに挨拶の手を振り上げる。反対の手には、手土産のビニール袋を二つ提げていた。
 部屋に入るとすぐに、ビニール袋から缶ビール六缶パックと焼酎瓶一本、柿の種やポテトチップスなどのつまみと、なぜか檸檬三つがテーブルの上に並べられた。
「檸檬?」
 思わず訊ねれば「なかなか面白い冗談だったから、悪阻には酸っぱいものがいいだろうと思って買ってきたんだ」いたずらな笑顔を浮かべながら言うのだった。
「信じてないようだけど、本当に妊娠したんだぞ? だから当たり前だけど、お酒は遠慮しとく」そう応えたものの、出口にはまるで取り合う様子がなかった。当たり前といえば当たり前かもしれない。ぼくだって出口の立場なら端から妊娠など信じないだろう。笑えない冗談、センスの悪いジョークだと思う。
「まあ取り合えず乾杯」
そう言うと、グラスを宙空で振り、出口は一人で飲み始めた。水道で水を汲み、出口が買ってきてくれた檸檬を輪切りにして水に浮かべる。酸味が体に染み渡り、気持ちが落ち着いていく。
「仕事は決まったんだっけ」
出口はビールもそこそこに、早速焼酎を飲み始めるようだった。グラスと氷を渡す。
「いや、妊娠もしたし当面は就職しないつもり」
そう応えると、ふうんと気のない返事で聞き流される。
「俺も仕事辞めようかな」
こちらを見ずに、独り言のように呟く。出口は過去に二回転職していたし、別段目新しい話でもなかった。
「なにか転職の当てや、したいことでもあるんだ?」そう訊ねると、嬉々としてビジョンを語り出した。
「実は会社を立ち上げようと思ってるんだ」
「会社ってなんの」
「ジャンルとしては今の会社と同じ、人材派遣業になるのかな。フリーランスと法人の仲介をするような仕事って、これから需要あると思うんだよね」
 出口のぼんやりとした法人設立の話を聞いていると、悪阻がきたのでトイレに立つ。出口が「大丈夫か」 深刻そうな顔をこちらに向けている。
「体調悪いのに押し掛けて悪かったな」
「体調は悪くないよ、ただの悪阻だし、妊娠は病気じゃない」
心配無用な旨を伝えると、困惑と動揺の入り交じった視線が送られてくる。
「いつまでそのつまらない冗談を引っ張るつもりなんだ」苦い顔で笑う出口に、微笑みかえすことしかできないでいると「病院には行ったのか」迷い混じりながらも、真剣な眼差しでこちらの瞳を捉えてきた。
「行ってないよ。そもそも男が妊娠なんて、頭がおかしいと思われるのが関の山だろ」
「おかしいったって、本当のことなら本当のことで、大変なことだろ。大体妊娠が間違いないなら、女性だって定期検診に行かなきゃ危険なんだろ? 男が妊娠なんてなったら、なおのこと慎重な対処が必要なんじゃないか」
 出口の言うことは尤もだった。正論だし、ぼく自身が誰よりもこの妊娠について、不安を感じている。
 大体、ぼくはどういうメカニズムで妊娠したのだろう。体のどの部位に子供が宿っていて、どのようにして生まれてくるというのだろう。
 それは、これまでも幾度となく自分自身に問い続けていることだった。
「確かに。医者に見てもらった方がいいとは思ってる。でもその一方で、俺はモルモットにされたくない。男が妊娠なんて、おかしいだろ? 現に出口だって信じちゃいないじゃないか。もし医者に言って、世間に広まってみろ。俺と子供が好奇の目に晒されることは目に見えてるじゃないか。そしてその上で、人類初とかいって、研究者のおもちゃにされることになるんだろ。そんなの堪えられないよ。だったら一人で生む。大体さ、人類五十億年の歴史のなかで、自分が男性として初めての妊娠だなんて、その発想自体、おこがましいと思うんだよな。もしかしたら知らないだけで、これまでにも男の妊娠はあったのかもしれないだろ。まあ、いずれにしろ、かなり珍しいことでは、あるんだろうけど」
そこまで一息に喋ると、両の手で頭を掻く。椅子を斜め左後ろに引き、体の正面を出口から逸らし、壁の方を向く。出口の顔を見るのが怖かった。出口から発せられる困惑や戸惑いや当惑を目の当たりにしたくなかった。そこに疑いや同情の色が浮かんでいるとしたら、とても堪えられそうにはない。
 腕を下ろし、顔の前で両手のひらを眺める。学生時代から運動部に所属したことは一度もないから、とても力強い手とはいえない。それでもぼくはこの手で、この腕で、ぼくとぼくの子供を守っていかなくちゃならない。
「気持ちはわかるけど、やっぱり俺はタカシのことが心配なんだよ。できれば病院には行ってくれ」
「一人で生む。決めたんだ」
 出口はそれ以上この話を広げることを諦めたようだった。
「お前もここのところ色々あったからな」
 手に持ったグラスの冷たさが手に移り、手の温度がグラスに移る。残りの水を一息に飲み干し、おかわりの水を酌み、再び檸檬を食みながら、出口のグラスにおかわりの焼酎を注いでやった。
「俺一人でこんなに酒飲み切れねえよ」「まあいいや、残ったら置いてくから、誰か来たらあげるなり、いらなきゃ捨てるなりしてくれ」そう言いながら「そういえば、山梨って覚えてるか?」懐かしい名前が話に出される。恐らく無意識であろう、出口が右手の人差し指と中指の第一関節を、親指で触る。
「覚えてるよ」
「結婚するらしいよ」
「物好きもいるもんだな」
 山梨は、ぼくと出口と高校時代の友人で、三人でよくつるんでいた。山梨と中学の同級生だったぼくと、高校で山梨と同じクラスになった出口。山梨が出口と遊びに行く予定に、ぼくが急遽誘われる形で、出口とぼくは友人になった。出口とぼくは、同じ高校の同窓生でこそあったが、同じクラスや部活に所属したことは一度もないし、山梨以外に共通の友人もいない。
 高校生活が始まって、初めての夏休み。流行やエンタメニュースについての情報を得るためだけに見ていた朝のニュースでは、連日のように、本日が今年の最高気温ですと報じられていた。セミの声が入道雲を追いかけるように日ごと高いところから降り注ぐ。ぼくたちの通う私立高校では夏期講習を開講していて、一年目の夏からそんなものに参加したくはなかったけれど、夏の間中、家でひたすら親相手に油を売り続けている訳にもいかず、部活動に所属していなかったぼくたち三人は、暇を持て余すように夏期講習に参加していた。昼前で講義は終わり、午後は自習室で各々時間を潰す。適当なところで切り上げて家に帰るような毎日だった。日によって、自習室には行かず、カラオケやゲームセンターに行くこともあったが、校則で禁止されていたし、連日遊びに行くほどのお金も情熱もなかった。
 出口には小学校から親しくしている幼馴染みがいた。紀本はな。背も声も低く、取り立てて目立ったところのある娘ではなかったが、出口と話をしている姿は兄弟そのもので、朗らかな空気が流れていた。高校生になった今も、出口と紀本はなは、週に一二回程度、ともに下校していた。多くの人間関係が変化していくなかで、幼い頃から変わらない二人の関係は、浅瀬の海のように清らかで、眩しく尊いものに思えた。帰り道に二人を見かけることがあると、ぼくはつい目で追ってしまっていた。二人がこちらに気が付けば会話に加わることもあったが、できるだけ見付からないように、息を潜めて、けれども見失わないように、少しでも長い距離を後ろから付いて歩いた。
 そんな二人の間に、ある日突然山梨が土足で踏み込み、荒らした。まだ言葉を持たない、像を結ぶ手前の二人の関係に無理と言葉を当て込み、分断させた。
断りもなく出口の想いを恋心と決めつけ、言葉にし、紀本はなに伝えたのだ。そして、その反応を面白がるように、身振り手振りを交えながら、ぼくたち相手につぶさに説明し始めた。夏期講習帰りにコンビニでアイスを買い、食べながら日陰の多い神社に移動する途中のことだった。
「そういえば今日紀本はなと自習室で隣になってさ」
「みたいだね」
「なんかえらい筆談で話してたみたいだったね」
 嫌な予感がしていた。二人の様子をそれとなしに見ていたが、やり取りのあと、暫くして紀本はなは帰ってしまっていたようだったから。普段なら時間一杯までいることが多いのに。
「出口のこと実際どうなの、って聞いてみたんだよ」
「なに勝手なこと言ってんだよ」
「それで?」
 訊ねると、なにが面白いのか、興奮した様子で山梨の声が上ずる。
「出口くんのこと、好きだけど、異性としてかどうかは分からないって言ってた」
 出口とぼくはアイスを食べ終えていたが、山梨のアイスはまだ半分くらい残っていた。山梨は神社の縁に腰を下ろし、ほとんど噛むことなく舐め続けていた。ミント味の緑色は、自然の緑のなかに混じると不自然さが際立つ。樅や欅の木が多いのか、神社のなかはセミの声に包まれているかのような騒ぎで、木陰にしゃがみこみ空を見上げると、背の高い樹は、夏の空の高さを測るための定規のように思えた。出口はぼくの横に立ち、山梨の話を聞いている。反応の薄いぼくや出口を無視して、山梨は喋り続けた。
「あいつ胸はとびきり大きいけどさ、少しとろいところあるだろ。幼馴染みに恋心抱いちゃってる出口の気持ちも分かるけどさ。多分まだ恋愛とか興味ないんじゃないか」
 紀本はなの胸はそんなに大きかっただろうか。そんな目線を山梨が持っていることが不思議だった。女性の胸の大小など、グラビア写真を見るとき以外に考えたこともなかった。
 夕刻になり、日中に比べれば気温は下がっていたものの、湿度が高く、汗で服が体に張り付く。時折羽虫が顔にあたる。山梨のミントアイスが融けて地面に落ちると、一匹、また一匹と蟻が集まり出した。運べないアイスを前に蟻たちが手をこまねく。運ぼうとしたのか舐めようとしたのか、何匹か溺れている。働き蟻もお腹がすけば摘み食いをするのだろうか?
