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なぜ「あれは漫才じゃない」と言わなければならなかったのか【M-1グランプリ2020を巡る考察】

M-1グランプリ2020の結果について「あれは漫才じゃない」と言わないと気が済まない人たち。毎年あらゆる賞レースについて「審査がおかしい」と発言する人はずっといる。でもなぜそうした不毛な議論が今年は特に大きく見えたのか、考察してみます。


※注1 2時間ほどで殴り書きした内容です。あとでしれっと加筆修正するかもです。
※注2 私を知っている人が違和感を持つと思うので断っておきます。私の本業はお笑い芸人ですが、M-1グランプリにはほとんど出場していません。その理由にはこの記事の内容も関係ありますが、それ以外にもいろんな理由があります。どちらかといえば、一回戦から準決勝までチケット争奪に普通に参加して観に行くお笑いオタクとしての目線から書いている記事です。

まず大前提として、他人を値踏みしたい、加害したいという欲の歯止めが効かない現状のインターネットの環境の不備があります。「認められているあいつを俺は認めない」「誉められている人を貶すことで何者かになったような気分になれる」。人を非難することが自己目的化し、無料でお手軽な娯楽として普及している惨状。実は私は、俯瞰で見ればこれが一番大きな原因ではないかと思っているのですが、これはお笑い以外にも大きく敷衍できてしまう、面白くない論点なので飛ばします。

「漫才の定義」論についての私の基本スタンスはこれです。

どんなジャンルでも、詳しくない人間が定義に口出しするようになった時は既に文化として成熟してきていると言えます。ラインぎりぎりアウトな存在を認めるか否かの議論からジャンルは拡張していきます。門外漢でもわかるくらい「漫才」というもののぼんやりとした枠組みが当たり前になってきた。しかし、これは擬制です。現実の「漫才」の定義ではありません。あくまで島田紳助さんとその周りの人たちがルール設定した「競技漫才」です

「競技漫才」というのは私が作った言葉ではなく、いわゆるM-1戦士の漫才師の一部が日常的に使う言葉です。なんとなく「4分間にできるだけ自分たたちのキャラクターと矛盾なく効率的にボケを入れて、盛り上がりを尻上がりに加速していく」漫才を指すと思います。漫才というものは(確か)近世からある文化で、元は音曲を含むものですが、そんなことはこの際の漫才論には関係ありません。2001年以降の漫才史はすなわちM-1史であり、競技漫才が多様化し発展してきた過程です。発展と同時に定義が地ならしされ、定義のスレスレの異端を認めるか認めないかのせめぎ合いでまた新たな定義が生まれる。

繰り返しますが、それはどのジャンルも同じです。今回の漫才界について特殊なのは、「そんなものは漫才じゃない」という声が上がらなかったことです。キュビズムが絵画界から批判されたように、自由律俳句が俳界から批判されたように、ラップ・ミュージックが音楽界から批判されたにも関わらず、今回の王者を「漫才じゃない」と批判するお笑い関係者は皆無でした。これはとても異常なことです。20年間で漫才の世界に何が起きたのか。

ここでひとつ忘れてはいけない視点が「お笑いの評論ほどコスパのいいものはない」ということです。もっと言ってしまえば、お笑いの評論なんて誰にでもできます。なんの能力も経験も感性もなくてもできます。他のジャンルと違って現在のお笑い界の評論は圧倒的にしやすい。それは島田紳助さんの功績です。落語の寄席に通ったり、長年演芸番組を分析的に観た経験なんてなくても、お茶の間で2時間で10組のネタを見れば誰でも評論家になれる。そして他のジャンルと違って、専門知識や視点がなくても「自分は笑えなかった、よって、こいつらはつまらない」という伝家の宝刀が全員に配布されています。この記事を書いている私自身へのブーメランでもありますが、お笑い評論ほど素人がお手軽にそれっぽいことを言えるジャンルはない。元々、的外れな論評が生まれて流布しやすいものということです。


ここで20年間の漫才史、M-1史の話に戻ります。今回の王者、マヂカルラブリーさんに匹敵するかそれ以上に「これは漫才なのか?」論争を引き起こしたネタは数多くありました。既にブレイクしていたテツandトモさんとハライチさんは抜いても、初登場時の麒麟さん、オードリーさん、スリムクラブさん、ジャルジャルさんは今と同じネット空間があれば物議を醸しえたくらい革新的だったし、実際にジャルジャルさんは審査で指摘されました。

この頃はある意味、お笑い界の中に「これは漫才ではない」を指摘する声がありました。現在もお笑い界の価値観を統べる巨匠の審査員の方(※本稿ではこの方の名前を「巨匠」で統一します。やたらお名前を頻出させてしまうので申し訳ないからです。)はラジオで、NON STYLEさんが小道具として本物のリップクリームを出したことについて苦言を呈しました。これは2000年代前半の「喋りの上手さ」という明確なひとつの評価軸があったM-1から2000年代後半の「びっくりさせた人が話題になる」場としてのM-1への変質を巨匠が畏れたタイミングに私には思えます。事実、最もインパクトを残した人が優勝はしないことから「2位が売れる」というジンクスも広まる中でM-1は2010年に一旦幕を閉じます。

