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葦会#02 ティム・インゴルド , 工藤 晋 「ラインズ 線の文化史 」

第一回の投稿から、早3ヶ月。
なかなか筆が進んでいなかった「葦会」の議事をGWの時間を生かして重い腰をあげた筆者である。

投稿が遅くなった言い訳をすると
2月開催予定の会が諸事情により1ヶ月延期になり、
更に個人的な事由だが新生活への準備に思った以上に手間がかかってしまっていた。

そんな緩い構えや偶発的な出来事によって右往左往する様は「葦会」的であり、まさに今回輪読を行なった「ラインズ 線の文化史 」の総括ではないかと思う。

早速、以下に3月12日日曜の15:00から行われた「ラインズ 線の文化史 」の議事をまとめていく。

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はじめに書籍推薦の担当であったNより選書の大まかな要約について発表があった。
まず一瞥するとトピックが散在し、引用が多用された難読な本書の読み方について、著者の言葉を引用しつつ、読み込んでいく上でのマインドセットを提示した。
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現代の読書方法は、トピックを分解、再構成して読んでいくことで、まるで遥かな高みから見下ろすようにページを測量している。そういった読書方法では、本書が理想とする歩くように読書をするという願いは十分には叶えられない。
しかし難読な本書を理解していく上では、その手立て以外に自分達に持ち得る手段はないという断りを踏まえた上で書籍内の①トピック②図表を羅列して内容を共有する。

①トピック
※赤字で書いた部分は内容に関わる重要なキーワード

②図表
※赤枠が内容に関わる図としてピックアップしたもの

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それを踏まえて下記のように概要を重要な引用とともに章ごとにまとめていった。実際のスライドでは引用部は多くあったため、今回は筆者によって、一部抜粋を行なっている。

1章:言語・音楽・表記法

楽譜と記述物における認識の作用に違いについて

どの様な経緯で⾔語から⾳が取り去られたのか?

記述物は認識されるために「内に向かって」読まれ、楽譜は実演のために「外へ向かって」読まれる。

どのようにして本のページは声を失ったのか?

⾔葉が書かれるのではなく印刷されるとき、⽂字⽣産物からそれに技術的に影響を与える⾝体動作が断ち切られることによって、⾔葉はものに変わるのである。

ティム・インゴルド , 工藤 晋 「ラインズ 線の文化史 」 1章:言語・音楽・表記法

2章:軌跡・糸・表面

記述と織物の類比について

ラインがそこに在るためには、表⾯がなくてはならないのか?

⽷は軌跡に、軌跡は⽷に変形される。⽷が軌跡に変形されるときに表⾯が⽣成されるという点である。反対に、軌跡が⽷に変形されるときに表⾯は溶解する。

表⾯が⽷からつくられるとき、その織り合わされた表⾯上に形成されるラインは、すでに存在する表⾯上に引かれるラインとは現実にはまったく異なっている。

ティム・インゴルド , 工藤 晋 「ラインズ 線の文化史 」 2章:軌跡・糸・表面

3章:上に向かう・横断する・沿って進む

現代の生活者が都市の中でどのように生活しているかについて

⾃分のペースで⾃由に進⾏するラインは「散歩にでかける」。

そしてそれを読み取るとき、眼は、そのラインを引くときに⼿が辿った道と同じ道を追う。だがもうひとつのラインは先を急いでいる。

かつて運動と成⻑が多様に織り合わされた撚り⽷でできた結び⽬であった場所は、今や連結器による静的なネットワークの結節点になった。

結局のところ⽣命の⽣態学は、交点と連結器ではなく、⽷と軌跡の⽣態学でなければならない。

ティム・インゴルド , 工藤 晋 「ラインズ 線の文化史 」 3章:上に向かう・横断する・沿って進む

4章:系譜的ライン

系譜と系統の違いについて

⽣命は成⻑するのだろうか、それとも流れるのだろうか?

系統と系譜の違いは、そのラインで結ばれる⺠族の範囲、⺠族についての情報が得られる⽅法といったものにではなく、ラインそれ⾃体の性質にあるのではないだろうか?

⾎縁のラインは⽷でも軌跡でもなく、連結器なのである。

系譜図表のラインは、伝統的な系統のラインのように散歩にでかけることはない。

世界の住⼈として、⼈間であろうとなかろうとすべての⽣物は徒歩旅⾏者であり、徒歩旅⾏とはすでに完成された存在をひとつの位置から別の位置へと輸送することではなく、⾃⼰刷新ないし⽣成の運動である。

こうして⽣は地点ではなくラインに沿って⽣きられるものだという基本的⾒解に私たちは連れ戻される。

流れつつ成⻑する系統のラインは、点と点を結ぶ連結器によって駆逐された。
だがそれは完全に消滅したわけではない。

ティム・インゴルド , 工藤 晋 「ラインズ 線の文化史 」 4章:系譜的ライン

5章:線描・記述カリグラフィー

線描と記述について

どこまでが線描で、どこからが記述なのか?