 今にして思えば、山梨もきっとぼくと同じように、二人の関係が羨ましかったのだろう。沈みゆく陽射しが、橙色の陰影を出口の顔に映し出す。お陰で出口の表情はほとんど読み取れなかったが、手のひらがズボンを捕らえ、拳を作っていくのがわかった。拳の下で、ズボンのシワが形を変えていく。出口の定まらない気持ちを代弁するように、捻られ、絞られていった。
 手遊びで触っていた砂を、思わず山梨の顔面目掛けて放った。軽い気持ちで、数えられる程度の砂粒だったが、一度放り出すと止まらなくなった。右手で一投げ、左手で一投げ。下手投げで続けざまに目を狙った。
「なにすんだよ」
山梨は始めのうちこそ、笑いながら砂を避けようとした。当たりそうになる砂を手で払う。ミントアイスが地面に頭から落ちる。
「なんでもないよ」
負けじと笑い返しながら、更に力を込めて手のひら一杯に砂を掴む。山梨目掛けて投げる手は止まらず、鼻や目に狙いを定めて、力の限り投げ続け、叩き付け続けた。
 山梨の顔から笑みが消え「やめろって言ってるだろ」そう言ってぼくの腕を掴もうとしてくるけれど、砂から顔を守るために左腕で顔全体を覆い隠し、且つ横に顔を叛けながらだから、なかなか捕らえることができず、右腕が空気を撹拌させるかのように宙で舞った。二三度空中を掻き回すと、僅かにぼくの左腕に触れ、そのまますかさず掴んでくる。左腕を掴まれたことで、ぼくと山梨の距離はグッと近づき、自由が奪われた一方で、十分の威力を持って精度高く、狙った場所へ砂を当てられる距離になった。右手に掴んだ砂を、山梨の後頭部目掛けて、ほとんど殴り付けるようにしてぶつける。口に入ったのか、茶色いドロ混じりの涎が口から垂れていた。それを見て、食え、お前なんか飯の変わりに砂を食えばいい。ほら、おかわりだ、食えよ。思いそのままに、更に砂を掴み、山梨の口に突っ込む。口のなかの泥を吐き出すことなく噛み締めると、今度は近くに置いてあった教科書を入れた鞄を掴み、ぼくの頭目掛けて振り下ろした。夏期講習は配布物の資料なども多く、直撃したら脳震盪でも起こすのではないかというほど重たい。危ないやつめと思いながら、咄嗟に頭を抱えるように守る。ところがぼくの腕に痛みが走ることはなく、鈍く乾いた音は、ぼくとは無関係の痛みとして空気中で鳴いた。瞑っていた目を開けると、出口が振り下ろされた鞄からぼくを守ってくれたようだった。山梨は鞄を握ったまま立ち尽くしている。眼前にある出口の右手人差し指と中指は、衝撃で折れたのか、少しおかしな角度を向いているように見えた。
「いい加減にしろよ」
 山梨が鞄を背負う。傍ではミントアイスが融け、どれだけ液体化しても景色に馴染まないまま、鮮やかな緑色の池を作っていた。
「悪かったよ。俺なりによかれと思ってやったんだ、一応」
出口が曲がった指をみながら「余計なお世話なんだよ」と呟く。
「お前こそ恋愛のセンスないんじゃないか」
ぼくが続けると、「先、帰るわ」そう言って山梨は、そのまま振り返ることなく帰っていった。
 出口と二人、その後ろ姿を見送る。無言の時間を、ツクツクボウシやヒグラシ、キリギリスやコオロギの声がエンドレスリピートし、埋めていく。
 爪に入り込んでしまった砂をほじくり出していると、右手を地面に置き、座ろうととした出口が、「痛」と小さな声で呟く。
「指、大丈夫か? 俺のせいでごめん。早めに冷やしといた方がいいよ」
 神社裏手にある水道で蛇口捻ると、地面を叩き削る勢いで水が出た。水の出ている周りの温度だけが少し温度を下げる。地面に跳ね返る泥が、靴先を汚していた。
「痛いわー」
 出口の指は、時間が経つにつれ、赤く腫れ上がっているようだった。折れているのかもしれない。
「あー、利き手なのに。授業、明日から大変だ。本当ごめんな」
「家で宿題やらないいい口実になるわ」
「ノートは俺取ったやつでよければいくらでもコピーして」
「それ役に立つのかよ」笑いながら出口は、「別にそんな真剣に講義受けてないし大丈夫だよ」と続ける。
「病院行けよ」
「あー、でも面倒だしなあ。大したことないし、湿布貼っとけば治るでしょ」
 指を冷やしたあと、ぼくが出口の鞄を持つと、二人並んで帰った。ヒグラシの鳴き声は、いつの間にか止んでいた。
 それからもぼくたち三人は高校三年間つるみ続けたけれど、ぼくと山梨は卒業と同時に親交がなくなった。
 出口も暫くは絶縁状態だったようだが、こうしてときどき山梨の話を振ってくる。偶に連絡を取っているのか、噂話のように入ってくるのか、ぼくは知らなかったし、聞いたこともない。ただ、共通の友人の話として、ふと思い出したように会話に登場し、また去っていく。次に出口が話題に出すまで、ぼくの人生に登場することはない。
 だから不思議なもので、ぼくは山梨が一浪して世に言う一流の大学に入ったことも、いつ童貞を捨てたのかも、現在なんの仕事をしていて、今回こうして結婚に至るまでのことも、割りと詳しく知っている。そして、山梨の話はぼくにいつも出口との奇妙な縁を思い起こさせるだった。
 特に欲していたわけでもなかったが、指を擦る出口をぼんやり見つめながら、目の前にある檸檬を手に取り齧る。酸っぱさに目を細目ながら、それでも食べ進める。
「ユカがさ、結婚したがってるんだ」
「するの?」
「どうかな。独立して会社やりたいしな」
 焼酎瓶が間もなく空になろうとしていた。出口の顔が赤くなり、食べ頃の桃のようになっている。目蓋を開けているのがやっとのようだ。小さな音で流していたテレビには、横浜沖で停泊するクルーズ船が映されていた。テレビから目を離し、出口の方に向き直ると、頭がカクンと折れた。
「寝るなら炬燵使えよ」
 声をかけると「なあタカシ、やっぱ俺ら二人で最高だったよな、やっぱ芸人なるか」むにゃむにゃとハッキリしない声で出口が言う。
 椅子を引いてやり、頭やら腰やらを叩いて炬燵まで転がして移動させる。
「水飲むか」
 聞くと返事はなく、早くも寝息が聞こえてきた。一人台所で片付けをする。ゴミを縛って下駄箱に置くついでに外に出てみると、外は身を切るような寒さだった。白い息が天に立ち昇っていく。廊下の鉄柵に捕まり空を見上げてみれば、都会の夜空に星はほとんど見えなかった、気がした。けれど、そもそも地元の空がどんなかだったかすら、結局のところぼくは大して覚えていない。鉄柵から手を離すと、錆びた鉄屑が手に付いてパラパラと床に落ちる。手のひらの匂いを嗅いでみれば、空気を含んで黒く変色した鉄からは、濃い血の匂いがした。

