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「螺旋の映像祭」の為の公開往復書簡.1

これは写真家/美術家の本藤太郎と音楽家の宮田涼介が、2020.10/10に逗子市で行われる「螺旋の映像祭」に提出する作品を制作する為に行っている公開往復書簡です。


〈中立〉に「芸術は可能か?」-眼差すことについて。或いは欲望について-


宮田涼介 さま

先ずは一緒に作品を作るにあたり、この公開往復書簡という試みを快く引き受けてくれた事に感謝します。ありがとう。

さて、言い出した当の本人である私ですが、正直言って書くべき言葉が何も見つからずにいます。子供の頃、よく知っている筈の近所であるにも関わらず、不意に自分の家の場所が分からなくなってしまった事があるんですが、その時とよく似た感覚が今、自分自身にねっとりと取り憑いている様な感じがしています。

これを偏に疫病の所為にしてしまうのは展開としていささか安易と言わざるを得ないでしょう。ただ、しかし、それが確実に原因の一つであるという事は肌感覚として実感しています。

とはいえそれでも本番はおとずれます。その為に少しでも先に話を進めなければなりませんね。いささか読みづらい文章かもしれませんが、ほんの暫しの間だけどうかお付き合い下さい。

そもそもなぜ、書けないのでしょうか。

ZAFに3年ぶりに参加する事を決めた春頃はまだ今よりも世間は〈いつも通り〉でした。だから、私はまた〈いつも〉の様に〈日常〉に異化を起こすべく市街劇をやろうかとか、妙ちくりんなオブジェを勝手に道に置いてみたりしようかとか、そんな事を安直に考えていました。

しかし、段々と疫病が蔓延していくにつれ現実が想像を軽く超えて( 例えばシュールなマスクの強制配布。例えば露わになった大規模な中抜き構造。或いは立て続けにハラスメントが明らかになる文化・芸術関係者たちの存在)来やがるのを目の当たりにしてしまって、その結果創造する事の虚しさみたいなものを自分の中で生み出してしまっているのだと思います。

そう書きながら気が付きましたが、〈創造する事の虚しさ〉を〈生み出している〉という時点で既に何か作っちゃってますね。いやはや人間ってのはややこしい。

さて、いつまでもグダグダ書いていても埒が明かないので先に進めたいと思います。

先日宮田さんとはお互いの問題意識として、昨今の殺伐としたSNSの雰囲気について話しましたね。
宮田さんの言う様にTwitterなんかを眺めていても、人々はそもそも〈分かり合いたくない生き物〉何じゃないかと思うことが多々あります。事件や災害が起こった時などに特にそれは思います。所謂コロナ禍の現在も、様々なイデオロギーを掲げた人々と、そうでは無いスタンスの人々が互いに断罪し合っている様に〈見え〉ます。

そう、SNSはその性質上どうしてもその〈景色〉を自分自身で構築しなければならないメディアなので、それを自覚していなければきっと直ぐに極端になってしまうんでしょうね。

メディアと言えばかつて「印刷術」が発明された時、多くの人々が同時に同じ言葉(情報)を読む事が出来る様になりました。それによって人々の世界の捉え方はきっと激変したと思います。そしてその後「写真」が発明された事により、更に人々の世界の〈見え方〉も大きく書き換えられたんだろうなと想像します。〈見え方〉と言うかは〈見たさ〉でしょうかね。

紋切り型の文句ですが、SNSやインターネットがここまで広く普及した現在は、正にメディアの、そして〈見え方〉や〈見たさ〉の更に新しい時代がやって来ているんだと思います。新たな視覚がインストールされたばかりの人間はしばしば混乱します。(例えば初めてスーパーマリオ64をプレイした時みたいな...ちょっと違うか...)我々が問題にしている分断や断罪はその混乱が原因の一つになっているんだと私は思います。技術の進歩と人類の進歩は決してイコールではないですよね。

で、それに加えて人間の本来持っている〈分かり合えなさ〉性についてです。

人間は〈線〉を引く事が大好きです。例えば柵で囲ったり、フレーム(画面)を設定したりして〈ここまで〉や〈ここから〉を区別して、更に名前をつける事が堪らなく好きな生き物です。そもそも自然界に〈直線〉は殆ど存在しませんよね。
そんな〈真っ直ぐ信仰〉みたいなものが対面でもオートで作動しちゃうんじゃないかなと思います。だってその方が安心するから。

