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千の焦点を揺らして・序章:フルサトは語ることなし(坂口安吾全集リミックス)

 炳は雪しかない国で生まれた。生誕の座標は、サカグチ家。意識なるものが暴発する日以来、彼は太陽に郷愁を抱き、南国の空を気候のゆりかごにした。だから、炳。(辞書を引く)その名前に光があった。名前が、光そのものだった。親が名付けたというより、自分自身が付けた名前であったと、そう決めていた。だが、炳の歴史はここで終わる。ある(封鎖された)教室で、ある教師によって。それ以降、彼の人生は「アン」として銘記される。そのように銘記されるべきだと、彼は決定を下した。下した瞬間、はじめて「腑に落ちた」と感じた。落ちて、落ち続けるが、納得がいった。光を消す、消灯。本を開いて、捨てる。炳を地上から抹消する、それが抗争の始まりだ。

 アンは今でも時々太陽を幻視するが、その頻度がかなり落ちた。網膜に浮かぶまるい斑点を〈三番目の目〉で視認し、アの音を〈三番目の耳〉で聞き取る。それに続く音声は、アクタガワ? 雪の冷たさがあった。外気に触れた瞬間、彼は理解した。太陽の光は蛸の触手だ。風の学者として、吹雪の振動に傾くべき存在たれ。アンは自身のアンビエンスを再確認する。アン、それは雪に相応しい響きだ。身体を整える、その調べ。アン、引き伸ばせば、アーン。伸ばせば、切りやすい形になる。「ア」と「1」と「ン」になる。切断がいとも容易く達成。「ン」を分離した。分離して、個体にした、その子音を。子音は常に誰かと隣り合う者だった、独りでいることが心細く感じた。しかし、「ン」は違った。それが単独で行動しても、文章は成り立つ。つまり、問いかけとして、あるいは肯定。この仮名だけだ、こんなに孤独で気流的存在は。そうだ、アよりンなのだ。アン、と発声する。その時、アの発声方式は後続するンによって、逆規定される。つまり、アはンを必要とするが、ンはアを必要としない。仮名音声のアナキスト。それこそ記すに相応しい装置だ。

 ナガシマは遠くからアンを呼びかける、口に礫を唅んで。彼だけではない、この国の全員はそうしている。アンの国では、雪は一年を通して降る。雪しかない国だ。全員が一緒に雪を踏む時、跫音は乾いた雷鳴を打ち出す。だから、この国には熱量が必要だ。礫をふくみ、舌を動かす。鍛えられた舌は体を動かすエネルギーを供給する。鍛えられた舌で雪を融かして、河川を作る。鍛えられた舌で、辛うじて、擬似的な春を招致する。しかし、川はやがて凍ってしまう。擬似的な春も。熱を生み続けなければならない。だから、ここは舌の熱で生かされた国。その国に、ナガシマも生きている。だが、ある日、彼は礫をふくむのをやめた。やめて、舌が礫そのものになった。彼の言葉が変化した。もともと神経が礫の摩擦にすり減らされた彼は、熱を供給することを放棄した。そして、熱はなかったが、彼の声はよく通るようになった。

 聞こえる。礫の舌は今日も鳴り響く。「タラタッタッタ、タラタッタッタ」、彼の口癖だ。

「アンゴや、お前はおなかがとってもいたいのさ、とってもいたいのさ、こころの。おまえ、街のガス灯なんだよ、ヌッとつったてて。目は蒼いんだ。かなしそうで、綺麗で、たよりなくて。すこしつめたく、すこしあったかい。おまえはそれをたよりに、たのしくいきるんだよ。ひとつの言葉からほかの言葉がとびだしてきて…いつも、たのしいさ。ぼくを信用しなくちゃいけない。そうすれや、誰よりえらく、誰よりしあわせになるんだ。きっと。さあ、ガス灯の焔でしきゃないおまえのこころにあんしんしちゃって。」

