古く中国では、日本を「姫氏国」と呼んだ時期がある

◆中国の周(BC1046年頃-BC249年)の国姓は「姫(き)」。
周王の長男大伯が作った、呉の国姓も「姫」であった。

平安時代に中国では、日本を「姫氏国」と呼んだ時期がある。

◆縄文時代
揚子江の江南人(倭人)の呉人と楚人が
日本列島の有明海周辺や吉備に来ていたので、
稲作は、一部の地域で行われていた。

◆BC473年に
呉王夫差が越王勾践(BC465年没)に滅ぼされ、
呉の一部遺民は、
揚子江から北上して山東半島から徐州市のあたりに住み着いた。

しかし、BC334年に越王・無彊(むきょう)が、
楚王、威王(BC329年没)に敗れて、
越の一部遺民が北上してきたので、
呉の遺民は押し出されるように、朝鮮半島南部と九州北部に逃れた。

九州北部では奴国を中心に30ヶ国ほどの小国家群ができた。
間もなく列島全体に水田稲作が行われ、
鵜飼・歌垣・たたら製鉄・青銅器生産・弥生式土器生産などをしている
江南人(倭人)の習俗が定着し、縄文時代から弥生時代に入っていった。

◆新撰姓氏録に、
「右京 諸蕃 漢 松野 連 呉王夫差之後也」とあり、

古代豪族の、松野連(まつのむらじ)は、呉王夫差の末裔。

『中興系図』によると呉王夫差の後裔と記している。

夫差の子・忌が日本に渡って帰化人となり、
筑紫国に至って、肥後国菊池郡に住んだ。

※『新撰姓氏録』は、
平安時代初期の815年(弘仁6年)に、
嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。


魏略 に記載された 倭国=呉王の末裔

1232年頃の史書「通鑑前編」に、
「日本から来た使者が、我々は呉の太伯の後裔だと云う。
呉は亡び(BC473年に滅亡)、
その子孫が海を渡り、倭国(日本)を造った」と書かれている。

184年頃の史書、「魏略・晋書東夷伝・梁書東夷伝」にも
「自謂太伯之後(自ら太伯の後裔と云う)」と記されている。


中国では、当時、交易に来る倭人(日本人)は、
(揚子江)江南の呉王の子孫と見ていた。

※『魏略』・・中国三国時代(184年)頃の魏の歴史書。
※『晋書倭人伝』・・唐(618年)太宗の命により編纂されたもの。
※『梁書倭伝』・・中国南朝の梁(502年)頃の歴史を記した歴史書。56巻。
※『通鑑前編』・・中国、南宋(1232年頃)儒学者の金履祥が、1232年以前の時代を描いた歴史書


中国史では、姬姓は黄帝、帝の別姓とされる。
嚳の子孫の后稷はこの姬を姓として使ったという。
后稷の子孫とされる古公亶父が周の始祖であり、その曾孫の武王を滅ぼして、周王朝を築いたためその国姓となった。

姬姓から分かれた周氏魯氏管氏蔡氏霍氏曹氏衛氏滕氏畢氏万氏魏氏原氏毛氏雍氏応氏韓氏唐氏凡氏蔣氏邢氏茅氏祭氏鄭氏劉氏などを含むと伝わる)






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