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『ふつう』じゃない家で育った、子どもを持つことに抵抗があるすべての人達へ

家庭環境が悪かったせいで子供を持ちたくない、持つ自信が無い。人間を生み出す事は不幸を生み出すこと、すなわち人生という不幸の輪廻に組み込んでしまうのではないか――そのように考えてしまう人をインターネットではよく見る。

かくいう私もかつてはその一人だった。

私の父はアル中の競馬狂いで、すぐ子供を『イライラするから』という理由で殴る人間だった。レイプをしようとしてきたこともある。それは父親の骨を折ることで解決した。母は真面目な人だったが、いわゆる『ダメんズ』というやつで、結局はいつも父親の味方だった。家にいた頃は母のおかしさはあまり自覚していなかったが、常に『自分は神の遣い』などと言っているような人なので、お察しだろう。

このような両親に育てられ、陰キャらしく一通りのいじめは経験し、社会に出たら出たで自分の社会不適合さや能力の低さをいやという程に自覚したので、自分は一人ではとてもこの社会で生活が出来ないと悟った。19歳の時だった。

家に帰っても父親に毎日殴られ、なにかの拍子に死んでしまうかもしれなかったので、高校卒業以降は実家にはほとんど帰っていなかった。

結婚か死かと思う程に若い頃の私は思いつめられていた。25までに結婚出来なければ死のうと本気で考えていたが、ちょうどハタチの頃に条件が良い男性が言い寄ってきたので、これはチャンスだと思い私は結婚を前提に付き合うことを提案した。

彼とは付き合いたての頃に大きなトラブルがあったが、それ以降はお互いに思考方法が論理的で相性が良いこともあって、結婚してからというものの喧嘩という喧嘩をせずにここまで来た。付き合うきっかけの適当さの割にはラッキーだったと思う。もちろん、お互いに良好な関係を保つための努力はしている。結婚したのは、21の時だった。

結婚して喧嘩もなく、穏やかで幸せな日々を暮らしていた。しかし結婚をした若い女に必ず浴びせられるのは『子供はまだか』という親戚のおせっかいや、期待の言葉だ。しかし私はその頃、多くの人たちと同じく、子供を持つことに抵抗があったし、怖かった。彼にはその説明は結婚前にしてあり、理解はされていたので『子供が欲しい』と言われることは無かったのが幸いだった。

22の頃、生理痛に悩んでいた私はレディースクリニックへ行った。そこで卵巣嚢腫の奇形腫が出来ていたことが分かって、すぐに入院、片側手術になった。手術後に医者に『子供を作りたいなら、早くした方が良い』と言われたのがきっかけで、子供を一生持たずに、自分は後悔せずに生きられるのかということや、健康な体と相性が良い信頼できるパートナーが居るのに子供を持たない選択をするのは傲慢なのではないか、そんなことを考え始めた。

結局、私が選んだ選択は『子供を作ってみる』という選択だった。この選択をするのに2ヶ月ほどかかったと思う。しない後悔より、する後悔だと思ったのだ。

決心してから、妊娠するまでおよそ1年ぐらいかかった。ナマでセックスをすればすぐにでも妊娠できるものだと思っていたが、現実は違った。たかが1年という短い期間だったが、妊娠出来やすい体を作るためにとにかく体を温めたり、ストレッチしたり、サプリを飲み、「その日」をめがけてセックスをしていた生活はかなり苦痛だった。不妊治療をしている人で何年も子供が出来ない人がどのような心境に至ってしまうかは容易に想像できる。自分の体が、パートナーの体が不能なのではないかと疑う気持ちは、ものすごく辛い。人間として、動物として、物理的に不完全なものではないかと思う気持ち。これは想像していたより、ずっとしんどいものだった。

いざ妊娠してみると、悪阻があまりに重く、毎日重い二日酔いのような状態に苦しめられた。よく妊娠中は母性が目覚めるなどというが、はっきり言って私にはそれは全く無かった。ただただ苦しいだけだった。

