安眠枕とローカルマナー

 実存主義や厭世主義という言葉が、一般受けしない時代になってから一体何年が経ったのだろうか。もっとも私は歴史の生き証人でもないし、肩書きのあるプロの評論家ではない。生と死の区別がつかない、自意識過剰な社会人一年生である。そして、世の中は「哲学」という言葉を、偉人の生きる「道」として有難く頂戴する思潮で充ち溢れている。もっとも「哲学」なぞ、必要なヒトにだけ効果のある処方箋としての役割が似合っているのかも知れない。私も所謂人生の転機を迎えるまでは、哲学に見向きもしなかったのだ、他人を見下す権利などない。誰しも転機を迎える時頃には「救い」が欲しいのだ。それが睡眠導入剤であったり、宗教であったり、あるいは死であるかもしれない。どれも当人にとって「安眠枕」のような存在である。
 

 しかし、私の敬愛するM.ハイデガーは著書「思惟とは何の謂れか」でこう語る。
―――(ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」より「あらゆる人びとのための、そして何びとのためでもない一冊の書」という標題を引き合いに出し)
もっぱら、この書の諸断片や諸命題に陶酔し、盲目的にこの書の言葉のなかをよろめき回るに過ぎないような現存している人間たちのうちの何びとのためでもない、ということである―――

 
 実に耳の痛い言葉である。まさに「ニーチェの名言」のような自己啓発本を嫌悪する所以はここにある。そして自分だけは違うと思っていながら、自分もその一味であったことに精神的苦痛を感じるのである。

 
 いつの間にか自身の哲学的問題について没頭することがなくなり、他人の能書きばかり自分の生き様に影響を与えるようになってしまった。これが大人になる、ということなのか、感受性が失われていくことなのか、現時点で私には分かりようも無いのだ。しかし、没頭する行為は盲信する行為と本質的な部分で類似していると感じる。その意味では哲学とは当人以外の誰にも成し得ない崇高な学問であろう。或る意味で究極の「ローカルマナー」であるのだ。

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