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温泉街の朝

 旅先の古旅館から一歩、アスファルトの側道へ足を進める。下駄の乾いた音色と冷えた空気が特別感を演出する。ビンテージ調に細工された小川の欄干も、自動販売機も全てが新鮮に感じ、創作意欲を掻き立てる。風呂桶を片手に上気な紳士も、通りすがりのつがいも全てが愛おしく見えてくる。それはこの土地にしがらみがないから、生じる感情だろう。


 旅とは、その土地に縁がないからこそ、その非日常感が全ての感情を上回る。それは出張や帰省とは本質的に大きく異なる。そして、旅は同じ土地に2度目以降、訪れる頃、当人・土地共に相互的に既に土着的である。しかし、またその土地に住むとなると、話は別になり、当初はレジャー感覚でその土地に住み、離れるときにしがらみがあったことに、初めて本来的に気付くのだ。住み慣れる、という感覚は忘却と同義であり、一種の視野狭窄である。しかし、そんな御託を並べても、結局は旅自体をコンテンツとして、捉えている訳でその事実自体に嫌悪感を覚えることもある。


 小川のせせらぎ。初夏の季語かと勝手に思っていたが、冬の始まりにもそれは当てはまるらしい。わざとらしくあてがわれたベンチに腰掛け、もの思いに耽る。自身を取り巻く環境が大きく変わると、勤務地移動とは別に旅がしたくなる。それは単に都会的環境に未練があるとか安直な理由もあるが、なにより非日常あるいは祭りを求めている。


 物事が上手く進むときにも、「死」は十字架のように背後に聳え立つ。いや、むしろ虚無感に苛まれるのは、充実している時である。兎に角も死にたい、との感情が全ての感情を優先するのは、健全では全くないのだろう。しかし、いくら紛い物で気を紛らしたところで、核は変わらず、何時年貢の納め時が来るのだろう、と悲観的かつ露悪的な期待感に身を置いている。


 思うに、物事が上手くいく、あるいは充実しているタイミングはクラシック演奏会の名曲路線に似通るところがある。起承転結が明晰で、多くのヒトの耳に馴染んだ、所謂珠玉の作品達である。しかし、一過性の集客を目的とした名曲路線は常連の観客、演奏者双方に不幸である。音楽作品に終わり不可欠であるのと同様に、ヒトの一生に「死」は不可欠であることを、本来は何時片時も忘れてはならない、と改めて思う次第である。


 そして、そんな心中を察して欲しくも、触れてほしくもないという非常に微妙で繊細かつ面倒な心理的障壁を持つ、小生のことをどんなヒトが棺桶に入れてくれるだろう、とふと思う。実存論的な視点で語る訳ではないが、生も死もはたまた存在も一人では成り得ない。そして、それは婚姻関係と同義である、と混同してはならない。改めての自戒である。


 朝食を終える時刻になると、流石観光地。足音の数が輪舞の如く、うんざりと鳴り響く。さて、そろそろお暇しなくては。モーツァルトではないが、人生と音楽に旅は不可欠である。

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