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読書メモ「反省性を統治する ワークショップ/ファシリテーションの社会学的考察」(牧野智和)

目次
1 社会的現象としてのワークショップをいかに捉えられるか
2 リフレクションという要点
3 反省性をめぐる非対称性とそのデザイン
4 反省性を統治する

巧みなファシリテーションはかえって人の主体性を弱くしてしまうのではないかと中野は述べる(中略)ファシリテーターには「大きな特権や力」があり、ファシリテーターはそのことに十分自覚的でなければならない(中野 2003: 182-6)。このように、支援や促進といった言葉を用いながらもファシリテーションは結局何らかの操作をしているのではないか、不均衡な関係性(権力関係)がそこには存在するのではないか、というさしあたって思いつきそうな批判はすでにファシリテーションが論じられる初期段階で織り込まれている(中略)つまり、活動を行うことが単純な手段と化してしまったり、その活動が形だけのものになってしまうことをその唱道者たちは強く戒め続けているのである(p.183)

ファシリテーションは実は巧妙な操作の一形態なのではないか(中略)筆者は以前、学校におけるアクティブ・ラーニングが生徒間の人間関係に左右されてしまう可能性について指摘したことがあるのだが(牧野 2018: 129)(p.184)

ファシリテーションの目的や一つひとつの局面で起こることを常にふりかえり、自ら確かめていくことで、ただ司会をすればよいとった単純化やなにか活動さえすればよいという形骸化を避けることができる(中略)つまり紹介してきたようなファシリテーターへのまなざしは、自らを「反省」的に捉える、自らのあり方を「ふりかえる」、「省察」するといった表現に言い直して集約できると思われるのだが(高尾 2012: 29 も参照)、ファシリテーションよりも学術的な蓄積が多くなされてきたワークショップ研究におけるキーワードの一つもまた「リフレクション」であった(安斎 2013: 94-6)(pp.186-187)
→ファシリテーション(の専門性に関する)研究:ふり返り、省察
→ワークショップ研究:リフレクション

ただ、ワークショップ研究におけるリフレクション論の重心はファシリテーターよりも参加者の側にあり、その議論は参加者の「学習」に特に注目してなされてきた(p.187)

(*デューイ、ベイトソン、ショーンらのリフレクション論を踏まえて)つまり振れ幅はあるにせよ、自らの振る舞いとそれがもたらす結果についてふり返り、自らの振る舞い、状況認識のあり方、次になすべきことについての認識を組み直していくこと(そのような組み直しに開かれていること)が、リフレクションをめぐる議論の基調になっている(中略)これはファシリテーター自身に適用されれば「反省的実践家」としてのファシリテーター論になり(間宮 2013: 134)、ワークショップの参加者にとってみれば、活動に対する自分なりの意味づけや活動成果の共有を行う「ふり返り」を行うことが学びや自己成長の要点になるという話になる(中原 2012: 49; 上田 2014: 48; 平田ほか 2016: 203-4)(p.189)

このように、ファシリテーターの資質論はギデンズの指摘(*自己に関する知識を言葉や行動で他者に伝えることができるというauthenticityを持つことが、対人関係における信頼の最も強い支えになるという指摘)にかなりあてはまりがよく、その意味でワークショップやファシリテーションは、人びとの反省的モニタリングを「脱埋め込み」し、また新たに「再習熟」させることでモダニティの加速に貢献している実践・知識の端的なまとまりとして位置づけることができるように思われる(p.191)

*反省性を巡るファシリテーターと学習者の非対称性について
(*ファシリテーターは行為の中の省察のようなことを行うべきとされる一方で、参加者は)フレキシブルな反省をその場で十分に発揮することはおそらく期待されておらず、活動目的に応じてある種の反省性の促進が企図され、一方でそれを阻害するような反省的モニタリングの可能性は縮減されている。逆にいえば、ファシリテーターと参加者に同じ程度の反省的モニタリングを許容し、また同じように体系的な自己反省を促した場合、ファシリテーションやワークショップはうまくいかない、進まない可能性があるのではないか(p.192)
→ファシリテーターによる活動目標から外れたリフレクションは予め阻害されている

ワークショップやファシリテーションにおける自由度の調整は、特定の問いかけや活動を行うという水準のみならず、このような異なった役割群をそれぞれが守る、ないしは演じるという水準でも行われているように思われる。(中略)ファシリテーターが状況に応じて振れ幅のある諸役割をフレキシブルに変更していく(べきだとされる)のに対し、参加者の役割の振れ幅はその反省的モニタリングの幅もファシリテーターのそれに比べるとおそらく狭いと言える(pp.193-194)
→ファシリテーター:フレキシブルなリフレクションが必要
→参加者:活動目標の範囲のリフレクションに留めるべきとされている

(*筆者が行った過去の研究:自助マニュアルが反省性の「打ち止まり地点」を提供しているという指摘を踏まえて)ワークショップやファシリテーションもまた、無際限にリフレクションを促すのではなく特定のルールや技法を通して、その望ましい反省のあり方を提供しているということがおそらくできるのではないだろうか(p.198)
→リフレクションは際限なく行うことができる。ワークショップやファシリテーションは、リフレクションの範囲を制約する機能を持つ

感想
・ワークショップやファシリテーションにおける「自由」とは、活動目標の範囲内のことを指す。筆者に倣えば、ワークショップとは学習者がリフレクションを行う範囲を限定した活動、ファシリテーションとはその活動から逸脱した行動をしないよう学習者を管理すること言い換えられそう。
・ファシリテーターと学習者には、求められるリフレクションの非対称性が存在する。非対称的な規範を対象的なものへとバランスさせるには、ファシリテーターが学習者に、学習者がファシリテーターになる等、学習者にファシリテーターを担ってもらうことで達成できる?ファシリテーターを演じることが学習者にとっては最もフレキシブルでリッチなリフレクションを体験することになるのではないか。

牧野智和(2021)反省性を統治する ワークショップ/ファシリテーションの社会学的考察. 井上義和, 牧野智和(編)ファシリテーションとは何か コミュニケーション幻想を超えて, pp.179-203. ナカニシヤ出版, 京都


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