ホフマン『砂男/クレスペル顧問官』――エロ小説書き、本を読む#1


 ひょんなことから、ガチガチのR18小説を書き始めてしまったアマチュア小説書き。でもだからこそ、本を読まなくちゃ!
 というわけで、中断していた読書感想記事を再開することにしました。相変わらず無節操な行き当たりばったり読書、よろしければどうかお付き合いのほどを。
 過去の読書感想 →https://zsphere.hatenablog.com/


 もともと、ロボットとか人工知能なんかに関心の一端があったわけですけども。その関連で、たまに見かけていたんですよね、『砂男』。なかなか気になっていたので、良い機会だから読んでおこうと手を伸ばした次第。
 なお、ホフマン作品はこれが初。まぁ読んでない有名作品いっぱいありますゆえ。

 表題作「砂男」は、なんとも言えない後味が残る作品でした。昔、北村薫が『謎のギャラリー』というアンソロジーの自選コメントで、クレイグ・ライスの作品について「何か妙なものを食べてしまったような」落ち着かなくなる読後感、という言い方をしてましたが、まぁそんな感じ。こんなの読んだら後でお腹壊しそうで怖いな、って気分になる小説あるよね。

 主人公を惑わせる機械人形オリンピア。今日的な視点から見るとそこまで高性能な機械という描写はされてませんが、だからこそ「人の形をしたモノ」の厄介さという問題が浮き彫りになってたな、と思えました。
 昔、人工知能将棋ソフトとプロの将棋棋士の対局で、人工知能側が長考(というか計算中)で時間を使った時に、観戦中の棋士が「これはコンピュータ側が困ってますね」とコメント、それを聞いたソフト開発者が「機械が困るはずがないのに」と思ったという話を読みましたけれども。
 人間って、人の形をしたモノ、人と同じことをするモノにはどうしても人格を投影してしまうですね。本作の主人公が、明らかに言動がおかしくまともな会話も成立しないオリンピアの様子をいぶかる友人に「お前には彼女の内に秘めた美しさが分かっていない」と言い放つ場面を読みつつ、そんなことを考えていました。
 さらっと地の文で流されてしまいますが、本作の白眉は、このオリンピアの一件が世間に知られてから、町の男たちが自分の彼女も機械人形ではないかと不安になり、歌を歌う時にわざと拍子や音程を外すよう望んだ、というくだりだと思います。精巧に人を真似た機械が出てくるほど、我々は我々自身の「人間性」を揺さぶられて、だんだん自信をなくしてくわけですよね。この辺り、人工知能を巡る技術が発展するほど、我々に差し迫ってくる問題だと思います。

 ロボットや人工知能に関連したSFなどの古典作品を読むたびに、「ここで示されてる問題意識は令和の今だからこそより喫緊の課題だなぁ」と思わされることがあまりに多くて。先人の想像力というのは偉大なものだなとしょっちゅう思わされることでした。

「クレスペル顧問官」は最初こそ奇矯な人物を巡る話ですが、物語の背景が語られればすんなり意味が通ってしんみりする類いの話。よく出来てました。
「大晦日の夜の冒険」は、ちょっと懐かしい読み味という感想。学生の頃夢中になって読んだ芥川龍之介『歯車』とか、内田百閒『東京日記』と似た味がした気がしたんですね。淡々と、読者を突き放すような文体で理不尽な、漠然とした恐怖が語られていく前半部分の感じがすごい懐かしかったです。むしろ前半部分が良すぎて、後半で話に目鼻がついた時にかえってもの足りなさをちょっと感じてしまったくらいw まぁこれは個人的な好みの話ですが。

 やっぱり短編は小道具が効果的に使われてると映えますよね。「砂男」の遠眼鏡、「クレスペル顧問官」のバイオリン、「大晦日の夜の冒険」の鏡。テーマと直結した印象的な小道具が話の背骨に入ってると、効果的にまとまる、というのは自分で作品を書く際にも非常に参考になる手並でありました。この辺は実作者として勉強になったところ。

 そんな感じで。
 この『砂男』を例にしつつフロイトが「不気味なもの」について論じた作品があるそうで、そちらもちょっと気にはなっています。せっかく砂男読んだんだしそっちも覗いてみたくもありますが、まあフロイトの代表作も目を通してないので、そっちはいずれ、って感じかな。

 今回は以上。
 

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