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テラスハウスが大好きだった

訃報。指先を動かせば情報は出てくるので、ここでは詳述しません。

はじめに断っておくと、この記事では故人を悼む文脈でのセンチメンタルな話はしません。
それは彼女のキャラクターを理解していた身近な人か、彼女のことを時間とお金を割いて応援していた本当のファンがやるべきことだと思います。
門外漢による安易な感傷消費は問題を矮小化し、本質を見えにくくしてしまいます。
私は番組自体の長いファンという立場から、なぜこんな不幸な事件が起きたのかを考えるだけです。
※訃報の第一報が出た段階で書いていますが、想定されてる因果関係の有無によって私の主張は変わりません。花さんの動機が別のものであったとしてもネットリンチの許されなさは変わりません。
※前述の意図の通り、あえてドライに書いている箇所があります。テラスハウス当事者に近い方は不快に思われる可能性があります。



テラスハウスを取り巻く環境はいつから地獄になったのか

「テラスハウス」という番組が大好きだった。

毎話、本編と副音声を繰り返し観て、シーズンが終わるたびにロスに陥った。卒業したメンバーのSNSアカウントももれなくフォローし、華やかに活躍している人も、堅実な日常に帰っていく人も、どうやら番組に出たことでおかしな方向に進んでしまっている人も、とにかくみんな幸せになって欲しいと願って日々眺めた。同世代のキラキラした若者の日常を覗き見れることへの興奮もさることながら、恋愛だけでなくハウス外での仕事における挑戦や挫折が描かれる点が魅力だなあと思ってぼんやり観ていた。

だから私は今でも、リアリティーショーという形式そのものに罪があるとは思えない。あくまで構造の整備と視聴者のリテラシーに問題がある、という立場だ。

番組を遡ってシーズンごとに比較したわけではないし、当時のSNSの様子を定量的に調べることもできないので断言は難しいが、ある時期から(個人的な肌感覚では、軽井沢編の後編あたりから特に)出演者の性格に問題があると言いたげなネガティブ描写がしつこくなった。

それはスタジオメンバーへの「餌」のように悪口を増やさせ、一流タレントの「話芸」を真似してただの罵詈雑言を撒き散らす素人たちを爆増させた。

(軽井沢より前にも性格悪い系の描写はあったが、あくまでハウスの設定内の不機嫌描写だった。1度ハウスの設定の虚実を破ってしまった回があったが、若い男女の過ちとして短く処理された。軽井沢の後半の泥沼は、虚実のズレを過去に渡って大幅に破るものであり、アンチの想像力を刺激する威力が桁違いだった。)

番組演出の変化自体はマンネリを防ぐためにも、時に必要だ。しかし、ここに大小2つのバッドタイミングが重なった。

大きなバッドタイミングは、ネットリテラシーの国民的低下だ。
これも統計的に説明するのは難しいが、Twitter、Instagram、Youtubeなどのコメント欄の荒れ方は加速の一途を辿っている。
原因の一つは、ゼロ年代には掲示板文化の中であくまで閉鎖的に飛び交っていた罵詈雑言が、悪意ない表現者のいる(が、メインのはずの)プラットフォームに放たれたことだ。2ちゃんねるでは基本的には独立したコメントだったものが、特にTwitterではアカウントに紐付き「有名な奴らに暴言を投げつける自分」という歪んだ自意識を育てている例が多い。
もう一つは、ゼロ年代後半以降に産まれたスマホネイティブたちのネットリテラシー教育が絶望的に不十分だったこと。自由にコメントできるネット空間では、ユーザーの年齢層が低い場ほど悪質なコメントが多いことは自明だ。

2ちゃんねる的な言語感覚の大人たち」と「常識より先にスマホを身につけてしまった子供たち」がのそのそと明るいネット空間に這い出してきたのが2010年代後半だった。

小さなバッドタイミングは「チュートリアル徳井さんの謹慎」だ。
これは最近の私のツイート。

この手の批判を番組が察知していないはずもなく、スタジオのコメントが緩む時もあったが、大きな流れは変わらず。  


なぜ知らない人の人格否定をしてはいけないのか

自分は一応芸能界の人間だ。人の縁に恵まれて、デビュー1年目にゴールデン番組に毎週のように出させてもらえた。
テレビカメラの前では仲の良い仲間内や自分のキャラが浸透しているライブと同じような振る舞いが当然一切通用せず、思った通りに映らない。緊張していたら「無表情」と言われ、努めてリラックスしたら「感じ悪い」と言われた。自分の一挙手一投足が裏目に出る。スタッフさんからわざと過剰な毒舌コメントを言うように指示され、その通りにして誹謗中傷を受けたこともあった。

