理屈と損得

 理屈は脳、損得は肚。
 理屈に従うと間違う。損得に従えばうまくいく。

 人間は内臓系と体壁系からなる。
 内臓系=腸(入)+血管(循環)+腎臓(出)
 体壁系=感覚器官(入)+脳神経+筋肉(出)

 この6つの中で、最も重要なもの、というか、起点になるのは、腸。栄養を取り入れる腸がなければ、ほかのすべては成り立たない。

 私たちは、腸なのだ。もともと、私たちは海で泳いでいた柔らかい筒のような生き物で、それが、陸上に進出してこのような形になっているのだ。
 なので、腸の損得が、生きる上での判断基準として最も正しい。
 それ以外は、迷妄なのだ。

 人間の社会活動は、個々の人間が腸を養うために、いや、個々の腸が身体を養うために営まれている。この本質をつかむことが大切だ。

 「腸が栄養を摂取し、不要物を排泄すること」これが生きるということの本質なのだ。

 大脳や筋肉は、腸が生きるための高性能な機器に過ぎない。
 性格、人格などというものは、社会生活上の戦略、テクニック、飾りに過ぎない。

 性格、人格なんて、どこまで行っても飾りに過ぎないのだから、必要に応じて、どのようにでも変えればよいし、変わればよいのだ。
 明るさが要求されるときは明るく振舞えばいいし、深刻な顔をしていた方がいいときは真面目な顔をしていればよい。状況に応じて、腸のために、変幻自在に振舞えばよい。

 腸は、王様のように、というか、王様なので、いつもお腹の中で、悠々と暮らしている。いつだって、安泰なのだ。(肝っ玉かあさんは「何があっても大丈夫」と言って子どもを励ますのだが、長年、私は、なぜそんな無責任な言葉を堂々と自信をもって言えるのだろうかと、大いに疑問に思ってきた。だが、肝っ玉かあさんとは、肝の据わった、つまり、内臓系として生きている人であり、体壁系を自分と勘違いして生きている愚かな現代人よりは自分とは何かが分かっているのだ。腸が自分だと捉えた場合、外界で何が起ころうとそんなものは体壁系が処理することに過ぎず、自分は常に快適で安泰なのだ。だから、何があっても大丈夫なのだ。「死ぬより大きいことはないんだよ」という言葉も同じ。要するに、何があっても大丈夫なのだ)

 その王様の暮らしを守るために、身体、脳は働く。

 正直、なんだか不気味かも。

 私たちは、不気味な存在なのだ。脳(理屈)からすれば。

 私たちという存在、というか、生命は、頭で考える理屈での理解をあっさりと、軽々と超えている。脳なんて、日々の生活を処理するためにあるようなものに過ぎないから、生命の不思議を悟ることなどできはしないし、そういうことに向いていない。生命の不思議、生きる喜びは、腸、肚、はらわたで感じるものなのだ。そして実際それはいつも十分に感じられている。ただ、脳の活動に焦点を集中させすぎて気づいていないだけで。

 で、脳に任せて生きると(多くの現代人は脳で生きている)、理屈ばかりになってしまって、生きる喜びが失われ、病む。腸の損得という基準に立ち戻って、無意味なこだわりが消えて、脳の選択肢が無限に増えたとき、変幻自在、融通無碍な生き方ができ、生きる喜びを感じることもできるのだ。本来、王の喜びが家臣の喜び、肚の喜びが脳の喜び、内臓系の喜びが体壁系の喜びなのだ。






(参考文献 三木成夫「内臓とこころ」)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?