出産自体もとても大変で、陣痛はこれまで経験したことないものすごい痛みだった。私は痛みが一定以上を超えると麻痺したり、快楽に変わることを身を持って知っているが、いつまでたっても意識はハイにならないので陣痛の痛みは、他に替えることの出来ない痛みなのだと感じた。

ハイになったのは出産した直後だった。生まれた子供が可愛くて仕方ないのだ。世界のスイッチが変わったようだった。産んだ瞬間に私は変わった。今まで子供は苦手気味だったが、世界中のすべての子供が可愛く感じるようになったのだ。この感覚は、おそらく経験した人にしかわからない感覚だと思う。とにかく私は『変わった』のだ。

その時の出産では出血多量で体中がみるみるうちにゾンビのように青ざめていったが、そんなことは私にとってどうでも良かった。出産の喜び、素晴らしさを周りの助産師に興奮しながら喋り続けていた。助産師達は私をパニックにさせないためか、苦笑いしながら『げ、元気ですね』と言って私が噴き出した大量の血をモップか何かで拭いていたが、その時の光景は思い出す度に我ながら面白く、笑ってしまう。その後は止血と輸血の為、1日ほど別室に隔離された。3日後に担当の医師から『体重があったので助かったよ』と言われ、デブもたまには役に立つもんだなあと思ったものだ。

その時に産んだ第一子は今年7歳になる。子供を産んだことで何も問題が無かったかというと、問題はある。常にある。心配事もたくさんある。

夫婦間でも、二人だけだと問題がなかったのに、子供が中に入ることでいろんな問題が出てきた。育った環境があまりに違うので、子供への対応が違いすぎるのだ。私は実家のやり方は明らかに間違っていると思っているが、この身に染み込んだズレた価値感が子供を通して、無自覚・自覚問わずどんどんむき出しになっていく。

それはとても恐ろしいことだ。恐ろしいことだが、子供と暮らす生活は自分を深く見つめ直すきっかけが明らかに増える。そして、それは自分を育てるということでもある。自分の遺伝子が含まれた子、自分の価値観で育てる子。そんな子を通して、夫と共に自分自身を育てている、育てなおしている感覚だ。

子供を産むことも、育てることも、その人の自由だ。よくも悪くもイベントが増える行為であり、子供に関してはすべての人にとってプラスに働くとは思わない。ただ、私にとっては子供がいなければ実家への気持ちはもっとこじれていたかなとは思う。

すべてが良いようにはいかない。夫の実家は、私の実家とはまるで逆で、どちらかというと優しすぎる、過干渉なご両親だ。そんなご両親が、夫に、私に自分たちの利益などそっちのけで、優しくする度に私は思うのだ。

『私も両親に愛されたかった』

しかしこれは残念ながら一生手に入らない。どんなに望んでも手に入らない。これは諦めないといけない。だから、私は私の家族を作って、替えはきかないものの替えをきかそうとしている。その『替え』が何にあたるかはその人それぞれだと思うが、別の家、自分の新しい家族というものはかなり自分の実家の替えに近いものだと私は思う。

ふつうの家の人も、ふつうではない家の人も、結婚したり出産したりすることで人生は良い方にも悪い方にも転がる可能性がある。どうなるかわからない。でも、次に進むことをためらっていても、明日は来るし、仕事はしなければいけない。とりあえず前に進んでいくことで、見えることも多いのではないか――そんなことを伝えたかった。

『成功したからそんなことを言えるのだ』という声が聞こえてきそうだが、それは当然その通りだ。なお私は昨夜自分の能力の低さに悩み、死にたくて4時間も泣いていた。こんなことはよくある。成功していても、こんなものだ。

私はこれからも実家と戦い続けなければいけない。といっても10年前よりは夫や子供たちのお陰で割り切ることが出来ている。

いつか、実家と本当の意味で離れられたら嬉しい。

本当の自立を目指して、頑張ろー。

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