そう考えると、2020年のM-1グランプリは「2000年代後期のM-1では2位だったようなマヂラブさんが優勝した」初めての大会でした。これが2009年頃の大会であれば見取り図さんが優勝になっていた可能性が高いような気がするのもわかります。「ウケていたけど、これは漫才じゃないから優勝ではない」という架空の審査基準が、審査員たちの多数決により撤廃され「漫才の定義」が拡張されたのが2020年だっただけです。「これは漫才ではない」論者の人たちは近年のお笑いを見過ごし、元々はフィクションであった「お笑いの点数制」をリアルと信じてしまい、それを擬制する審査員たちの存在を忘れてしまった。審査員たちは毎年苦しみながら審査基準を脳内でアップデートしていき、今年ついにそれが大幅に閾値を超えた、ということに過ぎない。だからお笑いをきちんと見てきたファンには「これは漫才じゃない」論者が見当たらない、それだけのことだと思います。

ではなぜ「漫才の定義」論者は架空の審査基準の檻に10年間取り残されてしまったのか。巨匠のしてきた仕事の歴史にヒントがあります。

巨匠は元々は既存のお笑いの壊し屋でした。すぐに自身の城を持ち、映像作品やストイックな大喜利番組など、実験で人々を魅了しました。「破壊者」から「先駆者」へ。才能があり過ぎて年齢の割に早く「大御所」になってしまった巨匠の次の仕事は「場作り」になりました。カジノ風のテーブルで話芸のみを戦わせたり、大喜利をお互いに秒単位で採点し合わせたり、R-指定も厭わない場で本気の笑かせ勝負をさせたり。彼はゲームメイカーとしても天才的でした。そこに常にあるのは「勝負」と「点数化」でした

巨匠のコンビがつくる笑いは当時「差別の笑い」と言われました。人を差別して嘲笑う笑いということではなく、客を「わかるやつ」「わからないやつ」に二分するという差別として機能するくらい尖ったハイセンスな笑い、という意味です。でも、天才は孤独でした。「場作り」の際には、どんな人にでもわかりやすい設計が必要になります。巨匠とその周りの限られた人だけ理解できていれば勝手に憧れてもらえる立場ではなくなり、場の監督者・紹介者としてのホスピタリティが必要になってしまった。数字なら、最も感性の鈍い人でも審査員気分になれる。それは島田紳助さんが巨匠と一緒に立ち上げたM-1カルチャーそのものでした。当初は擬制、洒落でもあった点数制がだんだん洒落じゃ無くなる恐怖。2020大会でかつてのおぎやはぎさんの点数をつけられる芸人さんがいたら、果たして当時と同じ空気だったでしょうか。

島田紳助さんが「芸人を諦めさせる」ために作った大会。数字で点数を入れるのが完璧で面白い方法なわけはないけど、とりあえずそれでスタートした大会。その暫定システムがアップデートされないまま20年が経ち、「ガチ化」と「多様化」が同時進行してしまった。いろんな漫才師がいるね!みんな違ってみんないい!だと締まらないのでどんどんスポーツ的に煽る、熱い大会になる。

巨匠は大会の前日、

「あの空間において誰よりも笑いをとった者が正義となります。」

とつぶやきました。大会の運営者として正しい言葉だと思いますが、私は「応援している芸人さんに『正義になってほしい』とは思ったことはないな…」と思いました。「むしろお笑いって、日常では許されない不正義を表現する場じゃないのかなあ」と。もちろん巨匠はそんなことはきっと百も承知の上で敢えて書いています。でも、ここに私が賞レース、特にM-1に違和感を持ちながらもついつい観てしまう自己矛盾の核心があります。

和牛さんが後ろで悲しそうな顔をしているのを見て、意味がわからなくなった苦しい気持ちをよく覚えています。

巨匠がルールを作ってきたお笑い空間は、文化の発展に当たり前に備わっているべき「①多様化」と、それを一般の人にも届けるための工夫だった「②競争化」が2軸として走っていましたが、結果的に目に見えやすい②だけを認識し、①を見逃す人を多く生み出した。それが今回の「これは漫才じゃない」論を生んだ思います。

今回の王者、マヂカルラブリーさんについての思い出があります。


これ、実際は「お笑いに、順位はねえ!」だったそうです。

本来は順位がないものに順位をつけている、ということ。

そこが面白いところでも辛いところでもある。その矛盾が大会の魅力かなと思っています。




文章を書くと肩が凝る。肩が凝ると血流が遅れる。血流が遅れると脳が遅れる。脳が遅れると文字も遅れる。そんな時に、整体かサウナに行ければ、全てが加速する。