 朝方のジョナサンは、いつも想像以上に沢山の人が利用している。テーブルに付くと、必要以上の愛想など持ち合わせていないという主張を全身で発信している店員がやってきて「なにかあったらお呼びください」と、メニューを置いて去っていった。すぐに呼び出しボタンを押せば、動きの機敏な別の店員がやって来る。店内の暖房で、外気に冷やされて硬くなっていた体が解れていくのがわかる。テキパキと俊敏に働く店員に、出口はブレッドモーニングを、ぼくはオレンジジュースを頼んだ。
「オレンジジュース? コーヒーじゃなくて?」
「カフェインはお腹の子によくないらしいからね」
「二日酔いかな、頭痛いんだよ」ふうんと鼻を鳴らしながら、出口はグラスの水を一気に飲み干す。「なあ、そういえばタカシさ、昨日の夜からほとんどなにも食べてなくないか? 本当に大丈夫なのか?」
「だから、悪阻がひどくて食欲がないんだって」
苛立って声を荒げてしまう。食べ物の臭いの溢れる店内を怨めしく見回す。店の選択を間違ったのかもしれない。さっきからムカツキが止まらなかった。目の前で暢気な顔をしている出口に無性に腹が立つ。
「そういえばタバコも再開したって言ってたのに全然吸ってないな」
「妊娠したら普通吸わないだろ」
わからず屋の頓痴気め。一方で、苛々しすぎるのもよくないと、思わず自身をなだめるためにお腹をさする。すると、出口はぼくの体を舐めるように見回して言うのだった。
「わかったよ、まあせいぜい腹が大きくなってきたり、元気に子供が生まれてきたら教えてくれよ」グラスに残った氷を口の中へ放り、ガリゴリと噛み砕いく音が、こちらの脳内まで震動させる。
「信じてないのか」信じてもらえなくて当然だという思いと、出口にだけは嘘でもいいから信じて欲しかった、裏切られた、という思いが募っていく。
 店員がにこやかに「オレンジジュースとブレッドモーニングセットでございます」とぼくと出口の間に注文の品を滑り込ませる。
「信じられるわけないだろ」
 沈黙のなかでオレンジジュースを一気飲みする。味が薄くて美味しくない。出口はトーストにマーガリンを塗り、CMのように小気味の良い音を立てながら食べ進めていった。厚みのあるパンを大きな口を開けて食べる姿を眺めながら、やはり出口にはこの子の誕生を待ち望み祝って欲しいと望んでしまう。
「必ず生むから。生まれるまで、逐一経過報告する」
空いたグラスを机に置く。店内はますます賑わい始めていた。周囲の席が家族連れやカップルで埋め尽くされていく。
「待ってるわ」
口一杯にトーストやら卵やら頬張っていたものを一気に飲み下すと、出口はにやりと笑った。子供みたいな食べ方だと思った。
「俺、信じてないけどさ、疑ってもないんだ。楽しみにしてるよ」
 店を出ると、天高く鳥の鳴く声がした。鳥の鳴き声は、まるで晴れやかな一日の始まりの証明のように響いた。駅に近づくにつれ、人出が増えていく。これから休日出勤だという出口の足取りは重く、特段一日何の予定もないぼくの足取りも、前に進む推進力をまったく持っていなかったから、二人してヨチヨチ歩きのネジ巻き人形みたいだった。後ろから来た人々に追い越され、今度はその背中を見送るようにして歩き続ける。
「スーツは昨日のままでいいとして、Yシャツもそのままで行くの?」
「そもそも休みの日なんて誰もいないから、スーツで行く必要性もないくらいだから。問題ないよ」
 久々の再開は、日常生活に押し戻されるような会話で終わろうとしていた。駅構内に入ると、どこから見ても出口はこれから会社に向かう人で、ぼくは部屋着のまま、だらしなく出口を見送った。
「子供、ぜってぇ生むから」別れの前に強い言葉を残したくて、覚悟を伝える。
「わかったよ、まあまた近いうちに遊びに来るわ。今度ユカも紹介したいしな」
「お、楽しみにしてる」
「じゃな」
そう言うと、出口は改札を潜り、ホームへと続く階段に吸い込まれていった。
見送ったあとは、ひどく取り残された気持ちになる。そうだ、女性の妊婦と一緒かはわからないけれど、妊娠・出産に関する本でも買って帰ろう。一人になった空虚さに隙を衝かれる前にそう決めると、近所にある本屋を検索した。

 身体は日に日に重くなっていった。悪阻はピークを越え、食欲が増してくる。時間はたっぷりあったから、料理と読書が趣味になった。一人で手の込んだ料理を作ってみたり、こんなときでもなければ着手しなかったであろう世界の名作文学を読み始めた。胎教に良いかと思い、オペラのCDをセットで購入し、一日中部屋でかけた。毎日家のなかを掃除し、布団を干し、洗濯物をして過ごす。なにより嫌いだった片付けも、生まれてくる子供が遊べなければ困ると思い、できるだけ断捨離し、部屋の空間をスッキリさせることに努めた。お腹の写真を出口に送りたかったから、腹回りのギャランドゥを剃り、ボディクリームを塗り、見目麗しく整えてから、鏡の前で横向きになり、写真を撮っては出口宛てに送った。誰がどう見ても妊娠しているお腹だった。
 ぼくの高まっていく気持ちと反対に、世間は賑わしくなっていた。新型コロナウイルスが日本にも上陸し、感染経路不明者が増えていたのだ。世の中からマスクが消え、消毒用のみならず、アルコールというアルコールが店頭から消えた。欧州の事例と比較し、そう遠くない未来に日本でも新型コロナウイルス感染が拡大し、多くの人が亡くなる未来が想定された。ぼくもなるべく人と会わないように、より一層部屋の中から出ないようになった。ぼく一人の体じゃなかった。手縫いのマスクも縫製したが、針仕事が苦手だから、結局インターネット上でとんでもない高値で取り引きされているマスクやアルコールを買った。命には変えられなかった。連日テレビでは新型コロナウイルスの報道が続いた。間もなく緊急事態宣言が発令されるとのことだった。なにが起こるかわからなかった。これからは基本的に必要なものは、可能な限りインターネットで購入することにして、玄関での受け取りも最小限に努めることにした。テレビのなかでは、そうやって極力人々との接触を避けていたはずなのに、それでも玄関先での僅か一瞬の接触で、新型コロナウイルスに感染したという女性の特集が報道されていた。
 怖くてテレビの前から動けない日々が続いた。
