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【感想】声を出して笑ってしまった文章【投稿】

 自宅に郵便受けに入っている広報誌は、普段あまり見ることはないのだが、このときはどうしてか目を通してみようと思った。議員の方の文章が載っていて、商業施設の誘致について述べられていた。本当にたまたま読んでみたのである。

回収したくない伏線がある

 オリンピックの話題など、テレビを見ない私にとっては、あまり関心のないことではあるが、東京オリンピックを前に、「女性は話が長い」旨の失言によって大きく取り上げられた人物がいることは知っている。この女性蔑視発言があり、ジェンダーの問題に取り組んでいかなければならないという文から、とある議員の文章は始まっていた。

 議会では大まかな方向性が決まったので、今年は、細かい部分を詰めていくという旨の文章が続くのだが、その中に、「買い物にいくお母さんたち」のために動いていることが書かれている。

 衝撃だった。これは400字あるかどうかの文章だ。女性蔑視の発言に言及し、ジェンダー問題を読者に意識させ、その上で、買い物に行く人を「お母さん」と限定するという、なんてエキセントリックなレトリックだろうか。

抽象化は高度な技術

 買い物に行く人物を「親」であり「女性」に限定する必要があるようには思えない。蔑視ではないだろうけれど、ジェンダーの問題を云々言えなくなるだろう。いくつかの批判が、この議員に届くことを期待している。

 「女性は話が長い」と「買い物に行くのは母親」というのは、同根の問題のように思う。古い文化によって確立されてきた女性像を、そのまま言葉にしているのだろう。線引きは難しいとは思う。恐れていては何も発言できなくなる。ただ、相談相手がいれば「母親」にはならなかったのではないだろうか。

 気を付けないといけない。大きく取り上げられて、元首相の発言については多くの人が「ダメに決まっている。そんなこともわからないのか」と思ったのではないだろうか。私も、それはいかんだろう。と思っていた。大切なのは、それを自分のこととして考えることだ。同じ文脈になくても、似たようなことをしないように気を付けること。抽象化して自分にあてはめられるようにならないと、学習にもならない。ゴシップで他人を蔑み、貶められている人を見てほくそ笑むだけの人間に成り下がる。

 事象を抽象化して内省することの、なんと難しいことか。話し合いの場であれば、その場で認識を変えることもできるだろう。一方的な発信では、それが難しい。その場で戒めることができれば、あるいは状況は変わっていたかもしれない。

認識が言動になる

 本を読んで学習し、YouTubeを見て賢い生き方を知り、Twitterで愚行を笑う。よいと思った行動をして、よくないと思った行動をしない。ただそれだけなのに、なんと難しいことか。

 自信の言動を変化させるためには強い意志が必要なんだろう。その前に、自信の行動にどのような意味があるのかを認識しないといけない。社会性のある場面ならばなおさらだ。罵倒するだけにならないように気を付けよう。元首相は立場的に謝罪で済まされなかった。

 指摘によって認識が変わるだろうか。それほどの衝撃が生まれることを願おう。そして私は行動を起こさない。ネタにするだけ。

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