記述はいまだに線描である。しかしそれは、描かれるものが表記法の要素を含む特別な線描なのである。

なぜ記述は線描よりも遥かに技術に近いものだと考えなければならないのか?

線描⾏為は⾃然ではない。

線状化の過程の本質とは、まさにこうした断⽚化と圧縮――〈運び〉の流れる動きの瞬間の連鎖への縮約――にある。完全に線状化されるとき、ラインはもはや⾝ぶりの軌跡ではなく点と点を連結する鎖となる。そうした連結のうちには⽣命も運動も存在しない。つまり、線状化とはラインの誕⽣ではなく死をしるしづけるのである。

ティム・インゴルド , 工藤 晋 「ラインズ 線の文化史 」 5章:線描・記述カリグラフィー

6章:直線になったライン

直線と曲線について

どのようにして、なぜ、ラインは直線になったのだろうか?

ガイドラインとプロットラインには⻑い歴史がある。その歴史とは、両者ともに、これから⽰すように、⽷が軌跡に変形していった歴史である。だがそれらの起源を探索すると、私たちはふたつのまったくかけ離れた源泉に導かれる。そのひとつは織る⾏為であり、もうひとつは⼟地計測である。

フリーハンドで描かれる曲がりくねったラインの⽅が、定規で引かれるラインに⽐べて、より⽣命感にあふれ現実的に⾒えるのはなぜだろうか?

実際の環境にある現実の縁はふたつの表⾯の接合によって形成されているからだ、というのがその理由のひとつであろう。

直線が近代性のイコンであるとすれば、断⽚化したラインはポストモダニティの強烈なイコンとして姿をあらわしつつあるかのようだ。それは徒歩旅⾏の曲がりくねったラインへの回帰ではない。徒歩旅⾏のラインが場所から場所へと前進していくのに対して、断⽚化されたポストモダンのラインは渡っていく。

ティム・インゴルド , 工藤 晋 「ラインズ 線の文化史 」 6章:直線になったライン

最後に本書の構成と内容について次のスライドのようにまとめている。

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少し脱線するが、そもそも今回の書籍選定のきっかけは以下のような経緯であった。
前回選書である篠原一男の『住宅論』という本は、単なる建築のかっこよさをのべるわけではなく、人間の生活や振る舞いなどに焦点を当て、人間というものを建築の側面から語った一冊であった。
詳細は下記リンクから前回の投稿を参照してほしい。

そんな人間を建築から見始めた第一回に対して、
今回の選書は、Nが文化人類学に最近興味を持っているとの話題から、人間をもう少し別の側面から見てみようという理由で決まった。
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次にYよりNが先に述べた本書の要約をさらに展開し、章ごとの概念の可視化を試みたとの内容の発表がされた。
(可視化した内容については下記、スライド参照のこと)

Yの発表で大きな論点として、可視化を通しての気づきについて下記2点が挙げられた。

  • 文化を語るための方法論としてのライン

  • 近代化が進むなかで合理性( 束ねる) への抵抗としてのラインズを読むことは、思想と実践を時代に位置づける「ものさし」をもつことである。

また、そもそも参加者がこれまで馴染みがなかった文化人類学という分野の認識について、「Are We human?」:ビアトリス・コロミーナの書籍を紹介しながら提示した。

それに対して、Kからも同様な意見として、今回の書籍と合わせて読んだ「声の文化と文字の文化」:W・J・オングを引き合いに出しながら、議論がなされた。

その結果、参加者の認識として文化人類学とは
"一冊の中で、あるテーマを手を替え、品を替えながらいかに一貫性のある考えなのか述べられているかどうかが善し悪し"であり、
そういう意味でもNが先に述べた本書がスライドしていく論調とは文化人類学的な構成であるという共通理解を深めた。


今更だが、筆者Kは初回の参加者と同研究室の一人であり、第二回から継続的に参加することになった。
そんな筆者は、著者の印刷批判を取り上げ、W・J・オング、ウォルター・ベンヤミンの印刷への姿勢(下記、要約参照)と比較し、現代の建築設計において印刷をはじめとする先進技術をどう考えていくか?という議題を挙げた。
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「声の文化と文字の文化」:W・J・オング
声の文化(オラリティ)は生産的で、文字の文化(リテラシー)が消費的であり、活版印刷は言葉を一種の商品にしていった。その結果、そもそも認識の活動が商品や市場になってしまったと述べている。

