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葦会#04 福岡伸一「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」

第4回葦会が5月27日に開かれてからほぼ4ヶ月が経った。その記憶は相当に朧気なものとなった。今回テーマに選んだ本によれば、数ヶ月経てば人を構成している分子がすべて入れ替わってしまうという。すなわち葦会の日の自分と、この文章を書いている自分は全く別の物体だけれど、流動的ながらも平衡を保つシステムをもっているため同じ自分だと認識できている。

「葦会」について

この葦会という会は、1〜数ヶ月に一回、毎回参加者の誰かが選んだ本を事前に各々で読んでおき、調べたことや考えたことを5分程度の時間で数枚のスライドを発表する。それらの発表をきっかけとして、その本をより理解するための議論をしたり、自身等の状況に関連づけて考えられること話し合ったりする。そして別の参加者の誰かがこのようにnoteに記録する。これまで約7ヶ月の間に5回行っており、それぞれ建築学、倫理学、文化人類学、生物学、都市計画学の分野から選んだ書籍を題材として扱った。これらの分野の中には会に参加している者の専門もあるがそうでないものある。

そろそろ、本稿の本来の目的でである第4回葦会の記録を書きたい。しかし、先にも書いたように時間が経っていてほとんど覚えていない。覚えてなくても音声記録も、各参加者が発表に用いたスライドデータもあるのだから見れば良いのだが、まだ見ていない。見なかった理由は一応あり、(自身の怠惰のせいであるが)会の開催からこれだけ時間が経ってしまったのだから、せっかくならば忘れてしまったということをここに記録しておこうと思ったからだ。そうすることで、「すぐには」何にもならないことをやっていると改めて確認することができると思った。この葦会という会はそういう一見理解し難い、主旨と言うべきかも怪しいものを中心に据えて始まった、と参加者の一人としては認識している。

ここからは漸く、記録を確認し本書の内容というよりも、各参加者の発表から派生した話題をを中心に第4回葦会を記していく。(以下3名の参加者をそれぞれY・K・Nと表記する。)

伊勢神宮の式年遷宮

今回の本の選者であるKの発表より、伊勢神宮と動的平衡の関係について。

伊勢神宮が20年毎に新しい殿舎を隣の敷地に造り替えるという話は有名だが、旧殿舎を解体した際に出た資材を外宮の施設の修繕に利用したり、又新殿舎を建てるための材木もそれ用に周辺で育てておいた樹木から採るという。さらに20年という期間は殿舎建築のための技術を職人が習得する期間と重なっており、すなわち樹木の成長、伊勢神宮全体の施設管理サイクルそして技術伝承スパン等の合成により伊勢神宮を持続させ続けるシステムが構築されている。ここに見られるシステムはまさに動的平衡的であるというのがKの考えであった。

一方でNは事前に調べていたことから、著者が「一度に大きく入れ替える式年遷宮は動的平衡ではない」旨の言説を残していることを参照し、だがそれでも20年毎の再建築というものは人間的な時間感覚で見れば長い期間を置いて一気に変わっているように見えるが、もっと大きな時間感覚で見れば常に動いているのと同じ見えるかもしれないし、動的平衡を物理的な運動ではなく、そのシステムに本質があると見れば、これも一つの動的平衡ではないかという意見であった。

伊勢神宮

ふじようちえんの屋根の上における遊び方研究

同じくKは発表の中で、ふじようちえんの屋根の上における遊び方に関する研究を紹介した。

研究によると「ふじようちえんの園児は他の幼稚園に比較して一つの遊び時間が短く、又遊び相手も頻繁に変わる」という。加えて、ふじようちえんはいじめが少ないということもあるらしい。Kはここに動的平衡の概念を持ち込むと、この二つの事実の関係性に説明がつき、ひいては動的平衡と建築の関係を考えるきっかけになるのではないかと考えた。

一方で、Yの意見は動的平衡の概念が本書の中でもっているとされる「破壊と再生」のような対立的要素、パラドキシカルな関係性が現象の中に見出されることが必要なのではというものだった。

