ニートの存在理由――「蟻とキングオブキリギリス」
吾輩はニートである。
ところで、人間は自分のことを誇らしく思いたい生き物である。
ニートも人間である。
ゆえにニートも自分のことを誇らしく思いたい。(ニート三段論法)
そうなのだ、ニートだって誇りをもちたいのである。
だから今日は、ニートの存在理由について考える。
ニートの存在理由を考えるにあたって、ある童話を用意した。それは「蟻とキリギリス」を書き換えたものである。
題して、「蟻とキングオブキリギリス」
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冬に備えて、蟻はせっせとエサを確保する。一方、キリギリスは蟻のようには働かず、遊んでばかりいる。冬が来て、貯えのないキリギリスは蟻のもとにやってきた。キリギリスは食べさせてくれと懇願し、蟻は仕方なくエサを分けてやることにした。(ちなみに元の物語では、エサをもらえず飢え死にしてしまう)。
しかし、蟻のもとでもキリギリスは「働かせてください」とは決して言わない。キリギリスは、何らかの対価を得るために行動することを頑なに拒む。蟻の好意に甘えながらも、キリギリスは働くことなく、ただ食べる。そして、遊ぶ。
ほとんどの蟻たちはこのキリギリスをよく思わない。当然である。自分がせっせと働いて得たものを横取りされているのだから、いい気はしない。いったいこいつは何様だ、というわけだ。
ところで、生まれてこのかた働くことしかしてこなかった蟻は、冬になると何もすることがなくなった。蟻は、人生で初めて働かなくてもいい状況に置かれたのである。これまで働くことと生きることが一致し、ひたすらエサを調達するほかに選択肢のなかった蟻は、生きがいを喪ったも同然だった。
働かないでいることは、こんなにも暇で、退屈なのか。蟻は、「人間は自由の刑に処されている」といったサルトルの言葉を身をしみてわかりはじめていた。自由の刑に処されて、みずから命を絶つ者も出はじめた。
そんな状況で、ただ一人、平然としている者がいる。そう、キリギリスである。
キリギリスにとって、この状況ははじめてではない。キリギリスは働きこそしないが、暇の過ごし方を知っている。それにキリギリスの弾くバイオリンの音色は、わるくない。そのことに気づき始めた蟻の中から、キリギリスにバイオリンの弾き方を聞くものが現われた。キリギリスのうわさを聞きつけて、はるばる遠方から来たものもいる。中には、バイオリンの構造に興味をもち、バイオリンをつくることに熱中する蟻もいる。彼らがそうするのはけっして何らかの報酬を得るためではない。
遊びの巨匠、キリギリスはあたかも冬の時代の救世主になったかのようである。
しかし、まだまだ、生きていることの退屈さに打ちひしがれる蟻は後を絶たない。彼らには、退屈さに劣らず不可解なことがある。どんちゃん騒ぎに耐えられない蟻、バイオリンを弾くことに楽しみを見いだせない蟻、バイオリンの出来を他人と見比べて劣っている自分に嫌気がさす蟻・・・。俺はこれからどうしていきていけばいいのか、つーかそもそも生きるってどういうことなのか・・・。
キリギリスは、そんな彼らのきもちが痛いほどよくわかる。キリギリスはバイオリンを弾くまえは退屈で死にそうだったし、油断すれば今でも退屈のあのなんともいえない虚無感がしのびよってくる。キリギリスは誰よりも退屈を知っている。キリギリスはいつも退屈を生きてきた。彼は遊びの巨匠であるとともに、退屈の巨匠でもあったのだ・・・。
もはや彼はただのキリギリスではない、ニートの中のニート、キングオブキリギリスなのである。
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さて、今の吾輩や同輩のニートが、この童話に出てくるキリギリス(=キングオブキリギリス)だとは思わない。我々は、遊び方を知らないキリギリスである。しかし、キリギリスには変わりない。来たるべき冬の時代、その時に必要とされるキリギリスに向けて、なんとしてでも生き延びようではないか。
ニートの存在理由とは、ニートとして生き延びることそのものである。
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