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姫田忠義『ほんとうの自分を求めて』を読んで

本書について、書き残しておこうと思う。この本との出会いは、いわば必然であった。

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■地平線会議と今井友樹さん

これを手に入れたのは、「地平線会議」という一種の寄り合いで、ドキュメンタリー映画監督 今井友樹さんが報告をされたときだった。

そのころぼくは、自身の水流ラン活動をどうにか世に認知していただこうと、当時は骨折治療中で走れなかったことも相まって、鼻息荒く動き回っていた。

そんなさなかに今井さんの報告を聴き、同会議につらなる他のかた──冒険家や探検家たち──とはちがう新鮮な印象を抱いた。ぼく自身にいちばん近いかただとも思った。

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その今井さんが語っていた姫田さんを、ぼくは知らなくてはいけないような気がした。買ったまま、オレはこれをいつ読むのだとつねに気にかけつつ、一年半ちかく本棚を飾っていた。


■文化人類学と本多勝一、宮脇檀先生、真島俊一所長

学生時代、文化人類学という分野に関心を持った。『カナダ・エスキモー』にはじまる本多勝一の極限の民族三部作を読み、ぼくがやりたいのはこれだ! と衝撃を受けたのだ。

すこしあとで建築家・宮脇檀を知り、大学で宮脇ゼミに入った。社会で研修を受けよとの大学三年の夏休みの課題に、宮脇先生に「建築で文化人類学をやりたいので、どこか紹介してほしい」と相談した。思い出すだけで恥ずかしくなるような稚拙な相談だが、そのときは真剣にそう思った。

たまたま横にいた中村好文先生とともに、面倒なやつが来たなぁという感じの苦笑いを含ませながら「お前なぁ、文化人類学じゃあ食えねぇぞ」とぼやきながらTEM研究所という日野市にある設計事務所を先生は紹介してくれた。

そこの真島俊一所長がぼくに渡してくれた冊子『あるくみるきく』がいまもぼくの手元にある。所長自身がジャカルタの現地調査をしてきた、新婚旅行記という名の民俗調査報告書の回だ。


■地球永住計画と関野吉晴さん

あの夏から、四半世紀近くがたった。

その間のぼくは、岩手で社寺建築の調査や、モロッコで建築遺跡調査もどきのようなこともしたが、まったくうだつの上がらない、ショボい日々を送り続けていた。

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そんな自分自身に決別すべくはじめた水流ランの活動が思うように展開できず苦しんでいるとき、関野吉晴さんの「地球永住計画」公開講座を知った。そこで振り返られているグレートジャーニーに、ぼくが喉から手が出るほど求めている答えがあるのではないかと思った。いや、あるはずだと信じた。

毎回最前席を陣取り、そして必ず質問をすることを自分に課した。なにせ、ぼくの将来の鍵が目の前にあるのだ。必死だった。あるときなど、この不定期開催講座への出席をめぐって、妻と大げんかしたこともあった。妻にしてみれば、関野さんの話はわたしよりも大切なのかとの思いがあったことだろう。

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結果的に、関野さんはぼくに何も教えてくれなかった。当たり前だ。答えは与えられるものではなく、自分で見つけ出すものだからだ。

ただ、新たな出会いがあった。頻繁に顔を合わせるうちに、極度の人見知りのぼくでも何人かとは会話をかわせるようになっていたが、そのなかのココさんと坪井さんのふたりに、「地平線会議」に出てみてはどうかとすすめられた。

半年ほどはためらっていたが、2018年の夏、観念して足を運ぶようになった。そして2度目の出席の回で報告されていたのが、冒頭の今井友樹さんだった。


■観文研と宮本常一さん

告白すると、ぼくは「地平線会議」の存在すら知らなかった。それどころか、文化人類学について関心があると言いながら、宮本常一先生のことも存じ上げなかった。

野球が好きですと言いながら、王長嶋はおろか、野茂もイチローも知らないくらい間抜けなことだろう。でも本当だったのだから仕方ない。

まわりから時折もれ聞こえてくるカンブンケンという言葉も、その時初めて聞いた。日本観光文化研究所のことだと、いまさらながら知った。


■ジャーニーランナー・坪井伸吾さん、三輪主彦先生と『あるくみるきく』

「ずっとファンでした」と偽って近づいたことからはじまった坪井伸吾さんとの付き合いは、いまではぼくにとって無くてはならないものとなった。

そしてほどなく、「地平線会議」の映画祭で声をかけていただいた三輪主彦先生が何者なのかを知った。度肝を抜かれた。ぼくのランニングスタイルは唯一無二、未開拓の荒野をさびしく、そしてすこしカッコよく独走しているのだと思っていたのだが、なんのことはない、すべて三輪先生がとっくにやっていたことだった。ぼくは坪井さんと三輪先生を私淑することに決めた。そして、いつかこのふたりを超えるのだ。

