神聖不可侵のもの

 「ねぇ、一緒に死なない?」
 そんな台詞で始まった私達の関係は、お互いに居心地が良く、適度な干渉と刺激に富んだ日常を二人に提供していたと、思う。しかし、始まりの言葉を私は何処か冗談と思っていたのだ。まさか、彼が本当に首を括るとは考えてもみなかった。私自身が思春期に閉鎖病棟へと連れ込まれたその経験が悪く出たのだろうか。もっとも他人の一生に責任を持てるほど、厚顔無恥な人物ではないと自己評価している。しかし、この奇妙な浮遊感は何であろう。

 カラカラに晴れた新天地の青空の下、夏日の気候は花と草木の生き生きとした生態を産み出す。祭りのような初夏が曇天の心持ちを更に重くする。私は滅入っているのだろうか。最近どんな匂いもあの病院生活を思い出すのだ。この上、あの回覧でキュッと廊下に鳴り響く甲高い不協和音。そこまで連想出来たら、立派な精神病に逆戻りである。これは彼からの悪戯なのか、私にはもう分からない。
 
 人は花が好きだという先入観に囚われているのだろうか。もっとも幼年期の男児が花を好む、というのは珍しい気がするが、それも時代や環境により変化するのだろう。事実、花屋で働く人達は男性が多い。力仕事というよりセンスが優れているそうだ。パティシエにも同じことが言えるのだろう。何が言いたいかというと、先入観とは滑稽なもので、花を愛でるヒトは本質的に蜜を欲する虫達と、本質的に何ら変わりないではないか、ということである。両者の相違点は知能の差異であろうか、私には分からない。
 
 個人にとってこれだけは譲れない、という事柄は誰しも多少持っているのだろう。それが自己にとって占める割合が大きければ、「神聖不可侵」のものである。つまり矜持とか拘りなどが該当する。私にとって不可侵のものとは何であるか。時間とは何か、死とは何か。その定義付けのライフワークである。これを侵されることは耐え難い苦痛である。そして精神的・時間的な余裕が無い時に自分のアイデンティティを再確認する行為はありきたりだが、真理でもある。一方で、大日本帝国が敗戦によりエンペラーが神聖不可侵から象徴に鞍替えしたのと同じく、状況や心境の変化によりその定義は移り行く。まさに「悲劇的」だ。

 彼がこの世から姿を消して、その存在の大きさに気付くとは私も間抜けな人物だと、思う。友人の葬式に出てみたい、などと腑抜けた文章を書いたから、そうなったのだろうか。偶然だとしても、あの日心の内を開けて、涙を流した彼の姿を見て、あの頃の自分の方が苦しかったなどと、優越感が心の何処かに潜んでいたのではないか。彼のことを何処か見下していたのではないか。彼は死ぬことで私にとっての英雄になってしまった。それが不幸であるのか、十字架なのか、それはこの先の人生で分かるのかも知れない。もっとも人生半ば、などと腑抜けたことをぬかす気はない。一生の分数計算など死ぬまで確定できないのだから。

 最近は何事もその根が同じように感じ、些か退屈に感じ、諸々のことから距離を置きたくなるのだ。これは潔癖症なのか、あるいは何事にも本気ではない、傍観者的な態度に起因するものなのか。飽き性であるのは確かで、幼少期からの悪癖が抜けないところを見ると、私にも愛嬌があるな、と感じる次第である。生粋の浮気癖というワケで、かといって生身の恋模様に現を抜かす訳では無い、その分タチが悪いとも言える。しかし最も宜しくないのは自分が特別であると思い込むことであり、それは客観という物の怪の所業であるに違いない。

 時折、生きているのか、死んでいるのか区別が付かない時がある。フワフワとした時を過ごすのは悪くないが、若干の焦燥感を覚えることもある。しかし、全ては心臓の脈動が止まれば終焉であり、それは「喜劇的」でもあろう。

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