カメラに映るってすごいことなんだなあ、と思った。その頃からリアリティー番組を見る私の目には尊敬のフィルターがかかった。彼ら、彼女らが観られたい通りに映っているわけがない。数十時間にわたる自分の1週間が数十分に編集されることの恐怖。自分はこうじゃないんだ、なんでこんなことをしてしまったんだろう、という後悔。そんな反省をした数ヶ月後に、警察気取りの匿名アカウントから人格否定の刃が飛んで来る。(自分は集団行動ができない上に生活力もないし気圧によって体調の上下が激しいので、もし入居したら私の不可解行動がクローズアップされすぎて他のメンバーがほとんど映らないだろうと思っている。)

沢山の有名人たちが「画面の向こうに人間がいることを想像しよう」と呼び掛けている。
正しい発信だと思う。
でも、もうそういう時代じゃないとも思う。
正しいが、それで変わるわけがない。
私はゼロ年代に小学生だったが、その頃学校で既にそういう教育を受けていた。
みんな、そんな文言は耳にタコができるほど聞いている。ネットリンチ犯たちは、わかった上でやっている。わかっててやっているような者たちの一部が改心しても、確実にそれを上回るスピードで未教育スマホネイティブの子供達が育ってくる。  



テロリストだらけの街で無警備員の舞台をやっている

何もネットを使う世代の口が急に悪くなったわけじゃない。
昔からテレビを観ながらお茶の間でみんな悪口は言っていた。
でもそれが掲示板になり、タイムラインになり、本人へのリプライやDMになった。

今のテレビとSNSの関係は、銃が無料で配布されている街で、警備員不在の中で舞台公演をやっているようなものだ。客席に隠し持たれる銃の数は増えているのに、セキュリティはアップグレードされていない。個人のSNS禁止のアイドルグループなど、誹謗中傷ケアの成功例はあるが、それも長く苦しいアイドル史の結果紡がれた策であり、プロスポーツ選手の所属団体にそんな手を講じる余裕があったかは疑問だ。



じゃあ、SNSをやめれば良かったのに、とあたかも名案を思いついたみたいに言う人もいる。

やめられるなら、やめてたでしょう。

でも競技の認知度を上げるために業界の期待を背負って出演している彼女が、幼い頃からプロレス一筋でやってきた彼女が、おいそれとファン開拓に有効なツールをやめられるだろうか。
その「名案」にはそんな迷いへの想像力はカケラもない。  

「リアリティ番組に出るのは誹謗中傷を受けることだ。わかって出たんだから自己責任だ」。
そんなことを言う愚か者には「露出の多い服を着ているから性犯罪に遭うんだ」論のおぞましさを教えたいだけだ。さらに「有名税」なるものを掲げて食い下がってきたら、メディア出演1回当たりのメリットはギャラ的にも仕事の広がり的にもほとんどの業界で激減していることを伝えたい。
昔から悪役を演じた俳優が視聴者から嫌がらせをされたという話はよくあるが、今は向けられる刃の数が比べ物にならない。「有名税」などというどこかで聞いてきただけの、今やほとんど実体のない言葉を使う議論に価値はない。  


「スルースキル」という都合の良い幻想

大きな番組は強者が作っている。

「今は辛いけど、この番組に出ていることが将来に繋がるかもしれない」という気持ちで「使われる者」は出演する。

彼らを迎えるホストはとっくに勝った「強者たち」だ。「下積み時代はそういうこともある」「俺らだって叩かれてることもある」。スタジオメンバーが多少そう寄り添ったところで、レギュラー仕事の数も違えば単価も将来の安定も違う。軽井沢編、ネットでの批判に挫けて進路を変えた住人をスタジオから「勿体無い」と諭す一幕があったが、それはあくまでスルースキルの重要性を説く論理で、アンチそのものが絶対悪だ、という話にはならなかった。「スルースキル」という言葉は便利だが、生存性バイアスのかかりまくった歪んだ言葉である。「スキル」というのは磨いて身に着ける物だが、この「スルースキル」というのは結果的にサヴァイブした(売れた)人たちが持っていた物、磨けた物であり、磨けずに精神を壊した人間を顧みる視点はない。そしてあろうことか、結果的に病んでしまった人に「弱かった」という烙印を押す危険な論理だ。その論理を素人が借用し、アンチに反応した有名人に対し「煽り耐性なさすぎww」と揶揄するという地獄ループが起きる。自身がした中傷は「煽り」という悪意のなさそうなネーミングにし、それへの「耐性」がない方が悪いという雰囲気を醸す、卑怯なすり替えだ。