そんな安心感を揺さぶり、種としてアップデートする為に人類は芸術を発明したんだと私は思っています。
それが2017年にZAFで発表した「穴」のテーマの一つでした。


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                              毒虫プロダクション-〈穴〉-2017



すんません、〈分かり合えなさ〉の話でしたね。
私は宮田さんが最初に言っていた〈人間は分かり合えない生き物だが、分かり合えないのは悪ではない。〉という意見に賛成です。

人と人はまず最初に〈完全に分かり合う事が出来ない〉という前提の元で関係性を構築するものだと私は考えています。そもそも人は自分のことですら完全に理解はしていないでしょう。他人ならそれは尚更ですよね。
ですから人は言葉や文字、そして芸術等を用いてなんとか〈分かり合おう〉として来たんだと思います。それはきっとこの往復書簡も同じです。

ただ、SNSの話に戻りますが、そこでは人々がどうもその前提を持てないまま躍起になって〈分らせよう〉としている様に〈見え〉ます。どうしてでしょう。

多分、〈分かり合えない〉という前提は元来〈得体の知れない他者〉たちと否応なく付き合わざるを得ない〈都市〉の人々の文化なんだと思います。
例えば〈どこそこの誰々〉って事を皆が知り合っている〈村〉ではそういう文化はあまり発展しないものと想像します。

つまり、〈村的メンタリティ〉を持った人々が本来はきっと〈都市的な空間〉であるSNSに簡単に参加する事が出来る様になった事によって、最初の話の様な分断が引き起こされているんだと私は思います。思えば昔は「ネチケット」って言葉がありましたよね笑

なんだか自分のメモみたいになってしまいました...

最後に、宮田さんはSNS等で多くの分断を目の当たりにした時〈自分はどちら側にも付きたくない、中立の立場で居たい〉と感じたと言っていましたよね。
私は完全な意味での〈中立〉というものは存在し得ないと考えています。あらゆるスタンスはすべからく政治性を帯びるものだと思っています。しかし、そんな〈中立〉が存在するのであればそこからは一体どんな〈景色〉が〈見える〉んだろうかと興味も湧いています。
他にも〈傍観〉や〈見学希望〉というキーワードも頂きました。
それはすなわち〈中立〉としての〈眼差し〉の話だと思います。果たして宮田さんの言う〈中立〉は何処で何を〈眼差し〉ているのか。その、〈眼差す〉という欲望はどんなものなのかをもう少し詳しく聞いてみたいです。それが来るべき我々の作品の核になるような気がするのです。

ダムタイプの古橋悌二が残した言葉に「芸術は可能か?」というものがあります。はてさて、〈中立〉に芸術は可能でしょうか。

本藤太郎

2020.8.14
自宅にて

ps.ユニット名とかつけたくないですか?

※次回はこちら

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本藤太郎/Taro Motofuji a.k.a Yes.I feel sad.

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逗子生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒。カメラマンとして撮影現場を奔走する傍ら2016年より美術活動を開始。写真作品を中心に舞台やインスタレーション、楽曲や映像等を制作し国内外のアートフェアや地域アート等で発表している。 ZAFには2013年の「逗子メディアアートフェスティバル」の頃から雑用として関わっており、2017年には作家として参加。基本寝不足。
https://www.yesifeelsad.com/
https://www.instagram.com/taromotofuji/?hl=ja


宮田涼介

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神奈川在住の音楽家。ピアノ楽曲や電子音響作品を中心に、国内外でアルバムを発売。また、カフェやWebコンテンツでのBGM制作、シンガーへの楽曲提供・編曲を行う。
http://ryosuke-miyata.com/
https://www.facebook.com/ryosuke.miyata.music/


2020年10月10日(土)「螺旋の映像祭」開催!
逗子文化プラザ さざなみホールにて
https://note.com/zushi_art_film/n/n502ed347ee86

逗子アートフェスティバル公式ウェブサイト
https://zushi-art.com/

▼今後の逗子アートフィルムの予定
逗子アートフィルム 沖啓介 現代美術オンライン特別講義
第1回「ウェットウェア、ドライウェア」
8月22日(土) 20:30~22:00
https://artfilm-oki1.peatix.com

第2回「アートが神経を持ったら」
8月29日(土) 20:00~21:30
https://artfilm-oki2.peatix.com

第3回「月は最古のテレビ」
9月5日(土)20:30~22:00
https://artfilm-oki3.peatix.com

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