 出口からの返信は『おー、おっきくなったな』が『まじでこれタカシのお腹なの?』になり『うわまたでかくなってきたな』から『でか』そして『おー』、そのあとは適当なスタンプが一つ押される日々が漸く続き、付き合いきれなくなったのか、はたまた新型コロナウイルスの騒乱のなかでそれどころではなくなってしまったのか、写真を送っても返事が返ってこなくなっていた。既読スルーが続くなかでも根気よく何週間かは送り続けたけれど、ぼく自身新型コロナウイルスに怯える日々のなかで、出口にLINEを送る余裕もなくなり、やがて遣り取りは途絶えた。出口との遣り取りがなくなると、ぼくのスマートフォンはほとんど死んだも同然だった。新型コロナウイルスと胎児について自ら世界に問いかけを発信しない限り、スマートフォンは自らは決してなにも発しない。世界で広がり続ける新型コロナウイルスの状況を棒グラフで見てはそのあまりの右肩上がりっぷりに恐怖した。青天井で伸び続けるグラフ。忍者は麻を使って跳躍力を鍛えたというけれど、この棒グラフを人類に飛び越えることができるのだろうか? 差し迫る東京オリンピックの開催が懸念され始めていたけれど、最早オリンピックなんてどうでもよかった。こんな状況でどうして平和の祭典が開かれる必要がある? そんなことより、一日でも早く安心して暮らせる毎日に戻ってきて欲しかった。スペイン風邪は流行が二年にも及び、日本で猛威を振るったのは二年目だという。ワクチンや薬の話がまるで聞かれないけれど、一体いつ頃になればできるのだろう? 現代の科学の力とは、どこまで未知のウイルスに対抗する力を持っているのだろう? 常に頭の片隅が新型コロナウイルスの不安に支配される日々が続いた。
 まさに明日にでも緊急事態宣言が発令されようとしていたその日、出口が、恋人のユカとぼくの家を訪ねてきた。
「タカシ、いるんだろ」覗き窓越しに二人の姿を認めたあと、ぼくは呼び鈴に応じることなく、扉に張り付くようにじっと息を潜めた。春の微睡みのような陽光が、古く小さな覗き窓を、丸く鈍くその縁に反射させていた。およそ三ヶ月ぶりに見る出口は、これまで見たことがないくらい髪を短く切っていた。緊急事態宣言が出てしまえば、次いつ髪を切れるかもわからないからかもしれない。どうやら隣に立つ女性がユカだった。手作りと思われる、重たそうなタオル生地のカラフルなマスクをしている。出口も決して背の低い方ではないはずだから、頭の位置が出口より高いところにあるユカは、かなり背が高いように思われた。ぼくが反応せずにだんまりを決め込んでいると、外側から内側を覗けるはずもないのに、ユカは覗き窓を覗いたり、新聞や郵便物が溜まっていないかなどを順序よく確認し、認識を蓄えながら、扉周辺を見終えると、なんとも収まりよく出口の隣に立ち直した。
「こんにちは、岳人の彼女のユカと申します」
想定外にも、ユカがぼくに向かって声を投げ掛け始めた。抑揚の効いたよく通る大きな声で、だるま落としをハンマーで綺麗に打ち抜くように、耳まで直線的になめらかに滑り込んでくる。二人がなにをしに来たのかわからなくて、なんと答えたらいいものかがわからなかった。
 誰が新型コロナウイルスに感染しているかもわからないなかで、ドアを空けるつもりはなかった。
「なあ、タカシ、その後お腹の方はどうだ?」ユカのあとに喋りだした出口の口調は、春の夕景に溶け込むように、静かで穏やかだった。
 話をするのなら、出口と二人で話したかった。なぜユカを連れてきたのだろう。ドア越しにも、ユカが凛と姿勢を正し、身体中に神経を行き渡らせ、余すことなく緊張感を張り巡らせている空気が伝わってくる。
 喉に声が張り付いて、上手く言葉にならない。散々口をパクパクさせ、口内で弾ける涎の音がピチャピチャと耳に障るのを感じながら、「順調だよ」と応えた。ユカとは対照的に、ほとんど空気を振るわせることすらできていない自分の声が、玄関扉を越えて二人に届いているのか、自信が持てない。
「そうか、よかった」
 出口が言い終わるか終わらないかのうちに、今度は遮るようにユカが喋りだした。「タカシさんは妊娠してるそうですね」
 彼女の人生には、言い淀んだり、躊躇ったりする瞬間はないのだろうか。間髪いれずに、秒読みに入った将棋のごとく、ユカは言葉を発してくる。もうぼくは王手を言い渡される数手前なのだろうか?
「そうだよ」
やはり上手く言葉を発せないぼくは、同じ言葉を二度繰り返してユカに伝える。一度目は無音で、伝える言葉を練習するかのように、口だけを動かして、二度目でうっすらと声になる。
「病院に行ってください」
「おい」
小さな声でユカを止めに入る出口の声が聞こえる。妙なもので、出口の声は、ユカのどの言葉よりも鮮明にぼくの耳に届くのだった。出口がどうやって勝手に喋るユカを止めようとしているのか、ユカの顔をロクに知らないからこそ、出口の所作だけが手に取るようにわかる。
「あなたは精神的に病んでるんです。岳人から色々聞きました。さぞ辛いことも沢山会ったのでしょう。でも、ただでさえみんな普通じゃないこのコロナ禍のなかで、これ以上岳人を捲き込まないでほしいの」
「おいやめろって。そんな言い方ないだろ」
怒りの混じった出口の声がユカの声を遮る。お腹に手を当てると、お腹の子が初めて蹴ったように感じられた。そう言えば胎児ネームはどうしよう。
「捲き込むなんて言い方ねえだろ、お前マジでいい加減にしろよ俺の友達だぞ」声量を抑えた声で出口はユカを叱責したあと「なあタカシ、まずは産婦人科でいいと思うんだ。どうであれ、男の出産なんて例がないんだし、よく見てもらった方がいい。そこでもし、もし万々が一、お腹の子のことでなにかあったら、必ず連絡してくれ。必ず駆け付けるから。そのためにも早く行って欲しいんだ。もし今緊急事態宣言なんか出されちまったら、俺、身動き取れなくなるんじゃないかと思うんだよ。そしたらタカシのもとにも来れなくなっちゃうかもしれないだろ」言い終えると同時にタカシの手が扉に置かれる。その音は、渡り鳥が旅を終え、羽を閉じるその瞬間のように、静かで強い。
「あとそうだ、お土産買ってきたんだ、タカシ豆苗育てるのにハマってるって言ってたろ」
スーパーのビニールがドアノブにかけられる音がする。
「無理にドア空けなくていいから。コロナも怖いしな」
「コロナが怖いのは私たちも同じ。ねえタカシさん、私たち結婚することにしたんです」
