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キンモクセイのおかげ

在宅勤務も長くなった9月末のある朝、リビンクの隅のデスクにつくと、妙にいい匂いがする。
もしやと思って外に出ると、キンモクセイの花がこんもりと咲いていた。

窓も開けず家にいるのに香るなんて。
換気扇から入ってくるんだろうか?
甘い香りが嬉しくて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

Twitterのトレンドにも「キンモクセイ」が入っていたから、東京、いや関東、もしかすると本州で一斉に咲いたんだろう。

ここ数日涼しくなってきたし、いよいよ本格的に秋がやってくる合図のようだ。
例年なら通勤に外に出たときに気づいたものだ。家の中まで香ってくると気づいたのは初めてだった。

毎日外に出ていた例年は、一体どうやって秋を感じていたんだろう?
肌寒さでも、落ち葉でもなく、キンモクセイの香りだったろうか?
そうではないとしたら、今年のキンモクセイはどうしてこんなに印象的なんだろう?

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香りを嗅ぐこと、それは特別な感覚だと思う。

「昔はクラシックの名演と言われるものは、なけなしの小遣いをはたいてレコードで買ったものだけど、今はなんでもAppleMusicで聴けていいね」
先月会った親戚がそう言っていた。
聴覚で楽しむ音も、視覚で楽しむ画像や映像も、今やデータでコピーを手に入れればPCやスマホで気軽に"再生"できる。

香りはどうだろう?
「昔は名香と言われるものは、なけなしの小遣いをはたいて瓶で買ったものだけど、今はなんでも嗅げるサービスがあっていいね」
そんな日が果たして来るのだろうか。

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私たちが何かの香りを嗅ぐとき、その香りを放つものは近くにいる。(もしくは、いた)
香りはコピーができないから、存在の証拠になってくれるのだ。

香りと存在の関係について、とても端的に表現した短歌がある。

春の夜の闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる

『古今和歌集』(春の夜の闇は無意味だ。梅の花の色が見えなくなってしまうが、その素晴らしい香りだけは隠れようもない)

とらやの羊羹「夜の梅」の名前の元となった歌だ。(現代語訳はとらやの商品ページから引用した)

直接言及されていないが、御簾のむこうの姿が見えない香を焚き染めた女性の存在を連想させる。
闇の中では梅の花は見えないし、彼女の姿も見えないけれど。
確か「いる」のだ。
家の中まで香ってきたキンモクセイのように。

図書館や古本屋の本の香り(神保町を歩いてみよう)
湿った土の香り(実家の日当たりの悪い庭)
親しい誰かの、シャンプーや柔軟剤と体臭の混ざった香り。
目で見ても存在はわかるけれど、香りは裏付けを与えてくれる。

キンモクセイの香りは、キンモクセイの木の存在の裏付けであり、そこから飛躍して、秋という季節の存在の裏付けでもある。
秋はたしかにやってきたのだ。

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思えば今年は散々だった。
春のお花見も、夏の花火も密だから中止。風物詩と言われるものにアクセスできなくなった。
代わりに家に引きこもってモニターを見つめて、視覚と聴覚ばかり酷使してここまでなんとか乗り切ってきた。

そんな2020年の9月末、キンモクセイの香りが押し寄せた。
今年の4月以降、こんなに季節を感じるイベントがあっただろうか?
この香りを、国も東京都も決して規制することはない。

アフターコロナだかニューノーマルだか知らないけれど、人間の混乱とは無関係に季節はめぐっていく。
置いていかれないように、私はあわてて衣替えを始めるのだった。

いつか猫を飼う時の資金にさせていただきます