 冷やかされている、あきらかに。アンは礫を吐き出す。舌が凍りはじめる。「これで冷たさしか残らないだろう。あと、ぼくを呼ぶ時、ゴはいらん」

「ほらやっぱガス灯じゃないか」ナガシマはなじり続ける。

「ガスって言葉が理解できない」

「去る海外、就いて明白になって了う。有る東西よりて、叫ぶ瓦斯」

「茶化すな」

「おなかがいたいおまえにはわからない」

「本当に死ぬよ、ちゃんとした舌で喋らないと」

 ナガシマはアンを見つめた。そして、アンの吐き出した礫を雪から、拾い上げた。礫の余熱によって、雪が少し融けていた。ナガシマはそれをアンの口に押し戻した。

「君のチンケな同情はいらないさ。君は死を恐れている。アンゴは暗号ですらない」

 出た、アンゴウ。ナガシマのやり口に、感服する。アンは礫を舌で動かしながら、「そうだ、所詮偽善だ」と言い放った。いつか耳で石を転がしたいものだ。

「そうするがいい。アンゴ、耳と鼻は一緒だ」

「ふん。思考を先読みすることがお得意で」

「ああ、わたしは舌を引き抜くよ」

「さよなら」

 ナガシマのいつもの謳い文句に呆れて、アンは踵を返し、帰り道を辿る。家に帰るまでの間、「タラタッタッタ、タラタッタッタ」の声が彼の背中を打ち続けていた。

 八日後、ナガシマは死んだ、舌を引き抜いて。誰も彼の死を目撃しなかった。死体もなかった。いや、一部が残った。それだけで身元確認ができた。ナガシマが死んだその日、雪の国に未曾有の出来事が起きた。湖が、できた、一夜にして。その湖の底に、熱を発する礫の舌が沈んでいる。

 湖に飛び込み、アンは礫の舌を目指す。耳から「ン」が聞こえた。彼は驚いた。「タラタッタッタタラタッタッタ」ではない、「ン」がそこにあることに。アンは同調を試みる、そして、潜る。ンンンンンンンン。子音のオノマトペに沈む、更なる深みへ。そこにあるのは「ン」の陥穽。器官の繊維もそのど真ン中にて調音されて、ン。突然、湖が凍り始める。光が、氷の団塊に閉じ込められる。体は水面に引っ張られる。調音が失敗した。だから、弾かれた。それでも抜き手を切る。潜りながら聴く。子音の唸り。礫の舌もこれに耳を傾けているのだろうか。この光線を氷漬けにする氷河状の、ン。ナガシマ、この湖は、おまえの仕業か。「タラタッタッタ」が響かないのは、謎か。分からない。だから、弾かれたのか。謎を解くために、ぼくも礫の舌にならないといけないのか。これこそ偽善だ。聞こえてしまったものに嘘はつけない。今響く音に解釈などいらない。そうだ、「ン」はアンゴウではない。

 だから、過去も無作為に、再編成して、

 炳はサカグチ家に暴発した。太陽と南国の歴史はここで終わる。アンが腑に落ちた。腑に落ちて、落ち続けた。炳の抹消、それは抗争の始まり。吹雪の教室に、蛸の教師。誰かが雷鳴の跫音を踏む。タラタッタッタ、タラタッタッタ。蒼い目が擬似的な春を招致する、礫の舌を唅んで。目撃されない、未曾有の死、神経をすり減らして。おなかがいたい。いたい、同調の失敗。〈三番目の目〉は謎か。〈三番目の耳〉は、調音か。茶化す偽善。熱を発する国。乾いたガス灯。生かされた身元確認。謳い文句も偽善。だから、冷やかされたのか。だから、弾かれるのか。雪と摩擦する、沈む石。石は謳い文句ではない。納得がいくのか? 口癖より決定が下されて。潜りながら、文章を転がせ。春を吐き出すなら、国を融け。ゆりかごの座標に、陥穽でなじれ。光のど真ン中に、氷河のオノマトペ。アン! 器官の繊維はチンケな同情だ。仮名音声の装置、思考の先読みに呆れて。抜き手を切れば、解釈などいらない。だが、謳い文句の余熱に、嘘はつけない。だから、舌を引き抜く。引き抜く。引き抜く。引き抜いて、「く」! 耳と鼻は一緒だ。さよなら、暗号。今鳴り響くのは、「ン」のアナキー。

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