ただ、動的平衡という概念を持ち込めるかどうかは別として、この建築が社会的な平衡を保つための人間関係を培う力を養うことができるという優れた要素を備えていることは確かであり、そのことは動的平衡という概念と照らしたときに気づくことができたことから、動的平衡から色々なものを見つめてみるということは面白そうだという全員の一致はあった。

ふじようちえん

都市

次にNの発表より都市と動的平衡性について。

アーキグラムの「プラグ・イン・シティ」は一見、動的平衡の概念を体現しているように見えるが、それは結局パーツが入れ替わっているだけであり、著者が本書の中で生物と比較する「機械」の方にやはり近い。個々に提案される都市案というより、中心市街地等、経済原理によって持続しているそもそもの都市自体が動的平衡的である、また経済が衰退した村落などは動的平衡が保たれなくなってしまうというのがNの考えであった。

それに対し、Kは村落等の衰退していく田舎が動的平衡ではないという考えは、もっと広い視点に立てば見直されるのでないかという。都市における動的平衡を下支えしている原理が経済だとして、実質的な構成要素の一つを人間と考えると、例えば八女市星野村の人口は八女市中心部への流出により減少しているが、逆に星野村がもつ住環境を求める外部からの流入者は増加しているという。そのように、一つの市街地で語るのではなく、より広域で語ることにより、全体に動的平衡性が見出されるのではないかということであった。

また、Yは都市をそのような視点で見る場合、それらを生命として見ることができるか否かで判断すべきであるが、都市の中のそれぞれのハードが固有の時間をもっているために動的平衡の概念で語ることは難しいのではないかということであった。しかし、「都市」という語がどのような文脈においてどのような意味で使われているか、ということの変遷は生命的で面白いという意見もあった。

熊本市中心市街地

動的平衡の数理モデル

最後にYの発表より、動的平衡の数理モデルについて。このモデルは本書の新版に追加されたもので、合成と分解のバランスによりモデルにおける斜面を上りながら降りているという緊張を保つことがすなわち生命を維持しているということであることを意味しているという。

このモデルから、Kは「破壊という概念から考える建築」というものがあっても良いのではないかという意見を述べ、これまでの歴史においてそういった事例があるかということになり、それぞれから、万博における仮設パビリオン、床板と橋脚を固定しないことによりの洪水による崩壊を回避する京都木津川の「流れ橋」、本殿の波止めとしての役割を担っている厳島神社の回廊などが挙げれられた。

動的平衡の数理モデル

アナロジーとしての「動的平衡」

動的平衡という言葉は少なくとも本書の中では生物学的用語として用いられる。私たちは、会の中でこの言葉を自分等の専門領域に引き込み利用できる方法を議論した。ただ、しっくりとくる答には至らなかった。

今回に限らず何かのアイデアを出す際に、別の専門領域の概念を引き合いに考えるということは珍しくない。しかし、ここで気をつけなければいけないのは、その専門領域で用いられている語や概念を都合よく解釈し相手に聞こえの良い説明を行うために利用してはいないか、言葉を消費し使い捨てるようなことになっていないかということである。

もしアナロジーとして「動的平衡」という語を他分野に援用するのならば、そもそも他の分野に用いられている語を別の分野にもってくること自体が本来容易いものではないということを理解していなければならない。なぜならそのような行為はその分野に新しい概念を創造することであり、そんなことが簡単に行われるわけがないことは自明だからだ。「動的平衡」のように一見扱いやすく流用がしやすいものは特にそうだ。

そいうは言っても、このように他分野の概念を思考の段階でアイデアのきっかけとすることは楽しく、また確かに有用な場合もあるはずだ。即物的に概念や語を消費せず本質を理解しアイデアのきっかけとできる地点を探る。これからも種々の分野を扱うことになるだろうこの会においては忘れていはいけないことだと思った。そんなことをことを考えることができる良い会だった。

次回はSD選書シリーズより、C・ロウ/F・コッター著「コラージュ・シティ」。


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