ユカが一歩扉に近づいたのが分かる。ジャリッと靴がコンクリートの上の砂粒を磨り潰す音がする。
「頼むからお前勝手に喋らないでくれよ」
「だって岳人がいつまでも言わないから」
「今言おうと思ってたんだよ」
「じゃあ早く言ってよ、私だってコロナ怖いの、早く帰りたいの」
 出口とユカの攻防がヒートアップしていく。
 嫌だけれど、玄関口に入れて話をしてあげるべきだろうか? いやでもお腹の子のことを最優先に考えれば、そんな安易な情緒に流されてはいけない。下駄箱には先週捨てることが出来なかった可燃ゴミとプラゴミの袋が転がっている。暖かくなってきたから、さすがに三日以上放置されているゴミは匂いがきつくなっていた。明日こそ捨てなければ。人に会わないように、このあと夜のうちに出しに行こう。
「あのなタカシ、今ユカが言った通り、結婚することにしたんだ」
 結婚。仕事をやめて独立するじゃなかったのか。そんなことよりおめでとうと言うべきか。
「おめでとう」
「ありがとう。この間会ったときにはまだ決めてなかったんだけどな。こんなご時世だし、ユカと二人で生きていくことにしたんだ」少し言い淀むような間があった。ユカとなにか物言わぬやり取りをしている空気が伝わってくる。「それと、実は子供ができたんだ。ようやく安定期に入ったところで。こっちも色々あって、LINE返事できてなくてごめんな。今日は、結婚の報告と、子供の報告で来たんだ。もし緊急事態宣言発出とかになったら、ユカとタカシを一度も会わせないまま結婚になっちゃうと思ってさ。タカシにはユカと会っておいてもらいたかったんだ。それに、タカシのお腹の様子も心配だったからさ。こんなご時世だからユカは渋ったし、タカシも嫌がるかと思ったんだけど。突然来ちゃってごめんな」そこで出口が言葉を区切ると、あとを引き取るようにユカが話し出した。
「いつもタカシさんのお話は聞いてました。また落ち着いたら是非直接お会いしたいと思ってます。初対面なのに色々無礼なこと言ってごめんなさい。兎に角、お互い体を大事にしましょう」
 沈黙が続いたあと、出口が小さな声で「じゃあな」と言うと、二人が家から遠ざかっていく気配が感じられた。
 暫くその場から動くことができなかった。出口の結婚だけでもまだ消化しきれていないのに、妊娠? 今安定期に入ったところだとすると、ぼくと大体同じくらいだろうか。それならば是非、ユカに普通の妊娠とはどんななのかと聞いてみたかった。
 一人でどんどん大きくなっていくお腹を抱えているのは不安だった。ぼくのお腹はもう既に西瓜一個分くらいの大きさになっていて、上を向いてまともに寝ることができなくなっていた。まとまった睡眠も取れないでいる。さっきお腹を蹴った気がしたが、ユカのお腹の子はどうなのだろう。
 コロナ禍のなか、わざわざタカシと会いに来てくれた。車だろうか? でなければ心配だ。悪いことをしてしまった。頬にも顎にも、顔一面に伸びきった髭をさする。お腹はどんどん大きくなるのに、食欲は日に日に減退していた。栄養を取らなければいけないのに、もう何日も日に一食カップ麺を食べるだけの生活が続いていた。
 ドアを空け、出口の置いていってくれた豆苗を取り込むと、玄関先でアルコール消毒する。アウシュビッツ収容前の消毒のように乱雑に、豆苗全体に振り撒く。それでも食べたいとは思えなかったが、せめて日の当たるところにと思い、窓越しに運ぶ。カーテン越しに豆苗を置いたところで、外の世界が恐ろしくてもう何日もカーテンも空けていなかったことに気が付いた。
 緊急事態宣言が発出が正式に決まると、もう随分出掛けることに消極的な日々を過ごしていたけれど、いよいよ籠城することを心に決めた。やはり荷物の受け取りも極力出ないに限る。そうと決まれば、宅配ボックスを手作りで設置することにした。
 お腹が重くて、立ったり座ったりも辛くなり、腰の痛みが常態化している。妊娠への不安が、スプリングの古くなった簡易ベッドに寝ているような膝の軋みで増幅される。
 手先の器用さを必要とする、DIYと呼ばれるような立派な作業は苦手だしやるつもりもなかったが、単純な工作レベルの作業であれば、製作に没頭している間は余計なことを考えずに時間が過ぎてくれるからありがたかった。生まれてくる子供のグッズを収納するために買った深緑色の収納ボックスに、子供の頃から集めている小物ケースに入っていた簡易的な錠前を付ける。前の職場で使っていたペンケースを内側壁面にテープで張り付け、同じく職場で使っていた印鑑を設置、『宅配ボックス』と書いた紙をボックス上部に張り付ければ、計画から作業完了まで、ものの一時間程度で完成した。
 郵便ポストの下に置いて部屋に戻ると、丁度お昼の時間帯で、食欲はなかったが、朝からなにも食べていなかったので、野菜ジュースとベビーチーズを一つ食べた。スマートフォンを開くと、珍しい人たちから便りが届いていた。元職場の同僚、実家の両親、それから離婚以来連絡を取っていなかった元妻の静香だった。
 元職場の同僚からは、仕事のことに関する簡単な質問だった。文末には儀礼的に、退職後はどうですか? こちらは先輩が抜けて厳しいですが、頑張ってます! と書かれていた。仕事に関する質問のみに回答して、後半の質問は無視する。
 両親からは、緊急事態宣言が発出されることになったがそちらはどうか。もしまだ仕事が決まっていなくて、特にやりたいことも決まっていないのであれば、2週間自宅待機にはなるかも知れないが、こちらに帰ってくるのも手ではないか、といった趣旨のことが書かれていた。確かにそれも有効な手段とは思うが、しかし頭の固い両親に、ぼくの妊娠を受け入れられるとも思えなかった。心配ありがとう、考えてみる、とだけ書いて返信する。最後に、少しだけだけど食料を送ったと書いてあった。このご時世にこれほどありがたいことはない。学生時代からいつだってそうだったけれど、母からの仕送りはいつもタイミングが抜群で、中身も絶妙だった。欲しいと思っていた食べ物や文具などが見透かしたように同封して送られてくる。偶々と分かってはいるが、そんなところに愛を感じてしまうのだった。孫が生まれたら会わせに行こうと思った。
 静香からのLINEは、久方振りの連絡とは思えない内容だった。
ーータカシがよく買ってたコーヒー豆を買いたいんだけど、どこのものだったっけ?