そんなぼくの気持ちを察したのか、坪井さんが酒席を用意してくださった。ぼくと三輪先生をつなげる意図があったのだと思う。三輪先生の走友である下島さんも同席され、ジャーニーラン界の王長嶋と野茂に囲まれたぼくは完全に舞い上がり、話したかったことの十分の一も話せなかった。

宴もたけなわ。銘々が自身の報告書や著書を取り出し、慌ただしく交換しだした。そのとき、ふと、見覚えのある冊子が視界に入った。

「あっ!」

思わず声を上げてしまった。『あるくみるきく』がそこにあったのだ。

学生時代の記憶が急速によみがえってきた。おそるおそるTEM研究所と真島所長の名前を出してみた。

「あぁ真島君な。よく知ってるぞ。こんど宮本常一さんの水仙忌で会うよ」

絶句した。なんなんだ、この集まりは。ぼくの知っているひと、憧れている大先人の名前がつぎつぎと出てくるではないか。

ちなみに真島所長は、宮脇先生を慕っていた。宮脇さんともまた飲みてえな! よろしく言っといてくれよ! と大きな図体で豪快に笑っていたが、そのわずか数年後、約束を果たさぬまま、先生はあっという間にこの世を去ってしまった。

ついでに書くと、関野吉晴さんのことは、宮脇先生と同時期に『新ビーグル号探検記』というテレビ番組で知った。アマゾン奥地とギアナ高地にわけいっていく関野さんの姿に、一発で魅せられてしまった。それはぼくが憧れる本多勝一の文化人類学の世界そのものだった。渋谷の展覧会会場で、エレベーターに乗りこもうとする関野さんに声をかけて握手していただいたあの感触はいまでもはっきりと覚えている。

そして関野さんは、宮本常一さんのあとを継ぎ、昨年まで武蔵野美術大学で文化人類学を教えていた。その公開講座の一環で、ぼくは関野さんと再会したのだ。

すべてはつながっていたのだ。まさにすべて、ことごとく。


■姫田忠義『ほんとうの自分を求めて』

2020年5月3日。

ほんとうならいまごろぼくは、「東海道餃十三次」というランニング企画で、伊勢湾あたりの旧東海道を西進しているはずだった。この世界を揺るがしている新型コロナ騒動さえ起こらなければ。

読むならいましかないと思った。

しぜんに手が伸び、ひさびさに一冊の本を一気に読んだ。中断したら、姫田さんの精神がこもった言葉をきちんと受け止められない気がした。

いま読むべき一冊だった。やはり、すべてはつながっていた。大きな力がぼくをここに導いてくれたのだろう。

いまのぼくにいちばん必要なことがこの一冊に詰まっていた。


■瀬戸内海の海賊


本書の中で、胸に刻み込んでおきたい記述はいくつもあったが、そのなかでもぼく自身の由来や体験に関係のあることをふたつだけ書いておこう。

宮本常一さんが瀬戸内海に浮かぶ山口県の小島出身で、瀬戸内海の海賊に大きな関心を寄せていたことに触れた文章に、息が詰まりそうになった。

オンラインマップでその位置をたしかめた瞬間、思わず天を仰いだ。

宮本常一さんを生んだ屋代島は、ぼくの先祖の由来でもある二神島と目と鼻の先だったのだ。そして、二神家の遠い先祖は海賊だったと聞いている。


■二風谷と萱野茂


もうひとつは、姫田忠義さんと萱野茂さんによるアイヌの話。

息子が生まれて半年たった2014年の9月下旬、家族四人で北海道旅行をした。

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家族旅行なので、原則としてぼくの個人的な興味関心は排除した。がひとつだけ、二風谷のアイヌ資料館だけはぼくの強い希望で寄ることにした。

本多勝一の『アイヌ民族』で知ったユーカラを、ぜひこの耳で、しかも現地でアイヌが歌うそれをどうしても聴きたかったのだ。

下調べもほとんどしないまま、現地に入った。すでに初雪がふった北海道のキャンプ場はどこも店じまいをはじめていて、閑散としていた。

半ばあきらめていたが、運よくその夜はちかくの施設でユーカラを演じるときき、でかけた。

囲炉裏のわきで、4歳の娘を膝上に抱いてもらいながら、アイヌのユーカラを聴いた。ぼくはあのとき聴いたユーカラほど悲しくそして美しい歌を、いまだ他に知らない。学生時代からの夢がひとつかなった──と思った。

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そんなことがあったので、本の中でアイヌと萱野茂さんの話が出てきたとき、ぼくは驚いたというより、「つながった」と思った。姫田さんと茅野さんの出会いが、ぼくが生まれる一年前の1971年だったことを知ったときも、不思議に当然のことのように思えた。

すべてはつながっている。

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