精神的な病


 とある朝、仕事場に足を運ぶため、寝床から身体をいつも通り動かす。だが、次の動作に力が入らない。物心両面、疲労の蓄積か、職場に当欠の連絡を入れる。それだけの気力はまだ身体に残っているらしい。最後の力を振り絞って、とまではいかずも、中々骨の折れる作業であった。ありきたりの心配事を、言葉として掛けられる。ありきたりだが、その言葉が無いよりは救われるのだろう。
 
 再び床に就き、眼を覚ますと自宅前の花園に蝶が舞っていた。いつもは聞き流してしまう、鳥のさえずりも何処か新鮮な響きに聞こえてくる。グラデーションに満ちた目覚めである。精神的な綻びは周囲の情報をいつもと違う角度で私自身に伝える効果があるらしい。ベーコンをぶつ切りに、卵を一玉割り、質素と思われる昼食を作る。効果があるのか分からない古びた換気扇が、轟音を立てながら仕事をしているフリをする。テーブルに置いた香炉から梅の上品な香りが漂う。日常で、ふと綻びが生じるのは思い返せば随分久しぶりな気がした。

 自分都合の綻びが生じるタイミングはそう多くはない。それは青春時代の残り香を追いかけているのか、自身を薔薇色の自己肯定に満ちたものにしようとしているのか、判断に余るが、外的環境、限界状況に起因する要因でないことは確かである。あくまで自身のアイデンティティの喪失・忘失が身体的な不都合に繋がった、ただそれだけのことである。
 
 何もない、というには諸々あるに過ぎるこの街で、気に食わないことは自動車の交通量が多いことである。風の機敏を感じていると、文明の利器がそれを中断するのだ。自身の綻びが大きい時には特にそれを感じる。白痴の集まりである。
 
 平日の昼過ぎに街を歩くと、あの保健室通いをした高校時代を思い出す。ジリっとした通学路に、不健全な清潔さの保険室。何処か懐かしさすら感じる。青春を美化する訳では無いが、やはり自分の実在に大きなパーセンテージを占めている、と思い直す。
 
 退勤後、海岸線に腰掛け、地平線を眺める。晴れた日にはお決まりのルーティン、仕事終わりに生と死を実感出来るため息のような行為である。この日は晴れ切らない微妙な天気であったが、それもまた一興である。
海を1年眺めて感じたこと、それは季節によって匂いが異なる、ということである。日本海の機嫌の変化は見ていて飽きない、それは太平洋の港町と大きく異なるのだ。夏も冬も哀愁一緒くたでない点がまた面白い。
 
 今日の海は普段より血清のような青さが目立った。光の加減によって重油のようなまったりの印象も、あるいは青春のような軽やかさも感じるから、海は懐が深いと感じる次第である。
 
 外連味のない、無垢な地平線を眺めるとその向こう側に飛んでいきたい、と思う。これは単に向こう側の大陸に行きたい訳では勿論ない。彼岸のような、毎日が盆暮れの地平線。その向こう側への渇望は生を育むものにとって、不可避の欲求である。すなわち死、即物的な死ではない、生と死が一体化したような地平、涅槃への飽くなき欲求である。

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