強者たちがスルースキルを称揚するのではなく、番組冒頭で「台本は一切ございません」に続いて出演者への誹謗中傷の自粛を呼び掛け、山里さんが「俺とお前たちは違うんだぞ」と画面のこちらに檄を飛ばすくだりは、ありえなかったのか



SNSは人類には早すぎた

では、この地獄は終わらないのか。
はたまた、エンタメを縮小するしかないのか。

私は現状では人間の良心に期待するのは得策ではないと思う。
・生きてきた中で「人間関係におけるぶつかり合いでない状況で、匿名で他人を人格否定してはいけない」ということを何度も何度も耳にしたことがあるはずだ、ということ。
・その上で「敢えて」書き込んでいるということ。
そして極め付けは、
・書き込んでしまった後、何度でも撤回するタイミングはあったのにそれをしない、ということだ。
誹謗中傷コメントを書き込んでから後悔して「すみません、つい〜と書き込んでしまった者です。反省しています」云々のDMを送ったことのある者がどれだけいるのか。

法的な規制が理想だ。


刃物も銃も車も麻薬も、時に便利で楽しいが、「人を殺し得る」という共通点があるため、法律とセットでなくては社会にあり得ない。「SNS」も全く同じだ。


この場合、「前科」をつけるのはネットリンチ犯への人格的なジャッジではない。

車の事故を起こしてしまった人は人格者でも免許が止まる。
薬物に依存してしまった人は人格者でも捕まり、更生施設に入る。
同じく、ネットの使い方を邪悪な形で間違えてしまった人は、ネットに向いてない(本人の受けるべき便益より社会に与える危険の方が大きい)ので、一旦ネットから隔離します、という理屈だ。免許を止められたら移動が不便になるように、発信したいことがある時に1人では書き込めなくなるだけだ。相応の罰ではないだろうか。

残念ながら今も行われているが、当然ながら、ネットリンチ犯を特定して晒してネットリンチするのは、全く笑えないブラックジョークのような愚行だ。だが「そういうことをした人」として実社会で認知される必要はある。「有名人に人格否定・誹謗中傷コメントを送ること」が無邪気に無料でお手軽なストレス発散方法」もっと言えば「趣味・娯楽」として普及つつある地獄に我々は生きている。「それは犯罪だよ」だけでなく「治療しなきゃいけないよ」と社会が直接教えてあげないといけない。

長らく自分は「ネットで匿名で悪口書く奴はダサい」「時間を無駄にしてるかわいそうな人たち」と捉えることでなんとか溜飲を下げてきたが、それはまずいと思い至った。彼らの主観にとって無駄ではないのなら正当化されてしまうし、ごく一部だが「人を傷つける」ことにヒロイックな憧れを持つ人間というのはいて、彼らには「ダサい」という論理は通用しない。想像もしたくないが「弱そうな有名人を自殺に追い込もう」という動機さえ与えかねない。  

そしてもっと想像したくないが確実なことは、今回の彼女の死は今でこそ衝撃的だが、ネットリンチ犯やその予備軍たちにとってはすぐに風化する出来事だということだ。喪失を社会変革のきっかけにするとは思いたくないが、実際に、人の命が喪われるまで動かなかった愚鈍な社会がそれをきっかけに動いたという事例は世界史を紐解くと結構ある。とっくに地獄になっていた社会の問題点を整理してルール構築をするのは一刻も早くなければいけない、というだけの話だ。



終わりに①

花さんは素敵な人だった、惜しい人を亡くした、というのは別の話だと思ったので意識的に本文から除きました。他の歴代テラスハウス出演者と同様に木村花さんのことをとても魅力的な人物だと思っていますし、一視聴者として愛していました。これからもそれは変わりません。  

終わりに②

考えが足りない、表現が不適切だと思ったら加筆修正します。

追記①

お陰様で沢山の人に読んで頂いています。結果、文脈をわかっていない人からの批判コメントやDMも多く来るのですが「リアリティーショーという形式が問題に決まってるだろ」という批判には断固反対です。定義的には、ドキュメンタリーの要素があり、半分ドラマのようにも観れる番組のことです。「クィア・アイ」「はじめてのおつかい」もリアリティーショーですよ。本当に規制すべきでしょうか?

追記②

この記事を公開した後に考えたことも追加してYoutubeで話しました。文字で読んだだけではよくわからなかった、という方はこっちを聴いてみてください。

動画①


動画②

ABEMA Prime出演後に考えたこと。


文章を書くと肩が凝る。肩が凝ると血流が遅れる。血流が遅れると脳が遅れる。脳が遅れると文字も遅れる。そんな時に、整体かサウナに行ければ、全てが加速する。