 カーテンを閉め、電気を消した部屋のなかでは、LINEを見ているスマートフォンの光が唯一の光源だった。
ーーネットで買ってたからお店には売ってないよ。URL送るね
ーーありがとう
 静香の意図するところがわからなかったけれど、どんなニュースも無きものとして淡々と送られてきた彼女からの連絡は、ぼくに深い深呼吸をした心持ちを覚えさせた。訊ねたいことは山ほどあった。妊娠したことも伝えたかった。けれど結局なに一つ言葉になることはなく、ぼくの目からは一粒の涙が零れ落ちた。スマートフォンの画面を伝い、線を引いてパンツの上に落ちる。パンツの緑色が、濃緑になり滲んだ。なんの意味もない涙だった。濡れたスマートフォンの画面を、なぜ泣いてしまったのかと自らに問いながら、意識的に首を傾げつつパンツで拭く。続けて返信する言葉も思い付かず、そこで静香とのやりとりは途絶えた。
 宅配ボックスの設置を最後に、部屋から出ることをやめた。お腹は重く、睡眠は浅く、ボーッとする時間が増えていった。
 お腹に手を当てれば、待っていましたとばかりに、お腹の子供が内臓中を叩くわ蹴るわの大騒ぎだった。ときには手形や足形がくっきりと浮かんで見えた。お腹が苦しくて、動くのが億劫になり、長い時間を寝て過ごすようになった。
 眠りと眠りのあいだで、お腹の子供に名前を付けようと思っていたことを思い出す。女の子なら静香でいい気がする。そういえば、静香といつか生まれてくるかもしれない二人の子供に思いを馳せて、名前を考えたことがあった。あのとき二人はどんな名前を考えたのだったろう。なかなか名前の好みが合わなかったことを覚えている。妻は性別に則した名前を好み、ぼくは中性的な名前を好んだ。一致していたことは、ポピュラーな名前であること。それは読み方においても、その名前が意味するところにおいても。目立つところはなくても、胸を張って堂々と、普通といわれる道を真っ直ぐに歩んでくれることを望んでいた。渋滞に巻き込まれても、工事が多くても、信号が多くてもいいから。ナビの指す最短距離や、地元の人だけが知るような脇道ではなく、国道をひたすらに走って欲しいと望んでいた。
 今ぼくはこのお腹の子に、同じように胸を張って堂々と歩んで欲しいと思っている。けれど、大きな道や一般的な道は望んでいなかった。なにせ男のぼくから生まれてくるのだ。誰がどう甘く見積もったって、生まれた瞬間から外道だろう。ポピュラーでなくていい。強く、逞しく生きて欲しい。
 男のぼくから生まれてくる、その出自の特異性は、この子を多くの面で幸せにはしないだろう。だからこそ、そう、非暴力、不服従を携えながら、その主張を公明正大に主張したガンジーのように。誰に認められなくとも地動説を主張し続けたガリレオのように。誰に恥じることもなく、折れることも負けることもなく、大地を力強く踏みしめ、一歩一歩前に進む子であって欲しい。そうだ、一歩なんてどうだろう。男の子でも女の子でも。読み方はいっぽでもかずほでもいい。
 眠気が再びぼくを支配していく。胎児ネームはどうしたものだろう。いっぽやかずほは、生まれたあとに呼ぶ名前として取っておきたい。漢字で一歩と決めていても、胎児ネームとしては呼び方も定まらない。胎児ネームは呼びやすいものがいいだろう。どうせぼくしか声をかけないのだ。ぼくの好きなもの、例えばそう、おっぱい。おっぱいではあんまりにあんまりだろうか。他になにがいいだろう。
 チョコレート、人参、豆苗、うなじ、くびれ、お臍。
 お臍。
 おへそ。うん、おへそがいい。言葉が強すぎないし、なにより生まれてくる子供とぼくを繋ぐ象徴的な場所だ。うん、胎児ネームはおへそに決まり。目蓋の裏で、へその緒が道となって、ぼくを次なる眠りへと誘う。
 膀胱と小腸のあいだに、繭玉が形成されていた。キシ麺ほどの太さの糸は、サイリウムのような光を放ち、何周にも複雑に絡み合いながら繭を築いている。繭の中からは、プラスチックの虫籠の壁を登ろうとするカブト虫の前足が滑るような音が響き、反響している。羊水から食指のように伸ばされた糸が、内臓中に絡み、繭の糸がぼくの身体を内側から支配していく。糸は胃袋の壁を這い、食道を覆い尽くしながら、口まで辿り着くと、勢い口外までその姿を現そうとしてくる。慌てて口を覆うと、糸は別の出口を探して、さらに体内で溢れかえっていく。目、耳、鼻、肛門、尿道。あらゆる穴と言う穴を乗り越え、体外へ飛び出そうとするのだった。そうして侵略をやめない繭の糸と、封鎖のために奮闘するぼくの身体が闘争を始めると、当然に息をすることが難しくなり、酸欠状態で床に跪いた。跪いた床に、痩せた膝の骨がぶつかり、碁盤に置かれる石のような音がした。膝と床の境目は、繭の放つ光で透過されて曖昧だったけれど、その音を便りに「この場所を取ったぞ」そう口にした瞬間、目を覚ました。
 時計に目を遣れば、十分と寝ていない。繰り返す夢は少しずつ変化していくけれど、その全容はなかなか把握しきれず、またどれだけ苦しくても、結局ぼくは変わらず息をしているのだった。
 出口にお腹の写真を送らなくなると、お腹の毛の処理をやめた。すると、お腹の成長を覆い隠すかのように体毛が濃くなっていった。胸やお腹は勿論のこと、腕や指、太腿、脹脛、背中、ケツ毛、あらゆる毛という毛が伸びていく反面、髭とギャランドゥはどんどん薄くなっていった。伸びてくる毛は太く固く、伸びては抜けを繰り返すのだが、抜けてなお、全体の毛量は増えていった。勢いが凄い分、体にあまり根付いていないのか、手のひらでさするだけでもごっそりと抜け落ちる。肌は乾燥し、身体のいたるところに染みができていく。
 食欲は日に日に減退し、緊急事態宣言発出から一週間もする頃にはほとんど食事を摂らなくなっていた。痩せていくと、もともと筋肉のなかった胸は、肋骨から心臓の鼓動に触れることができるようになっていった。心臓の鼓動で震える指を見ていると、なにが肉体の外側で、どちらが内蔵の側なのかがわからなくなる。浮き出た骨は外に張り出そうとしているようで、自分の身体なのに、見ているだけで痛々しかった。鏡を覗き込むと、想像している自分の姿とあまりにも違いすぎて、思わず鏡に触れる。触れた指は、骨が直接鏡に触れるような、乾燥した流木でコンクリートを叩いたような音がした。ちょっと力を込めれば折れてしまいそうだった。こんな身体で、元気におへそを生むことができるのだろうか。
 眠っていると、無意識に鼻毛と髭を食べてしまったのか、咳き込んで目覚めた。栄養が足りないのか、一度咳を始めるとなかなか止まらない。空咳をし続けると呼吸が苦しくなり、懸命に息を吸おうとすれば、またも鼻毛や髭を吸ってしまい咳をするというサイクルで、暫く咳が止まらなくなる。痩せ、窶れ、全身が乾燥している上に、空咳で喉を痛めるものだから、こまめな水分補給が必要になった。咳が続くと、今度は発熱した。三十七度を超えるくらいの微熱だったが、コロナ禍の渦中で熱を出すというのは、精神衛生上よくなかった。ほとんど人に会っていないのだからコロナな訳がないと思いながらも、熱が引くまで気が気でなかった。二三日寝込み、これ以上はPCR検査を受けなければまずいだろうかと思った頃に熱が引いた。熱が引いていく安堵のなかで、静香が流産したときのことを思い出していた。
 子供を望める可能性は低いと思っていたから、妊娠がわかったとき、我々夫婦は、永い航海の末、ジパングを発見したコロンブスのように喜んだ。妊娠検査薬の結果にときめき、二人で何度も浮かび上がった線を眺め、写真を撮り、まだわからないよと言いながらお腹をなぜた。春の穏やかな陽射しはぼくらを柔らかく包み、外を見れば桜が満開、雲一つない青空にピンクの花びらが祝うように降り、あいだを縫うように白や黄色の蝶が舞い踊っていた。土からは新しい命が蠢きだし、新緑を突き抜けるような生命の息吹きが天に歌う。近所の城跡公園にでかけ、花見の賑わいのなか、屋台で思い付くままに好きなものを買い、ノンカフェインの飲料で乾杯した。ぼくがノンカフェイン飲料を飲む必要は特になかったけれど、妊活をするなかで、願掛けのように二人でノンカフェイン飲料を飲んでいたから、それはもはや日常だった。そしてぼくは、その日を限りにタバコをやめた。