「複製技術時代の芸術」:ウォルター・ベンヤミン
印刷技術の普及に伴うアウラ(1回性)の喪失は、悲観すべき事態ではない。アウラがないことによって、芸術は個々の背景や文脈を越えて、それ自体として評価されるようになった。また、芸術は高貴な人に占有される文化ではなく、大衆文化となったと述べている。

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下記にその際議論に挙がったトピックを要約する。

◾︎印刷
・建築を思考をする上で一定までは手書きが必須であり、あるハードルを超えた後、思考の精度を高めたり、速度を上げていくツールとしての印刷技術ではないか。
・合理性や近代化は文化をまとめる一方、何かから自由になっていく側面もある。
・印刷とはcopyとprint outの2種類がある。一旦のアイディアの固定化の象徴ではないか。

◾︎口頭伝承
・八代の妙見祭の山車は口伝でもって作られる。文字や印刷に対して、口伝=声の文化(オラリティ)で残っていくことは、少しずつ内容がねじ曲がっていく面白さがある。
・本書の幽霊のラインとも繋がるが、正確な印字情報で全く同じものを作っていくことは発展がないとも言える。

◾︎AI技術
・Chat GPTやMidjourneyなどのAIは同じものは生成できないという意味では1回性が高いと言える。
・AIはより人間らしさを増していっているように感じ、恐怖を覚える。


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余談であるが本会における選書方法について、ここで触れたいと思う。

前回の輪読会後の議論の結果、職業や置かれている環境もそれぞれ違う有志が読んだ一冊をきっかけに横断的に議論を行い、そこでの疑問や各人の日常の課題や興味を共有しながら、会の中で生まれる「なにか」に期待して、その場の即興性で選書をすることとした。

一見脈絡のない選書の連なりが後から全体を見渡してみると、1冊が1冊を繋ぎ、また1冊を繋いでいく。そんな「ライン」のように有志の集合知が紡がれていくことが本会での選書方法の狙いである。
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最終発表者としてFから、先のNとYの2人とは異なり、章ごとにまとめるのではなく、気になったキーワードをネットワークのように繋げて読んでいったという思考の図を提示した。

そういった思考の過程から連想したエピソードとして下記3点が挙げられた。
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・学生時代の経験と身体性
合唱コンクールと漢字を覚える際の体験には本書で述べられるような身体性があったという共通点を挙げつつ、大人になり印刷するものを読むことが多くなった結果、そういった感覚が失われたという指摘への共感。

・輸送のイメージ
「時間のヒダ、空間のシワ…[時間地図]の試み 杉浦康平のダイアグラム・コレクション」:杉浦康平他のスギウラ時間地図を挙げつつ、首都圏の輸送の現状を紹介した。

・ラインズ的な建築
BUoY 北千住アートセンター:佐藤研吾を挙げつつ、場当たり的に建築を作りながら、思考していく事例として挙げた。


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発表を踏まえて、下記のような議論が展開された。

◾︎本を読むとき音声認知か視覚的認知か?
Fが音声認知であり、なかなか本を速く読むことができないという問いかけに対して、Nは共感しつつ、別に本を速く読むことを正としなくてもいいと思っているとの意見があった。
一方、YとKは同様な読書方法であり、視覚的に読みながら必要なフレーズのみを取捨選択し、線を引くようにしていた。
本書は構成自体も”本を読む”という行為に対してメタ的な示唆があることから、こういった議論の重要性を共有した。

◾︎ラインズの問いかけとは?
ラインズの中では、今と昔を比較し現代社会を語りながらも、原因としての資本主義への傾倒には一切触れていない。ティム・インゴルド自身、そういった社会の現状は受け入れつつも読者に資本主義だけではない違う軸を持つことへのメッセージ性があるのではないかという議論がなされた。

最後に会のまとめとして、
”ラインズはどんな本とまとめられるか?”という問いに対して、

そもそもこの本はまとめられないし、まとめるべきではない。
本書の完全な理解よりも引っかかったところから、自分で調べていってもいい。
そんな、むしろまとめない、そのままの様を受容する姿勢を投げかけている本といえるのではないか?

という意見で第二回目の本会を締めた。

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ここまで余談を挟みながら歩くように議事をまとめることに試みてみたが、単なる散在した文章になってしまったなと反省している。
だからこそ本記事の読者には、知の線が漂いながらも繋がり絡み合っていくような本書読了後の不思議な空気感を実際に味わって欲しいと思う。

最後に今後の「葦会」への筆者の個人的な想いを著者の言葉を借りて筆を置きたいと思う。

”面白いことはすべて、道の途中で起こる。あなたがどこにいようと、そこからどこかもっと先に行けるのだから。”


◼︎次回選書
「ケアの倫理とエンパワメント」
小川 公代 :著
講談社


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