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手紙5 本藤から宮田へ



お知らせ
ユニット名が「視聴覚派」に決まりました!!

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宮田さま

労働と仕事とで動画を同時に6本撮影・編集していたもので、またすっかり遅くなってしまいました。
梅雨も明け、まさか本当にやるとは思っていなかったオリンピックも始まりました。(おわっちまいました)

本題に入ります。

まず、「つくること」について二人で考えましたね。
宮田さんは

本藤さんは、自分が自分である証明の手段として、これまで創作や表現をされてきたのだと

想像してくれましたがそれは若干違います。何方かと言えば証明というよりかは思考する為の手段に近いですね。
私は答えのないものについて考えるのが好きで、その補助具として手を動かし始めた様な気がします。
で、その結果として生み出された作品をまた介して、未だ見ぬ誰かと出会えたらきっと素敵だなと思って制作しています。

_純粋について

宮田さんとのやりとり(通話や対面含む)の中で「純粋」という概念をいただきました。
「純粋」な何かが最初にあって、月日とともに様々な不純物がこびりついてしまう様な感覚があると。
私はむしろ加齢により見えるものが増えてどんどん自由になってる!と感じている人間なのでなんとも共感はし難いのですが、それでもその「変化」に対する戸惑いや疑問や畏れみたいな感覚はテーマの一つとして興味深いと思います。


_変化について


変化をするという事は〈時間〉の影響を受けるという事です。私たち人間はどうにかしてその大きすぎる力に抗うべく「記録」する手段を沢山発明してきました。
それは文字や、絵や、写真や、録音技術など様々です。


私が写真を撮る動機の最も大きな部分も「残したい」という欲求によるものです。
この「残したさ」が人間が人間である為の本能であり、また、つくることへ向かわせる原動力なのかもしれません。

変化する、という事には驚きや戸惑いが常に付き纏います。
ある朝突然甲虫に変身したりはしないとは思いますが、人の身体は常に変化しています。
それは〈成長〉そして〈老化〉と表現されます。

宮田さんは二次性徴期の身体の変化に対する戸惑いの話を何度かしてくれました。私はあまりピンと来なかったんですが、最近になって夜遊びがしんどくなったり酒が抜けなかったり傷が治らなかったりと、〈老い〉の入り口に戸惑いと焦りを感じています。多分この感覚は同じ中心の円の中の話だと思います。

〈変化〉と言えば、死んでしまうという事を前提にして生きている生き物は人間だけらしいですね。
(手話の出来るゴリラは少なくとも死について知識はあった様ですが)

私事ですがこの3年程で身近なもの達を弔うことが多くなりました。憎んでいる相手にも愛すべき存在にも平等に、そして突然〈死〉というものが訪れました。
また、先週は知人が一人コロナウィルスにより入院し、また別の知人には癌が見つかりました。(余命は半年無いそうです)
未曾有の災害も紛争も各所で起きているし、そして今はパンデミックの最中です。

私は死者の事や死について以前にも増して考える時間が多くなりました。

人にとって最も大きな〈変化〉は〈生→死〉なのだと思います。
そして、そのどちらかを思う時、片方の存在も同じだけ強くなりますよね。
丁度強烈な光が作る濃密な影の様に。

死んでしまうという事について考えていると自身の感覚器官が敏感になっている事に気がつきます。
それはつまり、今生きている身体を意識していることなのだと思います。

私は見えるし聞こえる。この事を誰かに伝えたい。
だから作るんじゃないかと思います。


それました


〈自分〉に対するアプローチについて

私は宮田さんの言うところの〈純粋〉な〈本当の自分〉みたいな唯一の存在は存在し得ないと考えています。
かつて(平成初期?)終わりなき日常から逃れる様に〈自分探し〉の旅に向かう人たちが沢山いましたが、〈自分〉というものは何処かにポツンと待っている存在ではなく、あらゆる時間と空間の中での自身の状態の総体だと思います。
つまり、それは常に変化しているし、どこにでもいるしどこにもいない。チェシャ猫の様な存在だと考えています。だから、それに出会い続けて、それらを全て許容し続けていく事が〈自分探し〉、ひいては人生なんじゃないかしらと思っています。
また、仮に〈ピュアな自分〉がいるとして、私にとってそれはただの無知なピーターパンの様な姿にしか見えません。
私の場合はむしろ、積極的に〈穢れ〉を身に纏ってネバーランドの外へ飛び出していきたいタイプです。

同時に、〈本当の自分〉みたいなものはきっと存在し得るんだろうとも信じています。それは「真」とか「善」とか「美」、或いは「神_god」みたいなもので、古今東西の哲人たちが考えてきたことでもありますよね。
「信じる」という行為はとても大切だと思います。
それは人間に与えられた極めてクリエイティブな能力なのですから。
それ故に私は信じます。

多分〈純粋〉というハードル高過ぎワードを用いているのが堂々巡りの原因な気がします。
真理の探究と証明は哲学者と歴史に任せましょう。

で、ここからは〈素直〉という言葉にしましょう。素直。
私が最初の手紙でミレーを引用したのも概ねそう言う意味でした。
美術の文脈や作法に則ろうとするのではなく、自身の視聴覚を動員した素直な表現をしようと、そう言う意味でした。
我々の考えてる事の共通の部分はここだと思います。


思えば私と宮田さんは色々と反対側(此岸)の人間の様な気がします。
それは関心事である性(生)と死だったり、発想のリソースが内面と社会だったり、出自がオタクとヤンキーだったり...

この〈対称性〉を最初のキーに作品を作れそうな気がして、今スケッチを書いています。

取り止めもなくてすみません。ちょっと現在あまり体調が優れなくってアウトプットがしんどいのです。気温が下がればある程度復活すると思います。

完全にぶん投げてますが今回はご容赦ください...!!

2021.8.16_

最近は何かの揺り戻しなのか、主に学生の頃に好きだったものなどを再び参照しています。素直にね。


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本藤太郎/Taro Motofuji a.k.a Yes.I feel sad.

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逗子生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒。カメラマンとして撮影現場を奔走する傍ら2016年より美術活動を開始。写真作品を中心に舞台やインスタレーション、楽曲や映像等を制作し国内外のアートフェアや地域アート等で発表している。 ZAFには2013年の「逗子メディアアートフェスティバル」の頃から雑用として関わっており、2017年には作家として参加。基本寝不足。
https://www.yesifeelsad.com/
https://www.instagram.com/taromotofuji/?hl=ja

宮田涼介

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神奈川県在住の音楽家。ピアノ楽曲や電子音響作品を中心に、国内外でアルバムを発売。
2021年5月に新アルバム「slow waves」を配信リリース。
また、カフェやWebコンテンツでのBGM制作、シンガーへの楽曲提供・編曲を行う。
http://ryosuke-miyata.com/
https://www.facebook.com/ryosuke.miyata.music/


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