 病院でも妊娠が確認された。けれど回数を重ねるうちに、なかなか胎芽が育っていかず、胎動が確認されないことに不安を覚えるようになっていった。それでも、やっとできた子供で、次こそは胎動が確認できるはずだと期待を持って通院をすることが続いた。医者に言われて、もうこの子が大きくなることはないのだとわかると、静香の涙は止まらなくなった。本当に、涙腺が壊れてしまったのかと思うほど、静香の目からは止めどなく涙が溢れ、目蓋が腫れ上がり、それでもまだ泣き続けた。それまでほとんど休んだことのなかった仕事を連日休んだ。初めは一緒になって泣いたけれど、涙を流し続ける静香を見ていることの方が辛くなり、ぼくは一日だけ休むと仕事に戻った。
 四日目の朝、静香は泣くことをやめた。朝起きると台所に立ち、結婚してから今までで一番手の込んだ朝食を作ったあとに「ごめんなさい、もう大丈夫だから」と言った。
「別に大丈夫になる必要はないよ」
「違うの、大丈夫じゃなきゃいけないの。そうでなければあの子が報われない」
 断言する静香に、染色体異常でやむを得ないことなんだから。まだ命とも呼べる前のことだったんだから。なんとか自分を責めずに立ち直ってほしくて、色々な言葉を考えてみたけれど、どれも静香を傷つけることしかできなそうな頼りない言葉たちで、結局なにも言えずじまいだった。
「今日もう一日だけ休んだら、明日から元通りだから。もう一日だけ、休んでもいい?」
 静香が必要としていたのはぼくの言葉ではなくて、多分いなくなってしまった子供との対話の時間だったのだろう。
「もちろん、ゆっくり休んで」
 会社から帰ると、家のなかはすっかり模様替えと衣替えが完了していた。「張り切りすぎて疲れちゃった」そう言うと静香は、ぼくが帰ると同時に寝室に行き眠りについた。そのまま十二時間以上寝たあと、翌朝からは本当にすべてがいつも通りになった。
 流産手術は週末に行われた。静香はそこで、その子のための最後の涙を流した。ありがとうとごめんねを、これまで生きてきて言った数と同じくらい繰り返し、念仏のように唱え続けていた。静香が手術を受けているあいだ、ぼくは静香と同じ言葉を繰り返し、泣いた。それ以外のことをしていてはいけない気がして、静香と子供のことだけを考えた。放っておくと涙はすぐに止まってしまいそうだったから、泣くことに意識を集中して、ぼくは涙を流した。
 手術から出てきて目を覚ました静香がぼくを見て微笑む。ぼくも微笑み返す。今まで以上に強い絆で結ばれた気がした。病院の個室で、静香の左手を握り「ありがとう」そう言うと、妻は右手で手術を終えたばかりのお腹を撫でた。白いベッド、白いシーツカバー、白い静香の手。日に妬けたぼく。リノリウムの床に映る姿は誰もかれも、歪み、融け、なに一つ形を為していない。静香はその日のうちに退院となり、ぼくたちは家に帰った。
 目を覚まして思い出した。この間静香からLINEが来た日は、あの子の妊娠がわかった日だった。スマートフォンを探し、静香からのLINEをもう一度見る。書かれていたのはやはり他愛のない文言だったが、彼女の傷が未だに癒えていないことを知って、どうしてぼくは仕事もないのに、こんな縁もゆかりもない土地にいるのだろうと思った。久方振りにカーテンを開けると、眩しさに思わず目を瞑る。眉間に皺がよって、自分の表情の動きを知る。東京の桜はとうに散っていて、既に葉桜の季節を迎えている。抜けるような青空は、夏の予感すらさせた。窓を開ければ、部屋中を洗うような空気が流れ込んでくる。頬をなぜる風が、何日も風呂に入っていない体を涼やかに通りすぎていく。ベタついた身体が重たかった。服を脱ぎ、裸で風呂掃除をして、湯船にお湯を張る。そのあいだに、玄関に置いてあった姿見をベランダ脇まで移動させると、改めて自分の容姿を検分した。髪は頭頂部からハゲが進行し、フランシスコ・ザビエルさながら。胸は骨と皮だけなのに、お腹だけがやたらと競り出している。硬質な毛に覆われた腹を毛の流れに沿って撫でると、お腹の形が綺麗な円形ではなく、テトラポットを二個も三個も合体させたかのような複雑な形状で、てんでバラバラな方向へ突き出していることがわかる。腕も足も黒々とした毛に覆われていて、嘗て教科書で見た猿人類さながらだった。視力が落ちているのか、随分顔を近づけなければ、自分の細部が今どうなっていて、どんな顔をしているのか、判然としないことに気が付く。よくよく目を凝らし、繁々と自分の風貌を眺めたあと、身体を洗う前に全身を湯槽に沈めた。深い息が漏れる。浴槽にワカメのように泳ぎたつ全身の毛。瞬間的に体得した発毛力は、やはり根付きが悪いらしく、気付けば湯船は毛の海と化していた。お湯を掬い上げて顔を洗おうと思えば、ほとんど毛で顔を擦っているような有り様で、固く細い複数の繊維質が、ゴロゴロと顔の上を転げ回る。下手なローラーの美顔装置より効果がありそうだった。
 お風呂から上がると、湯あたりしたのか、身体を拭いている最中から鼻血が出始めた。身体を拭いたタオルで血を拭うと、鮮やかな赤はあっという間に黒みを増していく。暫く上を向いたのちに、ティッシュを詰めて服を着る。お腹のテトラポットは、触ってみても、硬く、微動だにしなかった。何度話しかけてみても、優しく撫で、ほぐすようにマッサージをしてみても、おへそ! おへそ! と呼びかけてみても、おへそは沈黙を貫くのだった。まるでぼくの存在など初めから知りもしないといった風に、あらぬ方向を向いているように思われた。反応がないことに気が付くと、そこだけかかっている重力が違うかのように、下向きの圧力が強くなり、重さが増す。セメントを満タンに積めた石油タンクを持っているかのようだった。意識が朦朧としてくる。
 鼻血が止まらず、テイッシュを取り替える。目の脇に、出口から貰った豆苗がある。未開封のまま放置され、袋がパンパンに膨らんでいた。なかの様子を伺うと、葉が黄色く変色したり溶けたりしている。恐る恐る開封すると、詰めたテイッシュを飛び越えて、異臭が鼻を衝く。茶色い汁が根のところで澱んでいる。ボウフラのような黴が根や豆を中心に豆苗を支配し、とても食べれる状態でもなければ、見れたものでもなかった。思わずゴミ箱に捨て、ゴミ袋の口を縛り、玄関外に出す。生臭さにやられたのか、吐き気を覚え、トイレで便器のなかに首からもたげ落ちると、鼻血がまだ止まっていなかった。胃液と鼻血が洋式トイレの内タイルを伝い、水のなかに勾玉のごとき模様を描きながら色を付けていく。血液は局所的に沈みながら、その領域を、陣取りゲームのように水のなかで広げていく。意識が遠のいていく。トイレの小窓からはすりガラス越しに陽光が覗いていた。出口に、豆苗ダメにしちゃったよ、ごめん、とLINEを送ってから立ち上がり、トイレを出ようとしたところで、ゴトリ、と重たいものが床に落ちる音がした。目の前は真っ暗で、痛みはなかったが、多分落ちたのはぼくの頭だろうなと思った。頬や頭部を生ぬるいものが濡らしていくのがわかる。目を開けて立ち上がろうとするが、どうやら叶わなそうだった。
 海から上がると、太陽に焼け、熱を多分に含んだ細かな粒子の砂から為る砂漠に着いた。夜明け前の海岸に打ち上げられるように上陸し、内陸を目指す。濡れた体に纏わり付く砂が体を乾かしていく。太い前足で力強く歩を進め、排卵場所を決めると、穴を堀り、身体を埋めて卵を産んだ。卵が体内から地中へ落ちていく感覚が手に取るようにわかる。ぼくもかつて卵から生まれた。一斉に孵化し、同じ穴から這い出すように誕生すると、我々はすぐに夜明け前の海を目指した。海までの道筋は青く光輝き、何一つ考えることも迷うこともなかった。共に生まれた百近い兄弟たちは、あの日海に入って以来、生き別れたが最後、二度と再開することはなかった。目から塩分を含んだ粘液が溢れる。産卵が終わると、砂を掛けて再び海を目指した。ぼくは海に漂い、深く潜りながら、夜の明るさと深海の明るさに戸惑い続けていた。どこに行けば暗い夜や深い闇と巡り合えるのだろう。甲羅のなかに頭も手も足も仕舞い込むと、抵抗する力はなくなり、海の底へと体が沈んでいく。時を刻み続けてきたこの甲羅こそが、誰よりもぼくの相棒であり、存在の証明なのだろう。産んだ卵からどれだけの新しい命が大人になったとて、子孫繁栄に寄与こそすれ、ぼく自身とはなんら関わりはない。
