見出し画像

無垢

一生懸命だと知恵が出る。
中途半端だと愚痴が出る。
いい加減だと言い訳が出る。

9年前の冬。母校の中学校で誰かがでっかく書き初めで書いていた言葉。
中3の子だった。
きっとこの子はこの言葉で受験に向かっていたんじゃないかな。
名前も顔も知らないその子は今、どんな大人になっているんだろう。

私は、人の弱さに、脆い。
それに触れた時に、私も弱くなるし、噛み付いてしまうし、でも無下にもできない。

弱さと願いが表裏一体だと知っているから。
そして、綺麗なものが私は好きだから。

妬みは、もとは羨ましいとか、憧れとか、そういうものだったりする。
妬みは、そこから誰かを負かしたり、何かを奪ったり、そういうでっかいエネルギーになりやすい。そしてそれは周りを巻き込むし、でも効果は短くて、最後は誰かが傷つく。もとは、そんなものではなかったはずなのに。人はそれを悲劇と呼ぶのかもしれない。

それぞれが、大義とか正義を持っている。
もともと、混沌としているものなんだ。

でも、その中で、やっぱり、人は綺麗なものが好きなんじゃないか?
必死で、その欠片を探すんじゃないか?
足掻きながら。踠きながら。

だから希望とか勇気とか、
そういうものを分けてくれる曲を聴いたり、映画を観たりすることを
私たちはするんじゃないか?

私が今まで無理だと諦めていたのは、
そういう綺麗なものを一緒に綺麗だね、って。
雲の隙間から見える虹を見つけたときの、宝物見つけたみたいな気持ちを、一緒に味わいたい。

そういうあったかい中にいたい。そして、私の大事にしたい人たちが、そういう中に居てほしい。

だから、弱さを、妬みとか、そういうモンスターみたいなものにして暴れて終わりにしないで。
それが生まれた元の種は、もっと、きっと、綺麗で素敵な欠片で。

わかる。
その欠片を1人で大事にするのは、怖いよね。
いろんなもので自分を守りたくなるよね。でも、そうすると自分が持っていた欠片が見えなくなる。

だから、その怖さを抱えながらも前に進もうとする人を、ほっとけない。
その欠片にまだ名前をこれからつけようとする人たちの近くにいたくて、私はその瞬間に居られることを喜びにしたい。

だから、コーチングと先生を手放せないんだなあ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?