 産み落とした卵が孵るとき、その一つにぼくはいた。深い海を漂うぼくと、新しく生まれるぼく。多くの兄弟のなかで、ぼく一人だけ肌や甲羅の色が違い、金塊のような色をしていたが、ぼくも兄弟たちもまるで気付いていなかった。砂を小さな身体で全員で後ろに掻き分けて、海を目指す。一人だけ稀有な色をしていることに、既に深い海の底を優雅に進むぼくは気付いている。だけど小さな身体でよちよちと海を目指すぼくや兄弟たちにとって、そんなことは大した問題ではないのだった。海に手のヒレが触れ、身体が濡れていくと、深海にいるぼくと意識が断絶していく。ぼくは、ぼく一人に還っていく。
 目が覚めると病院で点滴を受けていた。状況が飲み込めないまま、暫くベッドの上でぼんやりしていると、看護師がやってきて「あら、お目覚めですね」そう言いながら、点滴の袋を新しいものに変える。「栄養失調と出血多量で部屋で倒れていたところを、出口さんと名乗るご友人が警察と救急車に連絡して、緊急搬送されてきたんですよ。コロナの影響でなかなか受け入れ先が決まらないなか、何時間も都内の大病院を巡ったあと、個人院であるここに運ばれてきたの。友人の方によくよくお礼を言っておいてくださいね」そう言うとぼくの意識の具合を確認するために、名前、生年月日、今日の日付などの聞き取りをしてから、「それじゃあ先生を呼んでくるわね」と言って病室を出ていった。
 意識がはっきりしてくると、お腹が平らになっていることに気が付く。空白のお腹が意味するところを受け入れられず、また理解も追い付かないまま混乱していると、医者がやってきて何ごとか説明していたが、まるで頭に入らなかった。わかったことは、この点滴の袋が終わったら退院して家に帰らなければならないこと、栄養が全身に行き渡ればある程度視力も回復し、頭髪なども元通りになっていくと思われること、だからこそちゃんとしたものを食べる生活を心がけること、ということだった。
 病院があったのは、ぼくが見たことも聞いたこともない街で、家に帰るには、電車で二時間近くかかる場所だった。それだけの時間をかければ、新幹線で長野にある実家にだって帰れてしまう。
 我が家に帰るために、都心にある駅で乗り換える。昼間の時間帯とはいえ、平時に比べて街全体がひっそりと静まり返っていた。座席は空席が目立ち、地元のローカル線に乗っている気持ちになる。違ったのは、車内の広告量と、窓の外の景色くらいだろう。全国に広まった緊急事態宣言の発出は、日本中の人を家のなかに閉じ込めてしまったのかもしれない。人はいつだって、大事ななにかを守ろうとすると内に籠る。ぼくは一体、なにからなにを守りたくて、家のなかに籠っていたのだろう。
 家の前に着くと、派手で原色好きの出口らしい、七星瓢虫のような車がアパートに横付けされていた。車内からは聞き慣れない音楽が流れている。遠目に見る出口は、まるでいつか見た知らない大人のような顔をしてスマートフォンを弄っていた。スマートフォンは、それ一台でできることが多すぎて、出口が昔のように漫画や小説やエロスを堪能しているのか、それとも新聞を読んだり調べものをしたり仕事をしながらぼくの知らない世界と繋がっているのか、その俯いた顔に浮かぶ影からは読み取ることができなかった。車に近づきノックをすると、こちらに向かって手を振り上げ、窓を開けた。
「前来たときは短時間だったしここに路駐しちゃったんだけど、駐車場とかってあるんだっけ」開口一番、駐車場の話だった。一番近くにある数十メートル先のコインパーキングと、少し歩くことになるけれど、この辺りでは比較的安いコインパーキングがあることを伝えると「都会の駐車場は高いよなあ、口じゃわからないから乗って」そう言いながら、助手席のドアが手動で開けられる。車に乗り込み、安いコインパーキングまで案内すると「あー、こっちなんだ」「なるほどね、この道細いなー」不必要な会話ではないけれど、不自然な時間が流れる。
お互いに言いたいことがあることを察しながら、空気の抜けたゴム毬が跳ねるのを見るような気持ちを抱えたまま、コインパーキングまで車を走らせた。車を停めて家に向かう道すがら、住宅街に入ったところで、そこかしこの庭にチューリップとハナミズキが咲き誇っていた。無理と自然を装うために、意識をそれらの対照的な花弁の開き方を見比べることに注ぎながら歩く。アパートに到着し、敷地内に入ろうとしたところで、躊躇いがちに出口が口を開く。
「お腹の子は、残念だったな」「多分、仕方なかったんだよ」
「うん」
「でも、タカシが無事で良かった。豆苗の話なんて急にしてきてさ、そのあと連絡返しても返信もないし、電話しても出ないからびっくりしちゃって」
「うん」
「そんで慌てて家来てみたら、すっかりハゲ散らかしたおっさんがトイレのドア開けた状態で下半身丸出しで血の海に倒れててさ」
「鼻血な」
「鼻血だったんだな、あれ」
二人で声を出して笑う。
「病院行くまでも大変だったけど、コロナ禍だから付き添いもお見舞いも駄目だって言われてさ」「食い下がったんだけど、まあ仕方ないよな」
 喋ると空気が籠るのと、春めいて気温が上がってきたせいで、マスクのなかの湿度が上がり蒸れる。
「お腹がさ、起きたらぺしゃんこだったろ」
「あぁ」
「俺さ、あー、良かったって。全部夢だったんだ、て」
「あぁ」
「でもさ、やっぱり信じられないんだよ、俺。結局おへそは、あの子は、この世にいたのかな。いたんだよ、いたはずなんだ。だとしたら、また俺は護れなかった。また生んでやれなかったんだ。なあどうして、だとしたらどうして俺は宿してしまったんだろう。俺は逢いたかった。おへそに逢って、この腕で抱いてやりたかった。好奇の目に晒されても、非難の目を浴びても、一緒に生きてくつもりだったんだ」感情が喉に詰まる。自分の家の前なのに、その場にしゃがみこむ。「あぁ、違うな、きっと違う。そんな綺麗事言っちゃいけないよな。多分、ぼく自身が諦めちゃったんだ。多分おへそは生まれることはないんだろうって気付いて、思って、耐えきれなくなって、そうして流してしまったんだ。ぼくがいけないんだ」
 出口が隣にしゃがみ、膝の上に顎を載せながら「そんなに自分を責めるなよ。どっちにしたって、こんなご時世下じゃ、生まれてきたあとも大変なことだけだったかもしれないよ」「って、今度子供が生まれてくる立場で言うことじゃないけど」そう一人ゴチると、頭を掻きながら続けた。「落ち着いたらさ、うちの子供にも会いに来てよ。そんでさ、その…、おへそちゃん? のために使う予定だったものとか、分けてくれよ」出口がぼくの背中を撫でる。久しぶりに人と触れあった気がした。
 アパートの塗り替えられたばかりの赤茶色の壁に触れると、ざらりと肌に引っ掛かるような感触があった。
「予定日はいつなんだっけ」
「ん、九月、だったかな」
「それまでにコロナ収まってるといいな」
「どうだかな。厳しそうだよな。立ち会い出産、夢だったんだけどなー」
「独立はどうするの」
「そんなの、後回しだよ、後回し。なによりユカと生まれてくる子が最優先」
 春はまだ始まったばかりで、赤と言うよりはワイン色に近いチューリップの花から、蜜蜂がこちらに背を向け、次のチューリップへと飛び立とうとしていた。
「そう言えば髪、切ったんだな」
「似合うだろ?」
「うん、よく似合ってる。そんなに短いの珍しいよね。癖っ毛が目立たなくなるんだな」
「さ、家に入ろうぜ」
「お前が言うな」
「なに言ってんだよ、片付け手伝ってやろうってのに。終わったらお茶の一杯も出せよな。コロナ収まるまで、次いつ会えるかも分からないんだからさ」
 アパートの敷地に入り、ポケットから鍵を取り出す。今日は出口とユカが一緒じゃなくてよかった。
「子供が生まれてくる頃には、コロナ、収まってるといいな」


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